幕末志士に影響を与えた後期水戸学、それに至るまでの「朱子学」「国学」、平田篤胤というカリスマが生まれるまで
(町田 明広:歴史学者)
後期水戸学とは
幕末に生きた武士たちに対し、最も影響を与えた学問・思想と言えば後期水戸学であることは、論をまたないであろう。第9代水戸藩主・徳川斉昭の治世である18世紀末期から幕末にかけて、水戸黄門の名で有名な第2代藩主光圀が始めた『大日本史』の編纂事業は継続しつつ、政治的課題の解決にも目を向けたのが後期水戸学である。その舞台となったのが、斉昭が水戸に設置した藩校の弘道館であった。
後期水戸学とは、江戸時代の諸思想・学問を整理統合したところに大きな特色がある。幕府が封建社会を維持するために重視した朱子学をベースにし、上下の身分秩序を重んじて、礼節を尊ぶ精神を引き継いだのだ。
また、経世論も取り入れ、政治・経済・農業・国防などを論じた。特に国防論を重視しており、鎖国論を堅持して攘夷を声高に主張し始めた。加えて、平田国学を受け入れて、東アジア的華夷思想の中心に天皇を据え、尊王論の勃興を促したのだ。ナショナリズムの全国への浸透は、こうした後期水戸学によってもたらされたと言っても過言ではない。
今回は、後期水戸学に至る思想(学問)の系譜について、朱子学と国学とはどのようなものかを改めて説明し、特に幕末に大きな影響を与えた平田篤胤を中心に論じたい。
朱子学とはどのようなものなのか?
幕府の開闢当初に受容されたのは、儒学の一派である朱子学であった。その理由は、極めて世俗的な倫理観を持ち、上下の身分秩序を重んじて礼節を尊び、封建制に適した教義を備えていたからに他ならない。このような朱子学の理念をうまく利用することによって、幕府は思想的に武士の統制を図り成功を収めたのだ。
また、朱子学は徳川公儀体制(幕府は老中による譜代門閥制、朝廷は関白による摂関制。幕府が朝廷を事実上、包摂する体制)の危機を強く意識させた。そして、世を治め人民を救うこと、すなわち経世済民の具体的な政策などを論じて、為政者の覚醒を促す経世論を生み出したと言えよう。
為政者とは、誰のことなのか。大名である場合ももちろんあるが、実際には将軍以下、幕政を主導する老中をはじめとする、主として幕閣のことであった。経世論とは、実は幕府に対する警告論であったのだ。
経世家の登場
この経世論を唱える在野の知識人を、経世家と呼んだ。経世家が誕生した背景として、幕府や諸藩の財政窮乏はもちろんのこと、富の集中や賄賂の横行、農民の疲弊など、様々な社会矛盾の顕在化があったのだ。
経世家が唱える政策の対象は、政治(思想)・経済(商業・貿易)・農業・国防など、多岐にわたった。その中で、特に彼らが注目したのが国防、とりわけ海防論であった。しかし、幕府を批判する者として警戒されてしまい、政治犯として処罰されたケースも少なくなかった。
18世紀後半になると、ロシアが蝦夷地(北海道)など北方に、19世紀前半にはイギリスが日本各地に接近し始めた。そのため、知識人、特に経世家は国家防衛上の警鐘を鳴らし始めたのだ。例えば、林子平や佐藤信淵らである。
ちなみに、林子平(1700—1767)は大槻玄沢・宇田川玄随らと交遊し、海外事情に精通しており、蝦夷地開拓の必要性を説いた。ロシアの脅威から征韓論を唱えるなど、海防に大きな関心を示した。なお、「三国通覧図説」「海国兵談」などの著作が幕府から大きな警戒を受け、蟄居に処せられた。林は、まさに典型的な経世家と言えよう。
国学と平田篤胤
次に、江戸時代の思想史のもう一つの奔流である国学である。元禄期に始まった和歌や古典を研究する和学から発展した。そして、『古事記』『日本書紀』の研究を通じて、18世紀前半に成立した精神世界を日本の古典や古代史の中に見出す学問である。
国学では、中華思想はもとより、仏教・儒教(朱子学)といった外来の思想・宗教などを排除することが説かれた。万世一系の天皇の存在自体を、日本の優越性の根拠としており、幕府より朝廷が重んじられ、尊王論や攘夷論とも共通する立場であり、皇国思潮の促進を後押ししたのだ。
国学は、「国学四大人(しうし)」、つまり荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤(1776—1843)の系譜を持つ。ここでは、平田について、言及しておきたい。
秋田藩士・大和田祚胤(さちたね)を父にもち、20歳で脱藩して江戸に赴き、備中松山藩士平田篤穏(あつやす)の養嗣子となった。独学で国学者として自立し、最初は真菅乃屋 (ますげのや)、後に気吹乃屋(いぶきのや)と称した。また、本居宣長の学問を古道学と規定し、その後継者であると自称した。
平田は儒教・仏教と習合した神道を批判し、天皇が行う政治の道の発揚を唱えて民衆を導いた。宗教的・神秘的色彩が濃厚であり、儒教・仏教に加えて蘭学やキリスト教まで援用して、平田国学を確立したのだ。
その中で、儒教や仏教に影響されない日本古来の純粋な信仰、つまり古道を尊重する復古神道を完成させ、『霊能真柱』『古史徴』『古史伝』などを著した。その思想は後期水戸学の生成に関与し、さらには尊王攘夷運動の大きな支柱となった。
平田によって、国学は復古主義的な国粋主義の立場を強め、民間から生まれた「草葬の国学」として、尊王攘夷運動という政治の変革を求める運動にも結びついた。平田国学は、まさに社会に大きな影響を与え続けたのだ。
筆者:町田 明広