【三国志の英雄】曹操・劉備・孫権の3人が発揮した「離れる戦略」の力

2024年3月27日(水)5時50分 JBpress

 約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?


正史『三国志』と、物語としての『三国志演義』のちがい

 よく知られていることですが、三国志には、主に正史と演義の2つがあります。三国志正史は、三国時代の終わりの3世紀末に陳寿が書き上げた史書(歴史書)です。三国志演義は、13世紀に羅漢中が書いた小説化された三国志です。これは、ご存じの方も多いと思います。

「三国志の英雄豪傑物語は、それから6百余年の十世紀には講談として語られていたという記録がある。こうして古い時代から語り継がれてきたものを、羅漢中は小説『三国志演義』として集大成したのである」(書籍『三国志の世界』)

 三国志演義は、正史をよりドラマチックに脚色した物語版と考えてもよいでしょう。のちに付け加えられた創作的なエピソードも多く、歴史上の人物として同じ名前で登場しても、正史と演義では性格や能力、行動が違うことがあります。これらは、主人公たちの魅力を際立たせるための演出なのでしょう。

 日本では、特に作家の吉川英治氏の歴史小説『三国志』が有名です。吉川氏の『三国志』は、三国志演義を元にして、さらに大胆にアレンジされています。劉備と関羽、張飛らの印象的な出会いの場面も追加されており、曹操や関羽の人物描写もより日本人に愛されるものとなっています。三国志演義は、小説として読むならとても魅力的なのです。

 しかしこの連載では、分析の対象としては正史を基本としていきます。理由は、人間の生きざまとしての分析は、史実のほうが適切であること。また、史実を分析することで、現代の私たちにも活用可能なエッセンスを導き出すためです。


政治悪化の反作用:英雄たちが活用した、2つの新戦略

 後漢の第10代皇帝である質帝(西暦138年生まれ)は、わずか8歳で叔父にあたる人物に毒殺されます。その叔父は、権力を簒奪。その血族までがわが物顔にふるまいます。社会を混乱させた叔父を、次の桓帝がクーデターで粛清(159年)。ところが桓帝のクーデターを助けた宦官勢力が今度は暴走して、社会はさらに混乱していきます。

 三国志の中心人物の曹操は155年の生まれ、劉備は161年の生まれ、一番年下の孫権は182年の生まれです。のちに皇帝となるこの3人は、社会が大混乱を迎えた最中にこの世に生を受けているのです。

 三国志で初期の悪役として有名な董卓がのちに権力を掌握することで、政治と社会の混乱は極限まで悪化します。この董卓に利用され、後漢最後の皇帝となったのが献帝(第14代、181年生まれ)です。

 この政治の悪化の極みの中で、三人の英雄である曹操、劉備、孫権は、次の2つの戦略を採用しました。

 1つ目は、混乱と政治悪の中で「リスクから離れる戦略」

 2つ目は、悪化を続ける政治と腐敗権力への嫌悪から生まれた、「民衆の不安と怒りを吸収しながら成長する戦略」です。

 この2つの戦略は、悪政で社会が大混乱を迎えたからこそ、非常に大きな意味を持ちました。この新戦略を利用、もしくは意識せずに利用していたことで、曹操、劉備、孫権は乱世の混乱を生き延び、時間と共に勢力を拡大させて皇帝にまで上り詰めることができたのです。


1つ目の「リスクから離れる戦略」:逃げる力の重要さ

 後漢の崩壊では、さまざまなリスクが生まれました。

【後漢の崩壊で生まれたリスク】
●古い権威が崩壊するリスク
●トップの権力争いに巻き込まれるリスク
●無謀な作戦を行う上司のリスク
●閉塞した組織で足を引っ張る同僚のリスク
●敵の攻撃から身を守れないリスク

 曹操は、先に紹介した董卓という将軍と戦い、形勢不利とみて首都から逃げています。そして、自分の根拠地で勢力を拡大する活動を始めます。劉備は、さまざまな陣営に転がり込み、その転がり込んだ先が滅亡の危機にあるときに必ず逃げ出して次の根城を探していきました。劉備は、誰かの下についても、その陣営とともに滅びることなく、リスクから離れることに何度も成功しているのです。

 最後発の孫権の父、孫堅は勇猛な武人でした。そして孫権の兄の孫策も、勇猛果敢な強い武人でした、(孫権の)兄孫策は、197年に所属していた袁術の配下から独立を宣言。中国の南方で独自の地位を固め、中央からの干渉を跳ねのけることに成功します。

 ところが勇猛果敢な兄の孫策は、刺客の襲撃により26歳の若さで死去。兄の遺言により、弟の孫権は江東の根拠地を守り、中央への侵略戦争については一貫して控えていました。勇猛果敢さと武勇で、兄より劣る孫権がもし大規模な戦争を計画すれば、父や兄と同じように、あるいはもっと若くして戦死していたのではないでしょうか。

 孫権は、父や兄が作り上げた江東の地を守り、中央に打って出るリスクを避けて成長を続けたのです。


2つ目の成長戦略:曹操が黄巾の乱で、最強の青州兵軍団を手に入れた理由

 後漢から三国時代の始まりは、古い秩序や支配体制が崩壊するときでした。支配者の権力争いに巻き込まれないため、曹操は危機を察知して首都から離れました。曹操と、曹操の当時の盟友だった袁紹の乱世のキャリアは、後漢の首都から逃げることから始まったのです。

 一方で為政者の暴虐と悪政、腐敗でもっともしわ寄せを受けるのは民衆です。今日のビジネスなら、巨大企業が業績不振で、まっさきにリストラ候補になるのも同じ立場の人たちです。社会体制が崩壊する、長く続いた社会秩序が転換期を迎えたとき、民衆に広く、大いなる不満と怒り、束縛への根強い抵抗がうまれていきます。

 中国全土で広まった、黄巾の乱(184年〜)は民衆の怒りのあらわれです。

 彼らは腐敗と悪政を繰り返す為政者に、反旗をひるがえしたのです。

 問題が多い時代には、人は問題解決ができる新たなリーダーを求めて移動します。表現を変えるなら、腐敗した無能なリーダーを「大量に見限る時代」を迎えていたのです。

 時代の転換点で、問題解決のできない組織、地域からは人が逃げていきます。そして、新しい希望と、安定や夢を求めて、人は違う組織や地域に移住をして生活を始めるのです。

 それは、時代についていけない旧態依然の企業から人が流出し、新時代の変化を乗り越えつつある企業へ、人が吸い寄せられていくのに似ています。

 曹操は若き日に、黄巾の乱の討伐のために戦っています。苦戦の末、青州地域の黄巾軍を降伏に追い込みますが、その軍団は兵士30万人、民衆10万人という規模。中でも最精鋭を選んで青州兵と名付けた部隊は、のちの曹操の快進撃の原動力となっていきます。

 黄巾の乱で降伏した反乱軍が、曹操の軍団に吸収されたのは、曹操に負けたことだけが理由ではありません。曹操が彼らに宗教の自由を保障し、家族たちに土地を与えて帰属させたからです。食糧生産力を高める、屯田性の始まりです。青州兵たちは、家族を守り、生きる道を与えてくれた曹操の保護政策に恩義を感じて奮戦します。

 曹操の民衆保護政策を聞きつけて、民衆が彼の領地に集まっていきます。この求心力が、後漢後の混乱期に曹操を大英雄に押し上げる力となりました。

 のちに蜀を興した劉備は、漢帝国の復興という旗印を掲げていましたが、これは安定した社会を渇望する人たちの胸を熱くする目標だったのではないでしょうか。江東の地で安定した勢力基盤を持った孫権とその配下は、中央の干渉のない自由な場所で手に入れた勢力と豊かさを、手放したくない欲求にかられていたに違いありません。だからこそ、守成に強い孫権を支えることが、配下の武将たちにも魅力的にみえたのです。

 悪政が広がると、大衆は安定と新たな豊かさを強く求めます。その想いは、腐敗した古い組織を見限り、新たなリーダーと新たな組織への人的資源の流入の巨大なトレンドになっていくのです。

筆者:鈴木 博毅

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