オウム真理教の教義に魅了され続ける人が絶えない謎!

4月1日(水)14時0分 tocana

※イメージ画像:『未解決事件 オウム真理教秘録』文藝春秋

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 今年の3月20日で、地下鉄サリン事件から20年目を迎えた。長き月日を経て、改めて事件の悲惨さを思い起こすと同時に、オウム真理教とは何だったのかを問い直す動きが起きている。

 興味深いのは、30人もの人々を殺害しておきながら、この教団がアレフと名前を変えて未だに存続していることだ。信者も1千名を超えるという。潜入捜査によって、教団が密かに麻原信仰を守り続けている実態も暴露されている。

 警察や公安調査庁も、結局のところ、どうしていいか分からないようだ。これからも教団への監視を続けて、適当にガサ入れするくらいしか打つ手がないらしい。これまでオウム真理教について散々テレビで解説してきたジャーナリストや学者・弁護士の皆さんも、具体的な対策となるともうお手上げというのが本音ではないだろうか。

なぜ組織は潰れないのか。なぜアレフに魅了され続ける人が絶えないのか。なぜ信者の脱洗脳に失敗し続けているのか——。それは上に挙げた対策サイドが、実は一番基本的なことを理解していない可能性があるからである。信者を繋ぎとめているのは「霊的な知識」だ。誤解を恐れずにいえば、オウム真理教またアレフの教義には、それなりに霊的真理が含まれているということである。そして、その真理が今なお人々を引き付けているのだ。

 これは我ながら本当に誤解を招きかねない意見である。ある人は熱くなって「おまえはオウムの殺人教義や過去の犯罪を肯定するのか!?」と詰問してくるだろう。

 もちろん、答えは「ノー」だ。私が言いたいのは、今まで教義の誤った点ばかりが強調されすぎて、何らかの正しい点もあり、この肝心な点が見過ごされてきたのではないか、ということだ。こういう事実なり現実なりを率直に認め、前提とした上で対策を立てない限り、これからもオウムの残党とその潜在脅威は決して消えることはないだろう。

 いわゆるカルト教団は、世間から見ると奇矯な存在である。それゆえ、その教義は妄信に満ちたデタラメばかりなのだという見方は、実は偏見に過ぎない。あらゆるカルトは、伝統宗教の洗練された教えや一般道徳的な教えを、大なり小なり借用している。そこに、教団独自のプロパガンダを抱き合わせるというのが基本的な手口だ。たとえば、「教祖が○○の生まれ変わりである」「病を治癒するパワーがある」「霊界と交信して霊障を取り除ける」「宇宙人とチャネリングしている」「終末予言と救済」などが挙げられる。

 俗に玉石混淆というが、玉の部分は誰が見ても玉である。同じように、キリストやブッダの説いた教えは、誰が見ても素晴らしいものとしか思えない。カルト教団はそういった教えを借用することで、人々に正しいと思わせる手法を取る。初期の信仰はそういった部分に生じるのである。不幸にして、いったん信じ始めた人は偽教義(プロパガンダ部分)も信じやすい心理状態に陥ってしまう。教団のほうも、教祖のカリスマ性を演出したり、トリックを使ったり、霊や予言で恐怖心を煽ったりして、いろいろと嘘の部分を信じ込ませる努力をする。一般的な社会的信用力もまた、大いに教団と信仰の権威・正当性を後押しする。たとえば、教祖が高学歴であったり、著名人との交友があったり、博士号を所持していたりすると、人々は信用し易くなる。だから、教祖側は、金をばら撒いて海外の大物政治家と握手したり、第三世界の大学やディプロマミルの学位を買ったりする。

 オウム真理教などはその典型的な例といっていい。基本教義は仏教やヒンズー教から借用してきたもので、そこに「麻原が最終解脱者・超能力者で未来を予知できる」といったプロパガンダを抱き合わせている。あとは金を払い、手に入れたダライ・ラマの宗教的権威を利用し、タレントや学者と親しく対談することで、うまく世間を信用させた。

■オウムの信者を「霊的に解毒」する方法は?

 教義の部分では、オウム真理教にもそれなりに霊的真理が含まれているというのは当然のことで、この部分に根本的な対策の可能性がある。

 今まで信者たちに対しては、被害者の声や命の尊さなどが、散々説かれてきた。それは「脱洗脳」する上で、一定の役割を果たしてきたと思う。しかし、それだけは不十分である事実も認めなければならない。脱俗・超俗を目指す人たちに対して、しょせん世間の常識を説くだけでは限界がある。

 信者たちの中には、信仰を守るためには手段を選ばなくてもいいと考える者もおり、かえって世間にアジャストしているふりをしつつ、心の中では信仰を維持するといった狡知を身につけてしまった可能性もある。表では反省の弁を述べている人でも、信用していいとは限らない。つまり、警察が直接把握できる信者以外にも、膨大な数が地下に潜っているかもしれず、いわばオウムの隠れキリシタン化である。事件から20年ということで、今再びオウム真理教がメディアで取り上げられているのにも、危険性はある。麻原彰晃の三女アーチャリーが本を出版し、テレビに出演し、当時のことを生々しく語ることで、その時の心理状態に戻ってしまう元信者もいるかもしれない。一度刷り込まれた洗脳はそうやすやすと解けないのである。

 やはり、人は内部から変革する以外にないのだ。

 そこで私は、警察をはじめとする対策サイドが、信者・元信者たちを対象にして、仏教とヒンズー教の聖典を配り、かつそれをみんなで学ぶ機会を提供すべきではないかと思う。

 具体的には、最古の仏教聖典のひとつとされる『スッタニパータ』や『ダンマパダ』、そしてヒンドゥー教の聖典である『バガヴァッド・ギーター』『ウパニシャッド』『ウパデーシャ・サーハスリー』などである。ヒンドゥー教に関していえば、個人的に、現代のスピリチュアリズムをも包含しているといえるパラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』と『人間の永遠の探求』、そしてラマナ・マハルシの『対話集』なども推薦したい。

 実は、ここに挙げた文献は、オウム真理教の宗教観・世界観に非常に近い。信者たちが抱いているであろう内的疑問と霊的成長の希求に対して、十分に応えるものだ。なぜならばオウム真理教が、このような古代の教えの劣化コピーにあたるからだ。麻原とオウムを設立した連中は、仏教やヒンズー教から「つまみ食い」して、勝手に麻原神格化のようなデタラメなプロパガンダを抱き合わせたにすぎない。

 オウムの信者たちは、例えるなら、安物のワインを飲み、それが高級なワインの味だと錯覚している状態といえる。だが、いったん本物を知れば、二度と騙されることはない。麻原とオウムの教義がしょせんは劣化コピーでしかないこと、最終解脱者なる呼称が噴飯物でしかないこと、太古から受け継がれてきたインド思想に勝手にプロパガンダを抱き合わせた「まがいもの」にすぎないこと等が分かれば、信者たちは修行の場を変えねばならないと自ら判断するだろう。こうして彼らは内側から変わることができるのだ。

 その「本物のワインを知る」機会を与えることが、すなわち対策である。古代の聖典を彼らに配布し、学ぶ場を作ることは、政府や警察の力からすればそれほど難しいとも思えない。要は本と講師と学習スペースがあればいい。しかも、スペースは既存の公共施設を利用できるため、それほどコストが掛からないだろう。このプロジェクトは、過去の信仰を上書きする、又はアップデートするようなものだ。確かに地道で、遠回りだろう。しかし、彼らがこれまで学んできたことの原典・源流に当たらせることが、オウムの歪んだフィルターを取り除く上で、もっとも確実な方法だと考える。

(山田高明/フリーランスライター)

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