ヤマザキマリ イタリアにて200平米・築500年の家から引っ越して。95歳の家主の女性から莫大な修繕費を要求されるも、彼女の娘から知らされたまさかの事態とは
2025年3月19日(水)12時30分 婦人公論.jp
昨年末、引っ越しの対応に奔走することになったというマリさん。「今回は酷かった」と語るご主人、その理由は意外なところに——。(文・写真=ヤマザキマリ)
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引越しの物語
昨年の暮れ、イタリアのパドヴァで10年ほど暮らした家から引越すことになり、それにともなう手続きや片付けに奔走した。
私が滞在していた期間内ではすべてを終わらせることができず、最後の掃除は夫がひとりで対処したが、すべてが片付いたあとも、今回の引越しはなかなか酷かったと愚痴をこぼしていた。
築500年で200平米もある古い家の掃除なんて疲れて当たり前だよと返すと、理由はそこではないという。
夫が「別の家で暮らしたい」と
その家はパドヴァの街を流れる川沿いに面して数軒立ち並ぶ、後期ルネサンス時代に貴族や商人などが建てた屋敷のひとつだった。家主の女性はヴェネチアの商家の娘で、パドヴァの旧家であるその家に嫁いでから75年近くが経っていた。
彼女の夫はずいぶん前に他界し、その後は3人の子どもたちとともに暮らしていたが、娘の1人はヴェネチアの旧貴族に嫁ぐも離婚して、今は別の国に移住。もう1人の娘は夫と死別し、今は息子とともにその建物の別の階に暮らしてはいるものの、母親とは仲が悪かった。
家具デザイナーの息子は1階を住居兼仕事場にしていたが、妻が他に恋人を作って出て行ってからは荒んでしまい、コロナ禍の最中に母親と喧嘩をした勢いで外へ飛び出して事故死してしまった。
合理主義の塊のような夫がぼそりと、「別の家で暮らしたい」と呟き出したのは、そのあたりからだ。
読書家だった家主
夫はこの家に越してから、家主の女性とは良好な関係を保っていた。
読書家で、家へ行くと、読みかけの本が何冊も積まれたテーブルを前に、ゴブラン織のソファに深く座ってタバコを吸っている彼女の姿は、波瀾万丈の人生をエレガントに封じ込めた老年のココ・シャネルみたいでかっこよかった。
比較文学研究者である夫には常に敬意を込めた態度で接し、時々お茶に呼んでは本の話なんかをしていたようだが、引越しを告げたとたん、彼女の態度は豹変したという。
家賃収入だけでやりくりしている彼女にとって、老朽化した大きな家に新たな間借り人を探すのは大変なことだし、その前に済ませておくべき修繕にかかる費用も相当な額になる。
蝶番が腐って閉まらない窓の鎧戸も、水回りの絶えない故障も、屋敷全体で修繕をしない限り解決されないというのが業者の見解だった。
夫と彼女との関係も崩壊して
夫は家主から莫大な修繕費を要求されて驚き、弁護士を介し、契約書通り、経年劣化による修繕費は間借り人に請求できないという返事をしたが、それを機に夫と彼女との関係も崩壊してしまった。
しかし、それから間もなく彼女の娘から、実はその家がすでに売りに出されていることを知らされたのだという。
母ももう95ですから、来年からは施設に入ります、ということだったが、夫曰く、家主にはそれを認識している様子はまったくなかったという。
私たちの新居の窓からは、今まで暮らした屋敷の庭にある大きなレバノン杉のてっぺんが見える。家主が「私の相棒よ」と自慢にしていた樹木だが、夫はその景色から視線を逸らすと、大きなため息をひとつついた。
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