麻原彰晃・在日説はなぜ拡散した? 今、総括するオウム真理教

3月20日(金)8時0分 tocana

画像は、YouTubeより(フジテレビ番組動画公式)

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 1995年は「震災」と「オウム」の年として記録される。1月に神戸を巨大地震が襲い、 6,000名を超す死者と4万人を超える負傷者を出した。3月20日には東京の地下鉄でサリンがまかれる事件が発生、13名の死者と、6,000名を超す負傷者を出した。これを機に、メディアの報道は、地震からオウムへとシフトする。


■麻原在日説の浮上

 サリン事件以降、疑惑が集中したオウム真理教の幹部たちは積極的にテレビに出演し、自分たちが「冤罪」であることを、時に他の宗教団体の名前を出してまで訴えた。しかし、 幹部の逮捕が相次ぎ、5月16日は教祖であった麻原彰晃が逮捕される。この間、メディアの報道はオウム一色に埋め尽くされることになる。その中には真偽があやふやな情報も含まれていた。そのひとつが、麻原彰晃の出自を「在日」とするものである。凶悪な事件が発生すると犯人が在日と規定される——さながら現代のヘイトスピーチにも通じるような現象である。

 麻原彰晃の在日説については、『宝島30』(宝島社)が1995年12月号において作家の中島渉氏が「麻原彰晃・出生の謎」を検証している。中島氏は、麻原の出生地である熊本をはじめ、韓国本土にまで渡り、詳細な調査を行った。


■真実を追った

 内容の解説におよぶ前に『宝島30』という雑誌について説明が必要だろう。『宝島』は現在も月刊誌として存在するが、1973年の創刊から1990年代まではサブカルチャー雑誌として認知されていた。読者層は10代〜20代の若者層が中心である。対して『宝島30』は 1993年6月に創刊され、タイトル通り30代の読者を対象とするものであった。ここでは、80年代に『宝島』とともに青春期を過ごしてサブカルチャーの世界にどっぷりと浸かり、政治や社会から遠く離れた者たちに「モノを考えさせる」ような硬派なルポルタージュが多く掲載されていた。そもそも80年代のサブカルチャーが示したものは、政治や社会から離れるような態度こそクールであるというものであった。70年代の『宝島』が取り上げていた、アメリカのサブカルチャーにおけるヒッピームーブメントやニューエイジ思想も、オウム的なるものの源流のひとつである。

 ヨガやチベット仏教のほか、サブカルチャーを含むあらゆるネタがパッチワーク的に組み合わされ、幹部は20〜30代、教祖ですら40代というオウム真理教に、『宝島30』は同世代として向き合い、翻弄されることになる。誌面は毎号のようにオウムネタで埋め尽くされ、 オウム騒動から1年を経た1996年6月に休刊してしまう。


■韓国の戸籍に麻原のルーツなし

 記事内容の解説へ移る。麻原彰晃在日説を追って、中島氏は韓国へ渡り、役場へ向かい戸籍調査を行う。家単位で出生や死亡情報が記録される戸籍制度は中国、朝鮮半島、日本と いった東アジアのみに存在するものである。戸籍を追ってゆけば第三者であっても、その 人物の出自をたどることが可能となる。

 結論から言えば、韓国の戸籍に麻原のルーツは見つからなかった。戦時中の創氏改名において麻原の本名となる松本性を名乗った朝鮮人はいたようだが、麻原の父や祖父の名前は見つからない。さらに、朝鮮で没したといわれる麻原の祖母についての記録も存在しなかった。

 麻原彰晃の父は朝鮮で生まれている。麻原の祖父が家族で日本から朝鮮へ渡り、現地で子どもが生まれたもので、麻原の父は外地生まれの日本人となる。戦前戦中においては取り 立てて珍しいことではない。祖父の職業については、高山文彦氏の『麻原彰晃の誕生』(文藝春秋)においては警察官とされているが、『宝島30』では日本人経営の農場に働きに来た小作人(自分の土地を持たない雇われの農民)とされている。

 注目すべきなのは、麻原の出自について調査をしに来た日本のマスコミは、中島氏の以前にはいなかったと記されていることだ。現在のように気軽に行ける観光地ではなかっただろうが、すでに国交もあり、飛行機で数時間の隣国である。さらに取材時から50年前までは「大日本帝国」であった場所である。それほど近い場所でも、明確なウラ取り調査は行われず、麻原彰晃在日説はひとり歩きしていたことになる。

 記事では在日説とともにささやかれていた被差別部落出身説についても、地元を訪れ、無関係であることが示されている。

 ならば噂の出所はどこであったのか。記事では麻原自身に原因を求めている。つまり、麻原は会う人物によって「私は在日」「私は部落民」と立場を変えた発言を行い、相手を取り込んでいったというものである。社会的な出自ばかりでなく、家族関係に悩みを抱えた信者に「私も親に捨てられた」とささやくことで、心を掴んでいったようだ。

 今からすれば信じられないことだが1990年代のはじめ、オウム真理教は、危険集団というよりは、ちょっとしたした変わり種宗教という扱いだった。教祖である麻原彰晃は、サブカル系雑誌でインタビューを受けたり、テレビのバラエティ番組に出演したりしていた。

「お固いイメージの新興宗教の教祖は意外とフランク」というギャップは、麻原自身が意識的に打ち出したもので、メディアは見事に騙されていたのかもしれない。それだけ麻原彰晃は人たらしであったとも言える。

 オウム事件から20年、総括されるべきことは無数にある。記憶は風化されるべきではない。
(文=王城つぐ/メディア文化史研究)

※画像は、YouTubeより(フジテレビ番組動画公式)

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