陶酔させ、誰も不快にしない「正しさ」の洗練——映画『お嬢さん』 西森路代×ハン・トンヒョン

4月2日(日)2時0分 messy

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2015年6月に公開され、賞賛の声を浴びた『マッドマックス 怒りのデスロード』。messyでは、社会学者のハン・トンヒョンさんとライターの西森路代さんに、『マッドマックス』の素晴らしさ、特にフェミニズムの視点で、二度に分けてお話いただきました。

・「アイドルを消費する」日本に、『マッドマックス』が投下したもの
・恋愛関係でなくても男女は協力できる 「当たり前」を描いた『マッドマックス』が賞賛される皮肉

そして2017年3月に、パク・チャヌク監督の新作『お嬢さん』が公開されました。すでに西森さんが本サイトでレビューしているように、『お嬢さん』は『マッドマックス』同様にフェミニズムの視点で饒舌に語るに値する素晴らしい作品です。そこで再び、ハンさんと西森さんにお集まりいただき、『お嬢さん』の魅力について語り合っていただきました。実は『お嬢さん』は、フェミニズムの視点だけでなく、植民地支配への批判、エロなど、見る人によってその魅力が異なる、多層的で巧妙な作品だったのです……。

※本記事はネタバレを含みます。

巧妙に設定された複数の“偽装”

ハン 西森さんはmessyの連載で、『お嬢さん』を「フェミニズムそのもの」と書かれていました。感想として異論はありませんし、ある意味まさにそのとおりだと思います。だから今回よびかけられたこの対談は、2015年にmessyで行った『マッドマックス』対談での延長線上のものなのだろうと私は受け止めています。そうした流れもあってか、この映画を観ているとき、西森さんのことを思い出していたんですよね。詐欺師の藤原伯爵(ハ・ジョンウ)が「チンコを守れてよかった」って台詞を吐くシーンとか、「ああ、これは西森さん、絶対好きだな」って思って。

西森 それじゃあ私が、そこだけに喜んでるみたいな……(笑)。あのシーンは、女性たちに復讐されているのにもかかわらず、当の男性は何が起きているかわかっていない。その上、情けないセリフを吐いている、というシーンですよね。それをハ・ジョンウに言わせるのかと思うと、つい笑ってしまいました。ハンさんは『お嬢さん』をどう見られました?

ハン この映画って、結構複雑な作品だと思うんですよ。まず西森さんが書いていたように、何よりもまずジェンダー支配を乗り越えるフェミニズム的な要素がありますよね。それ以外にも、植民地時代の日本と朝鮮という民族的な支配‐被支配の関係、そして階層という、3つの要素がクロスしている映画なんだと思います。

西森 どういうことですか?

ハン この映画では男性がとても情けなく描かれています。でもそれは、単に「男はダメ」で済ませられる話じゃないんですよ。それ以上に「“親日派の”男はダメ」っていう話なんです。そして登場人物にそれぞれ違った“偽装”がある。

まず完全に日本人になりきって生きている上月(チョ・ジヌン)と、朝鮮人なんだけど詐欺師として今は日本人になりすましている藤原伯爵がいる。上月は植民地支配を内面化しているという意味での民族的な偽装、藤原伯爵はお金のために民族と身分を偽っているということで、それぞれ偽装のレベルが違います。さらにこの背景として、同じ朝鮮人でも、上月は上流階級に属していて、藤原伯爵は朝鮮半島の中でも差別される側にある済州島出身の貧しい男という違いもあります。

秀子には、メタなレベルの偽装があって、日本人の役だけど、演じているのは韓国人のキム・ミニなんですね。たぶんパク・チャヌクはあえてキム・ミニに秀子を演じさせている。これは、「男性に抑圧されて自分らしく生きられていない」という役柄上のことに、日本による朝鮮支配を重ねているんだと思うのですが、みんなひとつずつ偽装のレベルがずれているんですよ。そんななかで唯一、詐欺に加わっているとはいえ、何も偽らず、偽装せずにそのままの姿で生きているのがスッキ。だからスッキが救世主になりえたのではないかと思っています。

西森 私にはわからないところなんだけど、植民地時代には、上月や藤原伯爵みたいな、「偽りたい」という欲望をもつ男性がいたということですか?

ハン 国が奪われている状況で上に行くには日本人になりきらないといけないじゃないですか。そうでもしないと生き残れない。というか、自発的にそうさせるのが植民地という状況。植民地時代の親日派って、単に日本に協力しましたって話じゃなくて、あの状況下で生き抜くためにはとくに男だとそうせざるを得ない、そうなってしまうってことなんです。逆に言うと女性はそういう構造からも「排除」されていたということなのだけど。

西森 上月が春画の収拾をしてるのを変態って片付けることに違和感を覚えてたんだけど、あれは日本の文化に染まろうとしていたともとれるわけですね。

ハン そう、単なる趣味じゃなくて、身も心も日本人になりきろうとしていた。これは監督自身も話していますが、文化的な侵略のもとでの「内なる植民地支配」の表現です。

『お嬢さん』に対して怒る男性が少ない理由

西森 じゃあ、秀子が官能小説を朗読する姿を見に来ている紳士たちも……?

ハン どうなんでしょうか。彼らが何人かはわかりませんが、当時の植民地の上流階級の朝鮮人男性は、いくら頑張ったところで日本人になれないんだけど、でも日本人以上に日本人にならないと生き抜けなかった、劣位とされた文化を捨て上位とされた文化に自ら進んで耽溺してしまう、というのをものすごくカリカチュアした存在が上月なんです。韓国ではそうした文脈が共有されているところがあるから、この映画が植民地批判をしていることに気づく人も多かったんじゃないかな。ただ一方で、正面からの日本批判ではなく受け入れる側への批判のかたちを取っているから、気づきにくかったところもあるかもしれない。そういう意味で、とくに韓国人の男性は、男性批判であり親日派の植民地文化人批判であるにもかかわらず、「馬鹿にされている!」と怒る人が少なかったような。

西森 どういうことですか?

ハン 当時の植民地文化人が持っていた歪みによって被害にあっているのは女性ですよね。上月は、これは成りきろうとしている日本人への征服欲や復讐のようなものでもあると思うのだけど、姪の秀子を閉じ込めて、官能小説の朗読をさせているし、藤原伯爵はスッキを利用して秀子と結婚して階層上昇するために日本人を演じている。パク・チャヌクは、上月や藤原伯爵を情けなく滑稽に描くことで、親日派男性批判と同時により一般的な男性批判をもしています。でも、韓国のナショナリストはそう受け取らなかったのかもしれない。「親日派だから、上月や藤原伯爵があんな末路になっても仕方ない」と、自分たちのことが描かれているとは思わないんですよ。一見、民族的なつながりより女性の連帯を上位においちゃっているのに、そういう批判をあまり見かけなかったのはこういうことなのかな、と。

西森 女性が男性を断罪する話ではなくて、民族の話として受け取っているということですか。

ハン そうですね。秀子を救い脱出へと導いたのは朝鮮人女性のスッキです。つまり日本人女性を朝鮮人女性が救ったという話でもある。だけど、朝鮮人が日本人のふりをした親日派を断罪した物語としても受け取れるようになっているんですね。しかも秀子をキム・ミニが演じているので、朝鮮人が朝鮮人を救った話のようにも見える。実際、そういう風に受け取った人もいました。あと彼女たちを苦しめたのは親日派の朝鮮人や野望を持つ朝鮮人の男で、そうさせたのは日本とも言えるのだけど、キャスティングの妙によってその怒りが秀子には向かいにくい構造だし、男性の滑稽さが際立ちますよね。パク・チャヌクは巧妙なんですよ。しかもこんな話を韓国人男性が作るのだから自虐的というか、きわめて内省的だとも思います。現在の韓国の男性たちにもつながる話なのに。自発的服従って、きわめて今日的なテーマですよね。今の日本だったら忖度(笑)。

西森 原作はサラ・ウォーターズの『荊の城』ですよね。海外の小説をそんな風に意味をもってうまく置き換えられるパク・チャヌクってすごいですよね。

ハン 植民地支配は日本の問題でもあるんだけど、今の日本でその文脈で受け止められる人は少ないでしょうね。日本人役の秀子をはじめ、俳優たちが話す「日本語がつたない」って文句をいう人もいたけど、秀子を日本人俳優が演じて完璧な日本語を話していたら、まったく違う見え方になってしまっていたかも。秀子の位置づけに「揺らぎ」をもたせるためにも効果的だったと思います。あと植民地時代に作られた映画って、朝鮮人の俳優が日本語をしゃべっているんですよね。ある時期からは朝鮮語を使うことが禁じられていたし、映画会社も最終的には国策会社1社となり、総督府の監視下で映画を作っていた。『お嬢さん』で日本語を話す韓国人の俳優たちの姿は、当時の朝鮮映画に重なります。

西森 パク・チャヌクはそこまで考えて作っていたんですかね。

ハン それはわからないけど。あの時期の映画のフィルムが発掘されたことで、1920〜40年代の映画研究って近年かなり進んでいるんです。研究熱心なパク・チャヌクが当時の映画を見ていないわけがないとは思いますが。当時の作品はたとえば日本人と朝鮮人の俳優が両方出ていたりして、さらに時期によっては全員が日本語を話していたり、半々だったりで、誰が何人なのかなんてよくわからなくなっています。そういう風に文化的に同化しようとしたのが日本の植民地政策であり、とはいえ同化しきれない「揺らぎ」が見え隠れするごちゃごちゃした状況が植民地のリアリティ。だから「日本語がつたない」っていう「批判」に対しては、「いや、植民地ってそういうものだから」って思いました。そういう揺らぎを可視化させるキャスティングでもあったと思います。あと、つたない日本語が「エロい」っていう人もいた。いろんなポジションから見られるようになっていて、どんな位置づけの人にも楽しめるようになっているのが『お嬢さん』なんですよね。

西森 やっぱり私は、その辺りで知らないことが多かったので、そこまでは考えられなかったですね。そこは、「チンコ」で笑えない男性と同じことになっているのかもしれません。これまで観た韓国映画でも、そういう日本に同化せざるをえなかった人たちが普通に出てきていたんですかね。『暗殺』だと、イ・ギョンヨン演じるヒロインの父親が親日派であり「家」を守ろうとした人として出てきますが、あの映画の親日派は悪くて悲しい人だったとしか書かれていなかったから、私たちは映画を観たくらいではその背景は理解できなかったのかも。そのほかのドラマを見たことがあったけど、そこまでの意味がわかってなかったですね。

女性と男性で、笑うシーンが違う

ハン 日本でまわりの感想を見ていると、とくに男性は「エロくてよかった」って言っている人が多いですよね。自分が「チンコ」側の人間だって気づかないのかな(笑)。

西森 私もフェミニズムの話だって一方向にしか見れてなかったので、今考えると男性も一方的にしか見られないものなんだなというのは納得なんですけど、見ているときは「みんなチンコだろう」って思いながら見ていました。

ハン 思わないんだよね。みんな「エロくてよかった」って言ってる。

西森 もしかしたら「チンコを守れてよかった」って素直に思ったとか。

ハン かもしれない。ホッとしてるのかな。あれは救いだもんね。指は切られたけど、チンコは守れた(笑)。

西森 あの辺りのハ・ジョンウとチョ・ジヌンのくだりって、緊張感が解けてのほほんとすらしてますよね。パク・チャヌクはそれをわざわざ台詞にしてるわけですよね。台詞にしないでも伝えられるのを、「お前ら台詞にしても気づかないだろう」ってストレートに馬鹿にしているのかもしれない。

ハン 茶化してるよね。そしてものすごい皮肉だとも思いますよ。しかもパク・チャヌク自身、男性ですからね、自罰的で自虐。

西森 あと、優しさでもありますよね。だから私は最後の「チンコを守れてよかった」って台詞は笑えたんだと思います。一方で、秀子が人形と絡み合うシーンを笑えたって男性がいたんですよね。私はあのシーンは笑えなかった。

ハン あのシーンは笑うところじゃないよね。すごくグロテスクなシーンだった。

西森 自分の罪に結びつかないで、笑っちゃうんだって思ってその感想を見て怖かったというか……。むしろしんどすぎて笑うしかなかったのかもしれない。別に、あのシーンを見て笑う人が嫌いってわけじゃないんだけど。

ハン 表裏なのかもしれない。男性はチンコのシーンが笑えないし、女性は人形のシーンが笑えない。ふたつのシーンが同じ作品にある、という。

西森 どこから見るかで笑うところまで違ってくるんですね。

『お嬢さん』は誰が見ても不快にならない、ポストPC映画

——韓国の女性はこの映画をどう見ていたんでしょうか。植民地支配への批判として? フェミニズムの文脈で?

ハン 韓国は、とくにミソジニー殺人事件以降、フェミニズムがブームになっているので、「フェミニズムに接近した映画だ」って評価されているようですね。あとやはり同性愛。

西森 今の韓国は、アイドルが女性蔑視的な発言をすると、日本では論争がおきないようなことでも論争が起きますからね。BIGBANGのG-DRAGONが、自分のブランドの洋服の洗濯表示のタグに「いいからママに渡しなさい」とジョークめかして書いた写真をインスタグラムにアップしたら、「ママが洗濯をすると決めつけるのはいかがなものか」という批判があったそうです。それくらい韓国ではフェミニズムな視点があるわけですけど、この映画はフェミニズムがブームになる前から製作が始まってますよね。

ハン そうですね。企画自体はもっと前からかと。パク・チャヌクが、サラ・ウォーターズの『荊の城』を植民地時代に置き換えて映画を作るって聞いたとき、監督のファンでありながらも若干の不安がよぎったのを覚えています。今は「疑ってすいません」という感じですが。

西森 ジェンダーに関してもそうですけど、ポリティカル・コレクトネス(PC)全般に対しての意識が高まっているのは感じましたよね。

ハン 先ほど不安がよぎったとは言ったものの、パク・チャヌクは昔から女性を主体的に描いてきた人ですよね。彼が世に出るきっかけになった『JSA』で捜査官を女性にしたのは、このようなタイプの作品では女性が受動的な存在として描かれがちなのであえて、と言っていましたし。『親切なクムジャさん』もそうだし、少し違いますが『サイボーグでも大丈夫』もある意味、弱者フレンドリーな映画ですよね。

西森 私とハンさんは、パク・チャヌク作品の中でも、あまり評価されていない『サイボーグでも大丈夫』が好きなんですよね。でも、どの作品を見てもそういう意味で気持ち悪かったことはなかったですね。

ハン そういう意味では皮肉としての意味ではなく、すごく正しくPCな人ですよね。日本ではわりと、グロと変態、エレガンス、暴力みたいに見られるけど。

西森 それは表面がそう見えるだけで。

ハン パク・チャヌクは韓国の学生運動世代の人で、韓国とは何か、韓国にとって近代とは何かを考えてきて、映画の政治的な可能性を強く信じている監督だと思います。とはいえあの世代の人たちは普通に日本文化を含むサブカル的な教養に親しんできた人たちでもあるし、単に政治的なことを訴えても駄目だとわかっている。だからこそそれを融合させてエンターテインメントとして水準が高いものを作ろうとしているんですよね。

西森 いわゆる386世代ってやつですよね。表向きは女子のため、エンパワーメントしたいと言いながら、実は反対のことをやっているものってたくさんあるけど、パク・チャヌクは逆ですよね。表向きは破廉恥だけど、中身を見たら……って。しかも『お嬢さん』は、誰が見てもどの方向から見ても不快にならないようになってる。

ハン そうそう、あんなエログロなのに誰が見ても不快にならない。あの美学にみんな陶酔できる。PCありきで映画を作ると、たとえばフェミニズムの立場で映画を作ったら男性が怒るみたいな、「何かのポジションに基づいて映画を作ると、違うポジションの人間が怒る」ってことが出てきたりしますよね。

西森 『マッドマックス』や『アナと雪の女王』のときに、そういう反応がありましたよね。

ハン ああそうなのか。でも『お嬢さん』は、怒りにくくできている。私の言い方だと、ポストPC時代のPC映画なんだと思います。逆ギレさせない正しさの洗練。

西森 『お嬢さん』の結末は、女性たちが今まで自分たちを苦しめてきた男性を直接復讐するんじゃないんですよね。自分の手で復讐することのカタルシスを描くものもありますけど、その後も生きていくことを考えると、そこにすがすがしい未来は残されていない。だから、パク・チャヌクなのに、「復讐もの」からも解き放たれているといえるかもしれません。自分たちの手で復讐しないための伏線もちゃんと貼っていましたね。最後は、残された男性同士が罰し合うような、滑稽なやり取りや、しみじみと我に返る会話をさせている。『マッドマックス』も、結局はイモータン・ジョーに女性たちが手を下すわけではなかったんだけど、『お嬢さん』は、倒すことを目的にするのではなく、「逃げる=自分たちの世界を手に入れる」ことのほうが重要でしたね。

どっちも好きな映画なんですけど、私は『お嬢さん』を見ていても『マッドマックス』を想像しなかったんですけど、この話をしてると、やっぱりつながっているんだなと思いました。

ハン なるほど、よくわかります。たぶんパク・チャヌクはロマンチストだよね。あと、まずはエンターテインメントとして素晴らしければそれでいいと思ってるんじゃないかな。でも『お嬢さん』がすごいのは、ジェンダーや民族や階層といった政治的なポジションの問題を設定やストーリー、美術にまでしっかりと構造的に盛り込むことで、作品に厚みを持たせているところ。それがエンターテインメントの完成度、素晴らしさに帰結している。

西森 試されている感じもしますね。よくある最後に謎を残しておいて、説明不足なことで、それが理解できるかどうかという意味での試され方じゃなくて、層が一杯あるからこそ、どの層を見ているのかが試されている、というか。

ハン 厚みがあって、それがエンターテインメントになっているからこそ、いろんな人が楽しめる。しかも、それぞれの登場人物の偽装とだまし合いのストーリーが必然的に絡み合っている。緻密に巧妙に破たんなく計算されているのだけど、解釈は開かれているし自分の解釈の正しさに疑いを持たせる余地も残されている。そこにはかなりの辛辣さもあるのだけれど、決して説教くさくはない。舌を巻きます。

「悪しきPC」としてのエクスキューズ

西森 日本って、作品の厚みがあるからといってヒットするかどうかはわからない、みたいなところがあったけど、『逃げるは恥だが役に立つ』はそれを吹っ飛ばしたドラマと思うんですよ。

ハン 「逃げ恥」はまさに、さっき話したような意味でのポストPC的なPC作品だと思いますね。誰も不愉快にしないのに、ちゃんとフェミニズム、みたいな。ジェンダー論的な家父長制批判といった重要な話をしながら、ラブコメとして楽しめるようにもなっている。実は結構男性批判をしてるのに、気づかない人は気づかないよね。不愉快にならないで楽しんでる。

西森 平匡が、みくりとの初夜を迎えた後にちょっと勘違いしてしまうシーンに対して、みんな「平匡ー! こらー!」って言ってましたよね(笑)。

ハン あのシーンで、男は「自分が平匡だ」ってすぐには気づかないよね。ゆっくりと、いつか気づくのかもしれない。別に男をむかつかせたい作品ならそれはそれでいいと思うけど、エンターテイメントだからね。パク・チャヌクだって男たちをむかつかせるためにやっているわけじゃないだろうし。

西森 それに、たくさんの人が見ることも前提に書いてますよね。そこから、汲み取れるひとはどんどん奥へと入っていけばいいと。

ハン 多様性のある作品って、まずは様々な人に「見て欲しい」って戦略の側面もある。視聴率だって取れたほうがいいし、興行収入だって高いほうがいい。大事なことは届く人に届けばいいし、じわじわと効かせていけばいいわけで。

西森 そのくらい配慮して、ちゃんと設計できないと、全員に届けられるものは作れないんだなと、でも、そういうことができる人がいて、ちゃんとたくさんの人が見ているってことは希望でもあります。

ハン 「PC=表現の委縮」だ、みたいな話ってつまらないと思うんですよ。だって私の見方が正しければパク・チャヌクみたいに、ものすごいレベルで両立できている監督だっている。まあ『お嬢さん』がPC的な映画ってわけではないかもしれないけど。PCのせいで自由に表現できないって言っている人たちは、自分の力量のなさの言い訳なんじゃないかと邪推してしまう。皮肉や諧謔には頭脳と技術が必要なんですよ。

西森 多層的につくれないことの言い訳にしてはいけないと……。

ハン その事例というわけではありませんが、たとえば映画の『この世界の片隅に』で、玉音放送が流れたあと、町なかに掲げられた大極旗が小さく一瞬映るシーンがあるけど、個人的にはあれがどうしても納得できなくて。単なるエクスキューズにしか見えなかった。ちなみに原作の漫画は未読なので映画に限った話です。

西森 これは別の作品の話ですけど、多様な人を出してますよ、わかっていますよ、とエクスキューズすることがPCだって思ってる人っていますよね。そうすると、PCは表現を狭める堅苦しいものっていうふうにしか思えなくなってしまう。

ハン あそこで大極旗を出すのなら、たとえば呉や広島にも日本の戦争による被害者である朝鮮人がいたとかっていう話がどこかにないとおかしいじゃないですか。もちろん、何も直接見せろ、直接語れということではありませんが、ずーっと日本人の加害者性については何の伏線もなくあれだけを出されても、言い訳程度にしか見えない。だったら日本人は被害者だったという話で一貫して、あれはなかったほうがすっきりしたんじゃないかと思う。だってそういう話ですよね、あの映画。それがいいか悪いかは別の話ですが。そういう意味で、悪しきPCの見本のように感じました。なんでこうなってしまうのかな。

西森 どうすればヒットするのか信じられなくなってしまって、多層的な作品、わかりにくいけどでもものすごい作品を作れないし、嫌悪してしまうところがあるのかもしれませんね。闇雲にわかりやすく受けそうなものを作ることしか信じられない状況なのかも。

ハン 見る人を信じていない、というのはあるかもしれないですね。去年は流行っているものを見ようと思って『シン・ゴジラ』『君の名は。』『この世界の片隅に』を見たんです。どれも緻密で、画的な見応えはあり、たくさんの情報やネタが盛り込まれているのは事実だけど、厚みの方向が細部の情報量や再現度や、つまりわかっている者どうしが共有できるものを競う方向というか、普遍的な、多様性に訴えられるような深みにはなっていないような気がしました。別にそれを否定するのではなく、それはそれでひとつの洗練のあり方だとは思うのです、本当に。ただ、「他者」がいるのなら、そして「差異」があるのなら、そのような重層性こそが「世界」なのだから、それをきちんと描いたり取り入れるのは作品を豊かにし、おもしろくするはずだと思うのですが。かといって、「他者はいますね」とか「差異はありますね」とエクスキューズに終始してしまうのはもったいないし、やっぱりそれではエンターテインメントやそのユーザーをなめている態度ですよね。

西森 そこに対しては、それでも私は層や深みを感じるところもあるにはあったんですけど、『お嬢さん』とはやっぱりその層の意味が違うということはわかります。でも、差異がすでにないってことからスタートするには早すぎるんじゃないかってことはすごく思います。それって、あるものを見ないようにするってことですからね。

ハン 『お嬢さん』は、植民地という状況下での民族的な支配と被支配、階層、ジェンダーというそれぞれの社会的ポジションとそのかく乱そのものを、だまし合いというストーリーにのせてエンターテインメントの要素として盛り込み、細部にもフェティッシュな美学を貫徹させながら、エロスでもフェミニズムでもポストコロニアル(植民地主義の暴力にさらされてきた人々の視点から西欧近代の歴史をとらえ返し、現在におよぶその影響について批判的に考察する思想:本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波新書)より)でも、様々な視点から見ることのできる作品になっていました。それは、皮肉たっぷりで辛らつな男性批判、「内なる植民地支配」批判でもあり、女性たちにとって抑圧される手段だった性という資源によって自らを解放しポジションをかく乱させる話なわけで、きわめてクイア的な作品とも言える。女性も楽しめる性描写になっていますしね。痛快でユーモラス、豪華絢爛でエロティックで、芸術性と娯楽性を両立させていて。パク・チャヌクのインテリジェンスとエレガンスの炸裂っぷりに、私にはほめ言葉しか見つからないのですが(苦笑)、もっとこういう作品を見たいですね。
(構成/カネコアキラ)

■ハン・トンヒョン(韓東賢)

日本映画大学准教授(社会学)。1968年東京生まれ。専門はナショナリズムとエスニシティ、マイノリティ・マジョリ ティの関係やアイデンティティなど。主なフィールドは在日コリアンを中心とした在日外国人問題。著書に『チマ・チョゴリ制服の民族誌(エスノグラフィー)— その誕生と朝鮮学校の女性たち』、共著に『平成史【増補新版】』、『社会の芸術/芸術という社会—社会とアートの関係、その再創造に向けて』など。

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