劉備のそばに仕えた虎臣の一人、超人・張飛そのクライマックス

2025年3月11日(火)5時50分 JBpress

 約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?


呉の周瑜から、勇猛無比と言われた劉備配下の猛将張飛

 前回の関羽と並び称される勇猛な武将で、劉備配下で知らぬ人がいない存在に「張飛」があります。張飛も、劉備が黄巾の乱で挙兵(184年)してからずっと劉備に付き従い、劉備への信義を貫いた武将でした。

 赤壁の戦い(208年)に呉と劉備の連合軍が勝利したのち、劉備は孫権の妹を妻として、210年には荊州を借りることを孫権に依頼します。そのとき、呉の名臣周瑜は次のように述べました。

『劉備は梟雄としての資質を備え、しかも関羽・張飛といった勇猛無比の将を持つゆえ、久しくは人の下に屈していますまい。みだりに土地を割いて、劉備に基盤を与えるのは最も危険です』(書籍『正史三國志 群雄銘銘傳』より)

 また周瑜は、劉備と関羽、張飛を引き離して、勇猛無比な関羽と張飛を自分(周瑜)が指揮すれば、天下を収めることもできると発言しています。それほどに、呉軍側からも関羽と張飛の武勇は高く評価されていたのです。


群雄割拠の大地で、生き延びるために流浪する主従

 劉備と張飛は同じ地域の生まれ(現在の河北省)であり、彼らは挙兵したのち、戦闘を続けながらも、各地の有力武将に近づいたり離れたりしながら南下していきます。確固とした拠点を持つ勢力となったのが、赤壁の勝利ののちの210年頃と考えると、劉備一行は非常に長く流浪していることになります。

 劉備一行が一時、曹操配下となったときには、張飛は曹操から中郎将に任じられるなど、武将として一定の評価を得ていました。曹操陣営から離れたのちも、袁紹、劉表陣営に身を寄せて、傭兵軍団的な戦いを続けていきます。

 関羽と異なり、張飛は劉備と離れて別陣営の傘下となったことはありませんが、張飛の人生は劉備と関羽との信義で固く結ばれており、決して裏切ることのない信頼関係だったことがわかります。


張飛の若き日の武勇、そのクライマックスである「長坂橋の戦い」

 張飛の若き日のクライマックスは、208年の長坂橋の戦いでしょう。赤壁の戦いの前に、曹操が荊州に侵攻。劉備は逃げるためにひたすら南下していきます。避難する住民も引き連れての逃避行なので、劉備側の進行速度は遅く、曹操軍は当陽県の長阪で追いつきます。

 劉備は妻子を捨てて、わずか数十騎で逃げますが、張飛は殿軍を務め、長阪の橋を落として目を怒らせて、矛を横たえて曹操軍に向けて叫んだとされています。その恐ろしい形相に、あえて戦いを挑む者もなく、劉備一行は絶体絶命の危機から逃れることができました。

 関羽と共に「熊虎」と表現された張飛の武勇がみごとに発揮された瞬間でした。しかし、悲しいかな当時の劉備軍団の脆弱さゆえに、あくまで撤退戦で一人の猛将として意地を見せたに留まります。張飛の武将としての優秀さが本格的に発揮されるのは、赤壁の戦い以降です。


成都攻略と漢中攻略における張飛の2つのクライマックス

 成都攻略の援軍として、214年に張飛は孔明、趙雲とともに出陣します。その際、劉璋配下の武将厳顔を撃破し、厳顔をとらえたときのエピソードも有名です。張飛は、大軍が来たのになぜおまえは降伏しなかったのだ!と一喝しますが、厳顔は涼しい顔で『わが州には断頭将軍はいても降将軍はいないのだ』(書籍『正史三國志群雄銘銘傳』より)と答えます。

 この厳顔の態度と言葉に感じ入った張飛は、彼を許して丁寧に扱います。この対応により、武将厳顔も劉備側の将軍として加入することになるのですが、その後の厳顔の活躍は正史には描かれておらず、三国志演義では老将軍の黄忠とコンビを組んで活躍する創作がされています。

 2つ目のクライマックスは、215年に侵攻してきた魏の名将張郃を打ち破った戦いです。張郃は袁紹陣営から曹操の陣営に移った武将でしたが、曹操軍に参入してからは数々の戦功を打ち立てた人物です。その張郃を山中での戦いで敗北させ、張郃はわずか十数騎で逃げ延びます。

 張飛が、魏軍で活躍した名将の一人と、互角以上の武勇を誇ったことを示すエピソードです。また劉備軍団自体の充実に合わせる形で、張飛は突出した武勇を次第に武将として発揮していったこともわかります。


義兄のような存在の関羽の敵討ちをできず、悲劇の死を迎える

 219年に劉備が漢中王になると、張飛は右将軍に昇進します。これは張飛にとっても、仲間がそろっている状態での最高の栄誉でした。その数か月後に義兄とも呼べる関羽が敗死、張飛はひたすら敵討ちの機会を狙います。

 ついに221年に、劉備は関羽のとむらい合戦として、呉への進軍を開始。

 張飛は1万の軍勢を率いて、劉備と江州で落ち合うことになっていましたが、部下の裏切りにあって暗殺され、その首級は裏切った部下によって呉に渡されてしまいます。張飛は上に敬意を払うものの、下の者に情けをかけず暴力的な指揮を繰り返していたことが理由でした。

 呉軍から「虎臣」とも「熊虎」とも呼ばれた豪傑の中の豪傑の、あっけない死ではありますが、劉備と蜀のファンにとっては、これからまさに張飛の武威が必要とされた瞬間に世を去ったことになります。張飛の死で、劉備は兄弟と呼べるような最古参の左右の仲間を二人とも失い、失意の中で絶望的な対呉侵攻を続けていくのです。

筆者:鈴木 博毅

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