吉川晃司を護っている「白装束の霊」とは!? 旧知のカメラマンが確信した究極の心霊エピソード2つを初激白
2022年4月3日(日)9時0分 tocana
——数々の伝説的芸能人と交流し、知られざる姿を目撃してきたカメラマン「YAHIMONときはる」が今明かす真実!
昭和59年1月26日、筆者は東京・有楽町 のよみうりホールにいた。吉川晃司の初主演映画『すかんぴんウォーク』の試写会とデビューライブを撮影する仕事だったが、読売新聞と仕事で繋がりのあった筆者の父(当時59才)も招待を受けていた。
■白装束の傷痍軍人の霊が…!?
開演前、父と共に楽屋へと挨拶に向かうと、スタッフから吉川晃司を紹介された。上下白いスーツに白いロングコートを纏った吉川は、感じのよい好青年(当時18歳)だった。2カ月後に発売を控えた吉川のファーストアルバム「パラシュートが落ちた夏」のジャケ写とほぼ同じこの日の姿が、後に恐ろしい出来事を引き起こすとはまだ想像すらしていなかった。
吉川の楽屋を後にした直後、健康体の父が突然体調不良を訴え、医務室のベッドに運ばれた。嫌な予感がした筆者が、ふと一眼レフを確認するとステージ撮影時に必須なモードラ(※)が作動しなくなっていた。
※ フィルムを電動で高速巻き上げする装置、正式名はモータードライブ。当時は一眼レフに内臓されておらず、カメラ下部に別装着する仕組みだった。
そして、横になっている父から突然「直ぐにワンカップの日本酒を買ってガード下にそっと置いて来てくれ」と言われた。その瞬間、筆者の脳裏に幼少期の出来事が甦った。
——出征経験者である父と有楽町に買い物にやって来た昭和40年のある日、国鉄(当時)のガード下に 白装束の人が2人いて、一人は片腕が無くハーモニカを吹いていた。もう一人は、両足の義足を路上に置き、木箱に腰かけてギターを弾いていた。
傷痍軍人の二人だったのだが、その光景を初めて見た当時5才だった筆者は、父に隠れて小声で「怖い」と口走った。すると間髪いれず、父は「あの人たちは、戦争に行き手足を無くした人たちだから怖くないんだよ、お父さんも戦争に行った話をしたよね、このお金を箱に入れてきて」と百円玉を渡してくれた。筆者は、言われた通りに白い布で包まれた箱に百円玉を入れ、その後で父も紙幣を入れていた。傷痍軍人のお二方が、演奏しながら笑顔でお辞儀してくれた光景を、56年が経過した今でもよく覚えている。そして白装束は軍の病院の病衣なのだと父に教えられた。
話を19年後の昭和59年に戻そう。父の不可解な依頼を受け、筆者はホールを抜け出して地下にあった食料品売場(当時)でワンカップの日本酒を購入し、ガード下の壁際にそっと置いて手を合わせた。
医務室に戻ると元来霊感の強い父は、筆者に「ありがとう。傷痍軍人たちのやり場のない悲しみ、あまりにも強い思念が、吉川君の全身白ずくめの衣装に反応して、このままだとお前の仕事ばかりかステージにも影響がでることを確信してしまったから頼んだのだよ。酒を手向けられて、彼らも気を良くしたからもう大丈夫だろう」と言って、元気に起きあがった。もう父も快復したようだった。そして筆者がもう一度、一眼レフのモードラを確認すると正常に作動した。
こうして吉川晃司のデビューイベント(試写会とライブ)は、軍人の霊も見方につけて大成功に終わったのだった。
■被災地で吉川晃司と再会させてくれたのは…!?
昭和60年、飛ぶ鳥を落とす勢いの人気だった吉川のステージ撮影を頻繁に依頼されていた筆者。
(広島の)伯母の家が吉川の実家に近かった事や、仕事で(吉川がかつて打ち込んでいた)水球の撮影もしていた関係などから、彼とはテレビ局の楽屋でよく雑談するようになった。父同様にもともと霊感の強い筆者は、無骨だが思いやりのある吉川から、言い知れぬ霊力を感じていた。
時は流れ、平成23年。東日本大震災の発生直後、筆者は仕事関係の方のご家族が被災されたという連絡を受け、何か手伝えることはないかと被災地入りしていた。数多くの被災者が避難所に入りきれぬまま取り残されており、人手はいくらあっても足りなかった。
ある時、避難所に日用品を運んでいた筆者の自転車が、荒れた道にやられてパンクしてしまった。
仕方なく自転車を引いて歩いていると、全身白ずくめの服を着た青年に出くわした。青年は「パンクですね? この先を左に入った場所に自転車を修理しているボランティアのお兄さんがいますよ」と教えてくれた。その言葉通りに行くと、確かに自転車を修理している男性がいる。
「パンクしちゃいましたか?」とこちらを向いて聞いてきた男性と目があって、思わず「吉川くん!?」と叫んだ筆者。そう男性は吉川晃司その人だった。吉川もすぐに筆者のことを思い出してくれ、互いに再会を喜んだ。だが、今しがた一本道で白い服の人にこの場所を教えてもらったと伝えると、吉川は「今日はまだ女の子が2人通っただけですよ」と言う。思わず顔を見合わせ凍りついてしまった。
白い服の男性は、あの27年前のデビューライブで彼の音楽に心酔し、それ以来彼を守り続けている傷痍軍人の御霊だったのか、それとも被災されてお亡くなりになった方だったのかはわからない。しかし、お忍びのボランティアで現地入りしていた吉川に筆者をめぐり合わせ、自転車を修理して貰えるように取り計らってくれたとしか思えないのだ。
平成29年7月、声帯ポリープが見つかり除去手術を受けた吉川晃司。4年後の令和2年12月には、人間ドックにて狭心症が判明し、手術を受けたことも公表している。しかし、優れた歌手であり役者でもある吉川は、選ばれし逸材として、さまざまな超自然的存在さえ味方につけた最強のアーティストであると筆者は思っている。先月、最終回が放送されたドラマ「DCU」(TBS系)でも、彼の演技は高く評価されていた。主要都市を巡るライブも、この後5月12日まで予定されているようだ。今後のさらなる活躍を筆者は確信している。