曹操陣営で大活躍したにもかかわらず、長寿だった武将・軍師の1位は誰か?

2025年4月2日(水)5時45分 JBpress

 約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?


乱世の中、長生きであることが優れているとは限らないが…

 曹操、劉備、孫権などの英雄が活躍した三国志時代は、後漢帝国の崩壊後であり、戦国あるいは乱世と呼ぶにふさわしい社会状況でした。その中で、彼らは自軍の勢力を創り上げて、乱世を戦い抜きながら英雄への階段を登っていきます。

 この記事では、三国の中でもっとも人材が豊富だった魏(曹操陣営)において、武将や軍師の年齢に着目してみたいと思います。歴史に足跡を残し、乱世を切り開きながらも、なおかつ天寿を全うした人物には、どんな人生戦略や共通点があったのでしょうか。

 ここでは短命であった曹操陣営の武将、軍師も取り上げて、彼らの人生と戦い方を比較してみたいと思います。


曹操を救う活躍、曹操軍飛躍の軍略を練りながら、短命だった人物たち

 曹操配下で短命だった武将から列挙してみましょう。

・鮑信(41歳、192年戦死)
・曹昴(20代、197年戦死)
・典韋(不明、197年戦死)

 鮑信は曹操の挙兵初期から付き従った武将ですが、戦場の偵察を行っている最中に敵に遭遇し、曹操を必死で逃がして自身が戦死。曹昴も敵から奇襲を受けた際に、父親である曹操を逃がすために奮戦して戦死。この戦いでは、曹操の警護をしていた武人の典韋も戦死しています。

 総じて、曹操軍の初期に戦死をした人物は、リーダーである曹操自身の油断、あるいは慢心によって起きた危機を打開するために、奮戦して戦死したということができます。その意味では、曹操がリーダーとして未熟だったゆえの戦死だということもできるでしょう。

 別の表現をするなら、上司の曹操を妄信して、自らは独自の警戒を怠っていたという見方もできるでしょう。初期の戦闘に参加しながらも敗死を免れ続けている武将たちは、曹操の能力を信頼しながらも、自身での警戒や用心を決して怠らなかった者たちなのです。

曹操配下で短命だった軍師の例
・許攸(不明、204年前後)
・郭嘉(37歳、207年死去)
・荀彧(49歳、212年)
・楊脩(45歳、219年)

 許攸は袁紹側から、曹操陣営に寝返った人物。その功を誇り、曹操と旧知の間柄だったことでなれなれしく、その恩着せがましさと無礼が曹操の怒りに触れて刑死。郭嘉は袁紹との官渡の戦い(200年)を勝利に導いた天才軍師でしたが、赤壁の戦いを前に病死しています。

 曹操の覇業を支えた荀彧は、曹操と政治方針が対立したことで死去、楊脩は曹操の跡継ぎ問題で、知恵袋として暗躍しすぎたため、曹植への曹操の愛情が薄れたことをきっかけに刑死。

 曹操配下の軍師、知恵者で短命だった者たちは、主君の前で自分の功を誇りすぎ、あるいは傲慢で慢心が過ぎた者か、曹操と方針が合わないときに自分の信念を捨てられなかった者、またあり余る頭脳の鋭さを見せすぎてしまったことで、曹操から警戒された者たちでした。


曹操配下で、大いに活躍しながらも長寿を全うした武将、軍師たちの人生戦略

 では、曹操配下で大活躍をしながらも、長寿を全うした武将は誰か。

 候補として次の武将を挙げてみました。

・夏侯惇(不明、220年死去)
・曹仁(55歳、223年死去)
・徐晃(不明、227年死去)
・張遼(57歳、222年)

 夏侯惇は呂布軍との戦闘で隻眼になった武将です。曹操が挙兵して以来の宿将であり、次第に曹操軍団の軍事における高位に昇りつめていきます。夏侯惇が隻眼になってから、曹操はこの勇将を次第に後方に配備していますが、全軍の統率的な立場故の天寿ともいえそうです。

 曹仁と徐晃は、共に勇猛果敢な武将でしたが、基本的に用心深く、徐晃は斥候を遠くまで派遣し、万一敵に敗れた場合にどう対処すべきかを常に準備していたと言います。その意味で、曹仁と徐晃は、その用心深さとメリハリ(チャンスにはとことん猛攻する)がその活躍を生み出しながら天寿を全うさせたのでしょう。

 有名な武将の張遼も、戦闘におけるメリハリという意味では徹底しています。相手が大軍であり、こちらが少ない勢力のとき、「まず果敢に打って出て戦い、相手の出鼻をくじいてから固く守る」という方針で多くの戦果を挙げています。

 武将として戦場で活躍しながらも、その天寿を全う出来た者たちの人生戦略とは「一貫した用心深さ」と「メリハリを持たせた攻撃」にあると言えるでしょう。常に万一の情況を考えることと同時に、猪武者のような単純な突撃力に依存していないのです。

 次に、曹操配下の軍師で天寿を全うした人物はどんな人たちだったでしょう。

・程昱(80歳で死去)
・荀攸(58歳、214年)
・賈詡(77歳、223年)
・司馬懿(73歳、251年)

 程昱は後漢崩壊直後から、その叡智を元に活躍し、途中から曹操配下になります。彼は袁紹と曹操の対決や呂布との抗争で常に曹操軍を助ける策を生み出し、曹操陣営初期の立役者の一人となります。程昱は最盛期に引退をしており、政治軍事に関わらなくなったことで、当時では珍しい年齢まで生きることになりました。

 荀攸は荀彧の従弟で、最後まで曹操の方針に一致した献策をすること、また温和な性格であることから天寿を全うしました。

 賈詡は曹操の息子を奇襲で戦死させるほどの智謀の持ち主でしたが、曹操配下になってからも軍師、あるいは謀略家として活躍を続けます。同時に、自分があとから曹操陣営に加入したことで、常に疑われないように、派閥を組んだり有力者と交際することを避けていました。

 司馬懿はのちに魏王朝を簒奪する政変を起こしますが、曹操の長男である曹丕に取り入ったことで曹操の疑念から逃れることができ、曹丕の時代に入ってからその実力を見せ始める狡猾さ、したたかさがありました。

 このように考えると、軍師・知恵者の中で活躍しながら天寿を全うした者たちも、「自分の頭脳を誇らず、奢らず」「上司に疑われるようなふるまいをせず」「功績を鼻にかけず」などの、用心深さとしたたかさを兼ね備えていたことがわかります。

 軍師として初期に活躍した程昱は、その活躍が最高潮に達して、最大のライバルである袁紹を打倒したときに引退しています。そのような知恵ある処世術、あるいは軍師として健全な判断力が、彼に乱世における長寿を与えたのだとわかります。

 これらの点を考えると、乱世に大活躍をしながらも、その天寿を全う出来た者たちには、それぞれに相応しい、健全な人生戦略があったことがわかります。彼らは単に武勇のみ、叡智のみではなく、生き延びるための才覚を持っていたから長生きできたのです。

 今回の記事では、大活躍をしながらも長寿だった武将の1位を徐晃、2位を張遼としたいと思います。徐晃は遠方にまで偵察部隊を出しながらも一方的な展開になった場合は、兵士に食事の時間を与えずに追撃につぐ追撃で勝利を拡大するなど、したたかに勝負したことで活躍しながら生き残りました。

 長寿の軍師1位は程昱、2位は司馬懿とします。程昱は、自己の活躍が絶頂を迎えたときに引退し、その後は疑われるような言動を一切せずに隠棲しました。軍師として八面六臂の活躍をしながらも、人生の引き際を知っていたことはその功績を際立たせるものだと思われるからです。

筆者:鈴木 博毅

JBpress

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