『論語』がトリセツ!? 新1万円札男のお金の美学

4月10日(水)6時6分 JBpress


 渋沢栄一の肖像画が新紙幣に用いられることが決まった。政府・日銀による紙幣一新の発表直後から、『現代語訳 論語と算盤』を出版する筑摩書房へは、書店からの問い合わせが相次いでいるという。日本資本主義の父が生涯を通じて貫いた経営哲学の裏にあった『論語』の考え方と、そこから導かれた貨幣論を、同書を基に改めてひも解いてみよう。(JBpress)

(※)本稿は『現代語訳 論語と算盤』(渋沢栄一著、守屋淳訳、ちくま新書)の一部を抜粋・再編集したものです。


「士魂商才」と『論語』

 昔、菅原道真「和魂漢才」(日本独自の精神と中国の学問をあわせ持つ)ということをいった。これに対してわたしは、つねに「士魂商才」(武士の精神と、商人の才覚とをあわせ持つ)ということを提唱している。

 人の世の中で自立していくためには、武士のような精神が必要であることはいうまでもない。しかし武士のような精神ばかりに偏って「商才」がなければ、経済の上からも自滅を招くようになる。だから「士魂」とともに「商才」がなければならない。

 その「士魂」を、書物を使って養うという場合いろいろな本があるが、やはり『論語』がもっとも「士魂」養成の根底になるものだと思う。では「商才」の方はどうかというと、こちらも『論語』で充分養えるのだ。道徳を扱った書物と「商才」とは何の関係もないようであるけれども、「商才」というものも、もともと道徳を根底としている。

 不道徳やうそ、外面ばかりで中身のない「商才」など、決して本当の「商才」ではない。そんなのはせいぜい、つまらない才能や、頭がちょっと回る程度でしかないのだ。このように「商才」と道徳とが離れられないものだとすれば、道徳の書である『論語』によって「商才」も養えるわけである。


『論語』を手に、実業家へ転身

 また世の中を渡っていくのは、とてもむずかしいことではあるけれども、『論語』をよく読んで味わうようにすれば、大きなヒントも得られるものである。だからわたしは、普段から孔子の教えを尊敬し、信ずると同時に、『論語』を社会で生きていくための絶対の教えとして、常に自分の傍から離したことはない。

 1873年に官僚を辞めて、もともと希望していた実業界に入ることになってから、『論語』に対して特別の関係ができた。初めて商売人になるという時、ふと感じたのが、「これからは、いよいよわずかな利益をあげながら、社会で生きていかなければならない。そこでは志をいかに持つべきなのだろう」ということだった。

 そのとき、前に習ったことのある『論語』を思い出したのである。『論語』には、おのれを修めて、人と交わるための日常の教えが説いてある。『論語』はもっとも欠点の少ない教訓であるが、この『論語』で商売はできないか、と考えた。そしてわたしは、『論語』の教訓に従って商売し、経済活動をしていくことができると思い至ったのである。

 政界や軍部が大きな顔をしないで、実業界がなるべく力を持つようにしたいと、われわれは希望している。実業とは、多くの人に、モノが行きわたるようにするなりわいなのだ。これが完全でないと国の富は形にならない。国の富をなす根源は何かといえば、社会の基本的な道徳を基盤とした正しい素性の富なのだ。そうでなければ、その富は完全に永続することができない。

 ここにおいて『論語』とソロバンというかけ離れたものを一致させることが、今日の急務だと自分は考えているのである。


1万円札になる男の貨幣論

 お金は、現実に世界で通用する貨幣の通称だ。そしてそれは、いろいろな物品の代表者でもある。貨幣がなぜ便利なのかというと、どんなモノにも変わることができるからである。大昔は物々交換をしていたが、今は貨幣さえあれば、どんなものでも心のままに買うことができる。この「いろいろなものを代表できる」という価値を持っているところが貴重なのだ。

 だから、貨幣の第1の条件としては、貨幣そのものの価値と、物品の値段とが等しくなければならない。もし名目だけ一緒でも、貨幣の方の価値が減ってしまうと、物価が上がってしまう。

 また、貨幣は分けるのにも便利である。ここに1円の湯呑みがある。これを2人で分けようと思っても、それはできない。壊して半分にして、50銭分にするわけにはいかない。しかし貨幣ならそれができる。1円の10分の1が欲しいと思えば、10銭硬貨がある。

 さらに貨幣は、モノの価格を決めることができる。もし貨幣というものがなければ、この茶碗と煙草盆(たばこぼん)、どちらの価値が高いのかはっきり決めることができない。ところが茶碗は1個10銭、煙草盆は1円というのであれば、茶碗は煙草盆の10分の1に当たることがわかる。貨幣あってこそ、両者の価格も決まってくるのである。


よく集め、よく使え

 一般的に、お金は大切にしなければならない。これは若い人たちだけに望むのではない。老人も中高年も、男も女も、すべての人が大切にすべきなのだ。前にもいったように、貨幣はモノを代表することができるのだから、モノと同じく大切にすべきなのだ。

 昔、中国の夏王朝を創始したといわれる伝説の王様・禹(う)は、些細なものでも粗末にしなかったことで知られていた。また江戸幕府で採用された「朱子学」で有名な、宋の時代の朱子という思想家は、「1杯のご飯でも、これを作るのにいかに苦労を重ねてきたのか知らなければならない。紙切れや糸くずでも、簡単にできたわけではないことを理解せよ」と述べている。

 また、お金は社会の力をあらわすための大切な道具でもある。お金を大切にするのはもちろん正しいことだが、必要な場合にうまく使っていくのも、それに劣らずよいことなのだ。よく集めて、よく使い、社会を活発にして、経済活動の成長をうながすことを、心ある人はぜひとも心がけて欲しい。

 お金の本質を本当に知っている人なら、よく集める一方で、よく使っていくべきなのだ。よく使うとは、正しく支出することであって、よい事柄に使っていくことを意味する。よい医者が大手術で使い、患者の一命を救った「メス」も、狂人に持たせてしまえば、人を傷つける道具になる。

 これと同じで、われわれはお金を大切にして、よい事柄に使っていくことを忘れてはならない。お金とは大切にすべきものであり、同時に軽蔑すべきものでもある。ではどうすれば大切にすべきものとなるのか。それを決めるのはすべて所有者の人格によるのである。


訳者が語る、渋沢が『論語と算盤』に込めた思い

(『現代語訳 論語と算盤』訳者:守屋淳)

 もともと「資本主義」や「実業」とは、自分が金持ちになりたいとか、利益を増やしたいという欲望をエンジンとして前に進んでいく面がある。しかし、そのエンジンはしばしば暴走し、大きな惨事を引き起こしていく。日本に大きな傷跡を残した1980年代後半からのバブル景気や、昨今の金融危機など現代でも、この種の例は枚挙に暇(いとま)がない。

 だからこそ渋沢栄一は「実業」や「資本主義」には、暴走に歯止めをかける枠組みが必要だと考えていた。その手段が『論語』だったのだ。『論語』は、中国の春秋時代末期に活躍した孔子と、その弟子たちの言行録であり、その卓越した内容から後世の中国、日本、韓国、ベトナムなどの各国に大きな影響を及ぼしていった。

 いずれの国においても、「人はどう生きるべきか」「どのように振舞うのが人として格好よいのか」を学ぼうとするとき、その基本的教科書になっていたのが、この古典だった。渋沢栄一は、この『論語』の教えを、実業の世界に植え込むことによって、そのエンジンである欲望の暴走を事前に防ごうと試みたのだ。タイトル『論語と算盤』とは、まさしくこの思想を体現している。

 ここで現代に視点を移して、昨今の日本を考えてみると、その「働き方」や「経営に対する考え方」は、グローバル化の影響もあって実に多様化している。「金で買えないモノはない」「利益至上主義」から「企業の社会的責任を重視せよ」「友愛」まで、さまざまな価値観が錯綜し、マスコミから経営者、一般社員からアルバイトまでその軋轢のなかで右往左往せざるを得ない状況がある。

 そんななかで、われわれ日本人が「渋沢栄一」という原点に帰ることは、いま大きな意味があると、訳者である私は信じている。この100年間、日本は少なくとも実業という面において世界に恥じない実績を上げ続けてきた。その基盤となった思想を知ることが、先の見えない時代に確かな指針を与えてくれるはずだからだ。

筆者:渋沢 栄一

JBpress

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