金澤翔子さんと母・泰子さんが『徹子の部屋』に出演。80歳を過ぎた泰子さんが語った「40年間の祈り」と「最後の願い」

2025年3月26日(水)12時30分 婦人公論.jp


(c)アトリエ翔子

2025年3月26日放送の『徹子の部屋』に出演する、書家・金澤翔子さん。ニューヨークで個展を開くなど世界的に活躍する傍ら、2024年12月には喫茶店「アトリエ翔子喫茶」をオープンし、活動の幅を広げています。今回は、母・泰子さんが翔子さんとの日々を綴った『いまを愛して生きてゆく ダウン症の書家、心を照らす魂の筆跡』から、一部を抜粋してお届けします。

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深く感謝の祈りを捧げる


翔子誕生から40年間、祈ることが私の仕事であった。

翔子は40歳になる。生まれてすぐに、生涯治ることのない知的障害を伴うダウン症児と告知された時、私は神に「この娘の病を奇跡で治してくれ」と祈った。当時は障害者に対する時代背景も悪く、奇跡ですぐに病が治る証を見せてもらわなければ耐えられなかった。

祈りに祈り、執拗に神に迫った。けれどダウン症は遂に治らなかった。今でもダウン症者である。

高齢出産であったために、このダウン症の娘を残して逝くことが怖かった。神に、どうぞせめてこの娘が5歳になるまで私を生かしてくださいと祈り、5歳になればせめて10歳までは生かしてくださいと祈り、そして20歳になった時、翔子の前途を阻まれた難問に出合い、切り抜けるために苦し紛れに書の個展を開催してあげた。

この個展で喝采を浴び、書家と言われるようになり、翔子に光が差した。書家として栄光に包まれた20歳の時から、私は神に向けて「ありがとうございます」と感謝の祈りに変わった。絶望しかなかった翔子が書の道を歩き始めて幸せになってきた。

30歳からは国連本部で日本代表のスピーチ、日本有数の名刹(めいさつ)や神社への奉納、県立美術館などでの立派な個展、海外での個展など大きなことを楽しく易々とこなし、ことごとく大成功を収めてきた。

30歳から、私は神のご加護にひれ伏してお礼の祈りを捧げた。

そして今、翔子は40歳を迎え、恐ろしいパンデミックも乗り越え、数々の栄誉に満ちた仕事もこなし、素晴らしい高台の天空に囲まれた部屋に引っ越し、太陽を見ては星を見ては雲を見ては青空を見ては幸せの日々に「ありがとうございます」と、至福の祈りの中で生きている。

80歳を過ぎて


翔子誕生から私はひたすら祈り続けた。40年間、祈ることが私の仕事であった。

祈り果てて後に、今私は80歳を過ぎ、翔子をこの世に残して逝かなければならない刻が迫ってきている。


『いまを愛して生きてゆく ダウン症の書家、心を照らす魂の筆跡』(書:金澤翔子 文:金澤泰子/PHP研究所)

知的障害者を授かった母親は二度大きく苦しまなければならない。障害と告知された時の衝撃的な苦しみ、それから歳月が経つと共に少しずつ、翔子の良さが見えてきて、絶望の淵から抜け出て穏やかになり、至福の裡(うち)に暮らしている。けれど、これから私は翔子を残して命を終わらせなければならない時期に近づいた。この障害者を残しての終活は難しい。

翔子は一人暮らしをして10年目に突入する。街の中で商店街の人に支えられ、翔子独特の魔法のような幻想の世界を失わずに皆に愛されて、堂々たる見事な一人暮らしを成り立たせている。

日本初の一人暮らし


私が翔子の一人暮らしを強行したのは、すでに父親も亡くなり兄弟姉妹もない身寄りのない翔子を残していくための私の覚悟の自立への道の選択であった。書を仕事にしながら、とにかく素晴らしい生き方で一人暮らしを達成しているけれど、一方でもう私の命もそう長くはないと思う。

書道は私の亡き後に翔子が一人で継続していくことは難しい。紙のこと、墨、筆、文言のこと等々、翔子の知能に応じた作品作り、席上揮毫(きごう)の舞台上でのお手番は私なき後は難しい。

知的障害者は一人で芸術活動を続けることは困難である。どうしても支える人がいなければならない。多分、翔子の書道活動を今のように活発に続けることはできない。書の道だけで生きた私は上手く社会に入って行けずに、翔子とどこの団体にも属さずに独特に生きて独自に一人暮らしをさせたので、独自に翔子の生涯を導いてあげなければならない。

翔子が一人暮らしをした頃は、日本にはまだ誰も翔子のようにヘルパーさんもなく完全に一人暮らしをするダウン症の方はいなかった。いわば日本初の一人暮らしであった。賢い翔子はこの一人暮らしを成功させた。私もこの見事な一人暮らしは大成功であったと感心する。

最後の願い


しかし、にも拘(かかわ)らずこのまま翔子を残して私は逝けない。翔子は書道に才能があると思われがちだが、他にダンスにも音楽にも才能はある。ただ私が書の道でしか生きられなかったので翔子も書家になっているのであって、もし私がダンサーであったなら、今頃、翔子は有能なダンサーになったであろうと思う。

しかしそれよりもなお翔子の真の最大の才能は、他の人を思いやり、優しく、淋しい人や悲しい人を救いたいという想いにある。

その翔子に最適な仕事は実はウエイトレスなのです。

私の亡き後は喫茶店を開いてあげておけば「いらっしゃいませ」と訪れる人をお迎えし、人の心に入りおもてなしをする、素敵な翔子の生涯の仕事になるだろう。

小さな喫茶店を開いてあげたい思いは長い間の私の願望であったけれど、諸々の事情に阻まれて喫茶店は開けないでいた。しかし私が80歳を迎え、やっと機が熟し開店の運びとなった。

私の最後の翔子への仕事選びの終活が完成する。これから、翔子は「翔子の喫茶店」で念願のウエイトレスになり楽しく生きていくでしょう。私の最後の想いが叶った。

私の人生は悲喜こもごも含めて素晴らしい人生であり、いつ終わっても良いと思うけれど、翔子を書家として残していくことが不安であった。しかしもう大丈夫です。

最後の願いを叶えてくれた神に、今、深く感謝の祈りを捧げる。

金澤泰子

※本稿は、『いまを愛して生きてゆく ダウン症の書家、心を照らす魂の筆跡』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。

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