紀州徳川家の城として知られる和歌山城、原型を築いた豊臣秀吉の名残と、浅野、徳川の変遷が見られる稀有な城
2025年3月18日(火)6時0分 JBpress
(歴史ライター:西股 総生)
御三家の一つ、紀州徳川家の城
和歌山という街には、いい意味での地方都市っぽさがある。大阪から阪和線快速で1時間半ほどという距離感は、首都圏でいうなら東京から小田原か君津あたりに相当しそうだが、和歌山の場合は県境(昔でいう和泉と紀伊の国境)の山あいを越えることで、一気に大都市圏を脱した感じになる。
大阪にくらべて、どこなく垢抜けないといってしまえばそれまでかもしれない。でも、もっと何か、京阪神圏とは違う歴史と文化に育まれた地域なんだぞ、という空気が色濃く漂っているように感ずる。
それもそのはず、和歌山といえば何といっても御三家の一つ、紀州徳川家55万石の城下町である。紀州徳川家は家康の10男である頼宣(よりのぶ)が、元和5年(1619)に入封したことに始まる。代々の藩主でもっとも有名なのは、やはり第8代将軍となった吉宗(紀州藩主としては第5代)であろうが、幕末の第14代将軍家茂(いえもち)も、この家から出ている。
というわけで、どうしても紀州徳川家の居城というイメージが強い和歌山城ではあるが、近世城郭としてのこの城の歴史はもう少し古い。いまに伝わる和歌山城の原形を築いたのは、実は豊臣秀吉なのである。
天正13年(1585)、紀伊に侵攻した秀吉は根来寺や雑賀・太田党らを滅ぼして、弟の秀長の封土とした。秀長の居城は大和郡山であったから、和歌山には支城を築いて城代に桑山氏を入れることとなったが、城は秀吉が自ら城地を選んで基本プランを練ったという。占領地に対する、こうした処置の素速さ・抜け目のなさが(苛烈さでもある)、秀吉をして天下人たらしめた才覚であったろう。
その後、関ヶ原合戦の戦功として、和歌山には浅野幸長(よしなが・長政の嫡子)が32万石で入り、城を改修する。その浅野家が大坂の陣ののち広島に転封となって、徳川頼宣が入ってくるわけだ。
こんな歴史をたどった城だから、いろいろな時期の要素が混じっている。城としては典型的な平山城で、小高い丘の上の部分は基本的に豊臣時代のプランニング。丘の上を本丸御殿の区画と天守曲輪とに分け、いよいよになったら天守曲輪だけで徹底抗戦できる設計にしているあたり、いかにも戦乱の時代の城らしい。
丘の上から中腹にかけては、豊臣時代・浅野時代の石垣が混在している。二ノ丸以下、山麓の曲輪群は浅野時代に基本形が成立し、徳川時代に拡張・改修されたもので、石垣の技法も総じて新しい。御三家の城だけあって、石の加工も積み方も念が入っている。
丘の上の天守は何度か建て替えられたらしいが、弘化3年(1846)に落雷で焼失したのちに再築されたものが戦前まで残っていた。惜しくも空襲で焼失したが、資料を基に鉄筋コンクリートながら外観は旧天守に忠実に復元された。
面白いのは、天守台の石垣が豊臣時代のものらしいこと。大天守の石垣は途中に犬走を入れているが、おそらく当時の野面積みの技術では、一気に高く積み上げるのが難しかったからだろう。この石垣を生かしながら天守を建てると、犬走のところが防禦上の弱点になってしまうので、天守の角に袋のような形の石落としを備えている。
などと考えながら、石垣や縄張を眺めて歩いていると、時のたつのを忘れる。思索の城歩きを地方都市らしい、どこかのんびりした空気が包んでくれるようで、心地よい。
筆者:西股 総生