『べらぼう』長谷川平蔵は美男だった?『鬼平犯科帳』の主人公のモデルとしても有名、火付盗賊改、人足寄場の創設

2025年4月8日(火)6時0分 JBpress

(鷹橋忍:ライター)

今回は大河ドラマ『べらぼう』において、中村隼人が演じる長谷川平蔵宣以(のぶため)を取り上げたい。池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』の主人公・鬼平のモデルとして有名な平蔵は、どのような人物だったのだろうか。


母は某氏、家女

 長谷川平蔵宣以(以下、平蔵と表記)は、上総国武射郡、山辺郡に四百石の知行を賜わった中級の旗本・長谷川家の長谷川平蔵宣雄(のぶお/以下、宣雄と表記)の子として生まれた。

 平蔵の母は、江戸幕府が編集した系譜集『寛政重修諸家譜』には「某氏」、刑務協会編『日本近世行刑史稿』には「家女」と記されている。

 瀧川政次郎『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』によれば、『寛政重修諸家譜』における某氏とは「農民・町人の女」を指し、家女は「家ノ子郎党の娘」を意味するという。これらこのとから、平蔵の母は「長谷川家の知行地の奉公に来た上総の女性」だと、瀧川政次郎氏は推定している。

 平蔵の生年は明らかではないが、『寛政重修諸家譜』には「寛政7年(1795)5月19日、50歳で死去」したことが記されており、没年から逆算して、延享2年(1745)生まれとされる(重松一義『鬼平 長谷川平蔵の生涯』)が、延享3年(1746)とみる説もある(丹野顯『「火付盗賊改」の正体 ——幕府と盗賊の三百年戦争』)。

 寛延3年(1750)生まれの蔦屋重三郎より、5歳、もしくは4歳年上となる。

 幼名は銕三郎(てつさぶろう)、諱は宣以。平蔵は長じてからの通称だ。

 長谷川家の上総国武射郡、山辺郡に賜わった四百石の知行地の実高は、五百石にのぼったと推知され、中級の旗本としては潤沢であったという(高橋義夫『火付盗賊改 鬼と呼ばれた江戸の「特別捜査官」』)。


父・長谷川平蔵宣雄

 平蔵の父・宣雄(のぶお)の通称も、平蔵である。

『寛政重修諸家譜』によれば、宣雄は寛延元年(1748)に家督を継承。同年、西の丸書院番、宝暦8年(1758)に小十人頭、明和2年(1765)に先手弓頭の役職を務めている。

 明和8年(1771)10月に「火付盗賊改加役」、翌年の3月に「本役」に任じられた。

 平蔵は火付盗賊改の代名詞のような存在であるが、父・宣雄もその任にあったのだ。

 火付盗賊改は、放火犯や盗賊などを取り締まる、江戸幕府の役職だ。幕府の軍事職制の一つである先手頭(さきてがしら)の中から選ばれた。

 この頃の火付盗賊改は先手頭と兼任、すなわち、先手頭の役に加えて任じられたため「加役(かやく)」といった。

 加役には一年を通して任に当たる「加役本役」の他に、放火が増える冬季にはもう一人、任じられた。それを「当分加役」という(山本博文『武士の評判記』)。

 火付盗賊改となった宣雄は、明和9年(1772)2月の「明和の大火(目黒行人坂の大火)」の原因となった放火犯を捕えるという大手柄を立て、同年10月に、京都町奉行に抜擢された。

 宣雄は京都に赴任するが、この時、嫡男である平蔵も、妻と2歳の子を連れて、同行している。

 ところが、翌安永2年(1773)6月22日、宣雄は京都で、在職中に55歳で急死してしまう。平蔵、29歳の時のことである。

 急遽、家督を継ぐことになった平蔵は、妻子や家臣を伴って江戸に帰参。

 同年9月に家を継ぎ、父の遺領を継承。以後、平蔵を称した。


平蔵は美男だった?

 安永2年に家督を継承した平蔵は、小普請(こぶしん)入りとなった。

 小普請組は職務上の失態、あるいは病などにより、職を免ぜられた旗本が編入されるが、役職に就くまでの待機組の席でもある。

 平蔵は亡父・宣雄が小十人頭の任にあった10代の頃から、吉原や深川の遊里に通い詰め、悪い仲間とつるんで遊び、屋敷が本所にあったため、「本所の銕(てつ)」と通称されたが(高橋義夫『火付盗賊改 鬼と呼ばれた江戸の「特別捜査官」』)、小普請入り中も遊里で豪奢に遊び、「本所の銕」の名が、通人に間に広く知られるようになったと伝えられる(瀧川政次郎『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』)。

 倹約家でのうえ、理財の才に恵まれていた亡父・宣雄は巨額の蓄財を残していたが、『京兆府尹記事』巻九の「長谷川備州死去、子息平蔵の弁」には、「父備中守倹約を専らとして貯え置きし金銀も遣いはたし、遊里へ通い、あまつさえ悪友と席を同じうして、不相応の事など致し、大通といわれる身持をしける」と記されている。

 翌安永3年(1774)4月、平蔵は亡父と同じく、旗本の出世コースである西の丸御書院番士の座に就いた。以後は、これまでの放蕩を改め、務めに精進していく。

 安永4年(1775)には、西の丸進物番となった。

 進物番は人前に出ることが多い仕事であるため、ドラマでも言及されていたように、その人選には容姿や立ち振る舞いが重視されたともいわれる。

 写真はもちろん、似顔絵も残っていないため、半蔵がどのような容貌だったのかは明らかではないが、進物番に選ばれたということは、上品な物腰の美男だったのではないだろうか。


町人に大人気の火付盗賊改に

 平蔵はその後、天明4年(1784)に西の丸徒頭、天明6年(1786)には、番方の最高位である先手弓頭に抜擢されている。

 同年8月、眞島秀和が演じる十代将軍・徳川家治が没すると、渡辺謙が演じる田沼意次は失脚。

 翌天明7年(1787)4月、徳川家斉(生田斗真が演じる一橋治済の息子)が十一代将軍の座についた。

 6月には、寺田心が演じる松平定信が老中首座に就任し、寛政の改革を主導していくことになる。

 そんな情勢のなか、平蔵は同年9月、火災の多い冬期だけの火付盗賊改である助役(半年役)に任じられた。

 翌天明8年(1788)4月にいったん助役を免じられたのちに、同年10月、本役に任命されている。

 どのような経緯で火付盗賊改の任につくことになったのかは不明だが、平蔵には向いていたのだろう。

 盗賊団を率い、数百カ所で強盗に及んだ大盗賊・真刀徳次郎を召し捕るなど、めざましい活躍をみせた。

 また、平蔵は借金が嵩むのも気にせず、部下にはたびたび酒食をご馳走し、囚人を役宅に連行してきた町人には、身銭を切って蕎麦などを出前でとって振る舞っている。

 前述の大盗賊・真刀徳次郎が入牢した際には、「大盗と名高い者が、その身なりでは体裁が悪いだろう」と三両を出して着物を整えてやるなど、囚人にも心を寄せたという(高橋義夫『火付盗賊改 鬼と呼ばれた江戸の「特別捜査官」』)。

 逃亡した罪人が、「他の者に捕まるよりも、慈悲深い平蔵様のもとに戻ったほうがいいと考えた」と自首してきたこともあったと伝えられる。

 江戸の町人たちは、「平蔵様」、「平蔵様」と平蔵を慕い、平蔵が火付盗賊改であることを喜んだという。

 このように、庶民には大人気の平蔵であったが、上司や同僚のうけは芳しくなく、悪く言われることも多かった。

 火付盗賊改は、熱心に職務を執行すると、役高、役料以上の出費が嵩む役職だった。

 平蔵も役高の千五百石以上の出費を重ねて、任にあたっている。

 そのため通常は、2、3年で実入りの多い堺奉行などの遠国奉行に転任となるのだが、平蔵は9年も火付盗賊改の任につくことになる。


人足寄場の創設

 この頃、幕府は、田畑を捨てて農村から江戸に流入する無宿(戸籍を失った難民)の増加に、頭を悩ませていた。

 人足寄場は、この無宿を収容して、労働に従事させるのと同時に手に職をつけさせ、自立させようとする更生施設である(山本博文『武士の評判記』)。

 旗本・石川大隅守屋敷地と佃島の間の干潟を埋め立てて造られた。

 この人足寄場の設立を、松平定信に提案し、実現させたのが、平蔵だとされる。

 松平定信の自伝『宇下人言』によれば、懸案の事項である無宿の増大について、定信が幕臣に諮問したところ、平蔵が名乗りを上げたという(現代語訳 山本博文『シリーズ江戸学 旗本たちの昇進競争 鬼平と出世』)。

 寛政2年(1790)2月、平蔵は人足寄場取扱に任じられた。少ない予算のなか、時には私財もつぎ込み、銭相場にも手を出しながら、人足寄場の建設と運営に力を尽くした。

 人足寄場は一応軌道に乗ったが、寛政4年(1792)6月、平蔵は人足寄場取扱の任を解かれている。

 人足寄場を幕府の組織に、取り込みたかったからだとみられている(丹野顯『「火付盗賊改」の正体 ——幕府と盗賊の三百年戦争』)。

 平蔵は都合良く利用されたのだろう。

 以後、平蔵は火付盗賊改としての職務に専念するも、寛政7年(1795)4月、病に倒れた。


将軍家秘蔵の薬を分け与えられる

 病名はわかっていないが、平蔵の病状は日に日に悪化していった。

 平蔵の病は、十一代将軍・徳川家斉も知るところとなる。平蔵の名声は、将軍・家斉の耳にまで届いていたのだ。

 同年5月6日、平蔵の病を心配する将軍・家斉の御言葉があり、将軍家秘蔵の高貴薬「瓊玉膏(けいぎょくこう)」が分け与えられた。

 だが、将軍の破格の厚意も届かず、平蔵は4日後の5月10日(公的な記録では5月19日)に、この世を去った。

筆者:鷹橋 忍

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