『べらぼう』でも話題、吉原の女将たちはなぜ、眉を剃り落としているのか?江戸時代の女性の化粧のリアル
2025年3月31日(月)6時0分 JBpress
(鷹橋忍:ライター)
今回は江戸時代の女性の化粧について、大河ドラマ『べらぼう』の時代を中心に、取り上げたい。
眉化粧:なぜ、吉原の女将たちが眉を剃り落としているのか?
現代の女性の化粧においても、眉は重要なポイントである。
故に、水野美紀が演じる松葉屋の「いね」や、安達祐実が演じる大黒屋の「りつ」、かたせ梨乃が演じる二文字屋の「きく」など女郎屋の女将たちが、揃って眉を剃り落としているのに、違和感を覚えた方も少なくはないのではないだろうか。
江戸時代の庶民の女性は、懐妊後、あるいは出産後に、眉をすべて剃るのが、ルールだったという。
庶民の女性が剃るのみだったのに対し、上流階級の女性は剃った後に眉を描いた。
上流階級では、女性の眉化粧の決まりごとは礼法として確立した。
上流階級の女性は家々の礼法に従い、ある程度の年齢に達すると眉を剃り落とし、定められた形の眉を描いたという。
なお、それぞれの家の礼法により、眉化粧をする年齢や、眉の描き方などは、微妙な違いがあったと見られている(以上、山村博美『化粧の日本史−美意識の移りかわり−』)。
当時の結婚適齢期は14〜18歳くらいであり、20歳以上の女性はほとんど眉を剃っていたが、江戸後期の風俗誌『守貞謾稿』(喜田川守貞著)によれば、浮世絵には20歳を超えた既婚女性でも、「意匠ヲ以テ眉ヲ描ク」、すなわち、美しく見せるために眉が描かれたという(高橋雅夫『化粧ものがたり-赤・白・黒の世界』現代語訳参照)。
お歯黒:吉原の女郎が、お歯黒をした意味は?
日本で最も古い化粧は、お歯黒だとされる(谷田有史・村田孝子監修『江戸時代の流行と美意識 装いの文化史』)。
その起源は特定できないが、平安時代以降、公家の男性と女性が、成人の印として、お歯黒をしていたという(陶智子『江戸の化粧』)。
江戸時代には女性専用のものとなり、男性でお歯黒をするのは公家だけとなっている。
江戸時代の女性は、婚約、あるいは結婚するとお歯黒をした。黒は他の色の染まらないことから、貞節の印として歯を黒く染めたともいわれるが、それは「こじつけ」だとする説もある(高橋雅夫『化粧ものがたり-赤・白・黒の世界』)。
お歯黒により、未婚なのか既婚なのかが一目でわかってしまうため、結婚適齢期を過ぎると、未婚でも世間体のためにお歯黒をする女性も多かったという。
吉原の女郎たちは、どうしていたのだろうか。
吉原では、新造(女郎見習い)がはじめて客を取る「突出し」の日から、お歯黒をした。お歯黒は、吉原では一人前の女郎となった証となる化粧なのだ(安藤優一郎監修『江戸の色街 遊女と吉原の歴史』)。
また、女郎が「客の一晩だけの妻」になるという意味から、お歯黒をしたともいう(谷田有史・村田孝子監修『江戸時代の流行と美意識 装いの文化史』)。
なお、芸者、および岡場所の女郎は、お歯黒をしなかった。
お歯黒は「お歯黒水」と、染料である五倍子(ふし)で作る。
お歯黒水は、鉄片を米のとぎ汁や、茶の汁、酢のなかに浸して密封し、2〜3ヶ月置いて、発酵させたものである。褐色に濁っており、現代人には耐えがたいほどの刺激臭を放つ。
このお歯黒水と五倍子の粉を、交互に歯に塗った。
吉原の周囲を取り巻く「お歯黒どぶ」の名は、女郎がお歯黒を終えた後に、お歯黒水を捨てたために、水が黒く濁ったことに由来するともといわれる。
紅化粧:下唇を玉虫色に光らせる紅化粧が大流行
江戸時代の紅化粧に使用されたのは、紅花から抽出した紅である。
紅の収量は生花の0.3%と極めて少なかったため(高橋雅夫『化粧ものがたり-赤・白・黒の世界』)、大変に高値で、「紅一匁、金一匁」と称された。
17世紀末には、紅は唇だけでなく、頬や爪にもさされていたと思われるが、頬紅は元文(1736〜1741)のはじめ頃から廃れ、口紅が紅化粧の中心となったという。
文化・文政期(1804〜1829)には、下唇を玉虫色(緑)に輝かせる「笹色紅(ささいろべに)」という化粧法が、江戸と上方の両方で大流行した。
紅花の紅は、何度も何度も塗り重ねると玉虫色に光る。
笹色紅はその性質を利用した化粧法で、一説では、遊女からはじまったとされる(以上、山村博美『化粧の日本史−美意識の移りかわり−』)。
高価な紅をふんだんに塗り重ねる笹色紅は、高級遊女の豪奢で艶やかな姿を表わす、シンボル的な化粧法だったという(安藤優一郎監修『江戸の色街 遊女と吉原の歴史』)。
薄い墨を塗った上に紅を重ねると、笹色紅に近い輝きが出るという、紅を節約した裏技も生み出された。
江戸時代の美人の第一条件は?
江戸時代の化粧書『都風俗化粧伝(みやこふうぞくけわいでん)』(佐山半七丸著・速水暁斎画/日本図書センター『婦人文庫 3』所収)に、
「人生まれながらにして三十二相(仏に備わっている32種の優れた身体的特徴で、転じて、女性の容貌、姿形などの美しい相をいう)揃いたる美人というは至って少なきもの也。化粧の仕様、顔の作りようにて、よく美人となさしむべし。その中にも色の白きを第一とす。色のしろきは七難かくすと、諺にいえり」
とあるように、江戸時代の美人の第一条件は色が白いことであった。
目の化粧:大きすぎる目は見苦しかった?
最後に、意外な目の化粧をご紹介したい。
現代では、目はパッチリと大きいほうが良いとされる傾向にある。
ところが、江戸時代は違ったようである。
前述の『都風俗化粧伝』には、「あまり大き過ぎたるは見苦し」、すなわち、「大きすぎる目は見苦しい」とし、「瞼の白粉を濃く塗り、目の中へも粉が入るがごとくに化粧をする」など、目が大きいことをカバーする化粧法が記されている。
現代の美意識では、考えにくい化粧である。
筆者:鷹橋 忍