【実写映画レビュー】深刻な観念劇とド派手なドラゴンボールバトルが乱暴に同居!? 『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』

3月31日(木)17時30分 おたぽる

映画 『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』公式サイトより。

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 スーパーマンの肉弾空中戦VFXがあまりに見事すぎて、「えっ……と、実写版『ドラゴンボール』はこれでいいんじゃね?」などと一部で絶賛された『マン・オブ・スティール』(13)の続編。それが本作『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』だ。要は「『マン・オブ・スティール』の時、スーパーマンのせいで都心のビルが倒壊して犠牲者が出たから、バットマンが怒る」という話である。

 完全に前作ありきの話なので、これ1本だけ観ても、世界観は40パーセントくらいしか理解できない。本家『ドラゴンボール』でいうなら、サイヤ人編を未読の状態でフリーザ編を読むようなもの。「サイヤ人って何?」レベルの一見さんはお断り映画なのである。

 タイトルで「vs」などとバトル感を謳っている以上、前作にも増してアクションの血中ドラゴンボール濃度は高いが、それを文字でくどくど説明するのは野暮というもの。ゆえにここでは、スーパーマンとバットマン、それぞれのキャラクター造形に注目したい。ふたりのパーソナリティには、現代アメリカ人の代表的なふたつの精神性が、巧みに振り分けられている。

 スーパーマンは、能天気な理想主義者としてのアメリカ人である。
 彼はクリプトン星で生まれた異星人だが、星で内戦が起こったため、赤ちゃんの時に両親によって地球へと送られた。見方を変えれば、地球という新天地に希望を託してやってきた移民、もしくは難民ということになる。

 地球でのスーパーマンことクラーク・ケントは当初、異星人として奇異の目で見られていた。が、身を挺して合衆国市民を守る態度を示したことで、アメリカ社会に受け入れられる。前作『マン・オブ・スティール』が示していたのは、「アメリカ人でなくても、アメリカに忠誠を誓えばアメリカ人」という、アメリカが掲げる美しい理念だった。

 もともとアメリカは、欧米からの移民によって開拓・建国された国であり、成功を信じて海を渡る多くの移民たちを受け入れてきた。貧しい者でも、頑張れば夢は叶う。それが希望に満ちたアメリカという国なのだ。アメリカがスーパーマンという異星人を受け入れるのは、国の良心であり、誇りであり、国家的理想の体現でもある。

 クラークの育った場所が、アメリカ国内では「ド田舎」の代名詞でもあるカンザス州というのも示唆深い。日本で言うところの、内陸の美しい里山。古き良き、牧歌的で美しいアメリカの象徴。クラークは勤勉で、道徳的で、人のいい農家の夫婦に育てられた。健やかに、それは健やかに。

 カンザスは、ミュージカル映画の古典『オズの魔法使』(39)で、ヒロインの少女ドロシーが住んでいた場所でもある。彼女が歌う『虹の彼方に(Over the Rainbow)』の歌詞は、一貫して前向き、無垢、一途だ。いわく「虹の彼方の空は青く、信じた夢はすべて叶う」と。

 希望に満ちた移民、健やかなカンザス、頑張れば夢は必ず叶うという信念。スーパーマンという存在が示すのは、楽天的なアメリカン・ドリームと、能天気な理想主義者としてのアメリカ人である。

 もうひとりのヒーロー、バットマンことブルース・ウェインは、シビアな個人主義者としてのアメリカ人だ。
 ブルースは裕福な家庭に育っていたが、幼い頃に目の前で両親を強盗に殺された過去を抱えている。人はどれだけ真面目に生きていても、出会い頭の野良犬に噛まれるように、工事現場から降ってきた鉄骨に潰されるように、何の因縁も理由もなく突然殺される。それがブルースの殺伐とした人生観である。

 法は、悪人によって善人が被る理不尽な災厄を防げない。彼が自らバットマンとなり超法規的に悪人を私刑に処すのは、そういうわけである。
 私利私欲にまみれた犯罪者が巣食うゴッサム・シティに育ったブルースは、人間をカンザスの農夫ほどお人好しだとは思っていない。劇中の言葉を借りるなら「敵になる可能性が1%でもあれば敵」と言い切る男なのだ。

 「自分の身は、法などに頼らず自分で守る」——そんな自己責任意識の高さが、現代アメリカの代名詞でもある「訴訟社会」や「銃社会」の根っこにあるのは明らかだ。バットマンもそれにならい、ハイテクスーツと物々しいメカで極限まで全身を武装する。

 今までの映画『バットマン』シリーズのバットマンは、マッチョななかにもどこか優雅で、紳士で、スマートな雰囲気が漂っていた。だが、今回のバットマンにそんな精神的余裕は見られない。威圧感たっぷり、フルアーマーの重装歩兵。「俺が法だ」「俺が番人だ」感が凄まじい。脳味噌お花畑野郎のスーパーマンとは、明らかに対照的なスタンスである。

 能天気な理想主義とシビアな個人主義は、どちらもアメリカ人の典型的なパーソナリティだが、まったくもって相容れない価値観である。

 自分を受け入れた偉大なる法治国家・アメリカを信じるスーパーマンは、スーパーマンの扮装のままで公聴会にも出席するほど法を順守するが、バットマンが法に従うことは絶対にない。スーパーマンの人間観は眩しいほどの性善説だが、バットマンは超のつく性悪説を唱える。

 現代アメリカ人の心の二様態を、二大ヒーローの対決構図にたとえるという、あざやかな問題設定と文芸的試み。本作の目論見自体は、たいへん素晴らしい。登場人物たちはまるで舞台演劇のように観念的な長台詞をしゃべり、各々の正義論をとうとうと披露する。好き嫌いは分かれるだろうが、重く、暗く、深みと格調をたたえた画面は、いちいち名画のように美しい。

 が、素晴らしいのはここまでだ。
 問題を設定したからには、解答が必要だが、劇中で描かれる解答らしきくだりが、いまいち解答になっていないのだ。終盤、ふたりの和解の理由(らしきもの)は描かれるが、それは観客にとってとうてい納得できるものではない。まるで、キャラ設定を極限まで凝りまくったわりに、プロットが絶望的に舌足らずなライトノベルのようだ。

 その舌足らずを補うかのように、クライマックスのバトルはサービス精神旺盛だ。『風の谷のナウシカ』の巨神兵じみたクリーチャーが大暴れし、『新世紀エヴァンゲリオン』のロンギヌスの槍っぽいウェポンが登場し、『ドラゴンボール』の人造人間18号並みに強い女子が元気に加勢する。

 先のラノベのたとえで言うなら、「原作はアレだけど、アニメ版のキャラデザと作画がクソ豪華だから、とりあえず毎週録画しとく」といったところ。なんにせよ、腹は満たされる。コスパ的には問題ない。
 
 というわけで、本作は深刻な観念劇とド派手なドラゴンボールバトルが、1本の映画内に臆面もなく同居している映画である。それはまさしく、相容れないはずのふたつの精神性が、臆面もなく共存しているアメリカ人の国民性そのものだ。
 さすがアメリカ。リベラルなアフリカ系大統領が現職を務める一方で、好戦的な人種差別主義者が人気大統領候補になってしまうだけのことは、ある。実に臆面もない。
(文/稲田豊史)

おたぽる

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