江戸庶民憧れのスター、七代目團十郎の波乱の生涯

4月11日(土)6時0分 JBpress

市川團十郎(七代目)『勧進帳』の弁慶(Wikipediaより)

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 新型コロナウイルスの影響で延期が発表された「十三代目市川團十郎白猿襲名披露」公演。初代から十二代まで長い歴史をもつ「市川團十郎」はどれほどの重みのある名跡(みょうせき)なのか。「勧進帳」の初演者であり「歌舞伎十八番」の制定者である七代目の、波乱に富んだ生涯に迫る。(JBpress)

(※)本稿は『市川團十郎代々』(服部幸雄著、講談社学術文庫)より一部抜粋・再編集したものです。

 さまざまな芸術の分野の中で、演劇は生身の役者の肉体を媒体として創造される点にその特色があることは、あらためて言うまでもない。このことは古今東西を問わず、あらゆる演劇に共通に言い得るところである。

 しかし、歌舞伎という日本の伝統演劇にとって、この傾向は格別に顕著だった。

歌舞伎の場合、とくに「役者中心の演劇」とか、「肉体で戯曲を書いていく」といった性格が強調されることのあるのは、それが西欧の近代演劇と対比した時に際立って見える特色だからである。

 歌舞伎にとって、個性の豊かな役者の魅力は、ほとんど絶対的なものである。天賦の容姿、才能、個性的な芸風などの上に、本人の修行の努力によって培われた技芸、親や師匠から確実に伝承された型や芸、それぞれの役者の個性が舞台上でぶつかり合い、せめぎ合って、歌舞伎は支えられている。

 そして舞台の上で燃焼しつくすその個性的な芸は、やがて子どもや弟子たちの肉体に受け継がれ、次の時代への技芸の伝承が行われる。

 元禄歌舞伎は歌舞伎の歴史の出発点である。むろん歌舞伎はそれより半世紀以上も以前に生まれていたのだが、後世の歌舞伎の基礎がほぼ固まったのが元禄時代であり、これを第一次完成期と考えていい。

 元禄歌舞伎の時代からおよそ三百年を隔てたこんにちまで、江戸(東京)歌舞伎の中で常に特別な地位を占め、最も大きく重い名前とランク付けされてきたのが「市川團十郎」の名跡(みょうせき)であった。

 元禄歌舞伎の代表的名優であった初代(元祖)から、十二代目に至るまで、12人の「市川團十郎」が、江戸(東京)の庶民文化の歴史の中で、それぞれの時代に花を咲かせつづけてきた。


歌舞伎誕生

 慶長8年(1603)は、徳川家康が征夷大将軍の宣下を受け、江戸の地に幕府を開いた年である。まさしく近世の幕開きである。長い間打ちつづいた戦乱がようやく収まり、ひさしぶりに平和な日々が蘇ろうとしていた。

 ちょうどこのころ、京の北野社頭や五条の河原に小屋を掛け、「かぶき」と呼ばれる新芸能が誕生してくる。

 出雲のお国と名のる一女性の率いる一座が地方から都に上り、はなやかな扮装で煽情(せんじょう)的な踊りの芸を演じたところ、これが大成功してまたたくまに時代の寵児(ちょうじ)となり、貴賤を問わぬ大衆の支持を受けた。

 ただちにお国の歌舞伎を模倣した遊女歌舞伎も生まれたが、風俗を乱すとの理由で寛永年間(1624〜44)に女性の芸能いっさいが禁止された。これに代わって若衆歌舞伎がもてはやされるが、これも同じ理由で、承応元年(1652)に禁じられてしまう。

 以後、若衆の象徴である前髪を剃り落とし、野郎頭となった役者たちが、物真似中心の芸能を演じることとなり、これをきっかけにして歌舞伎は演劇として飛躍的に成長していった。


波乱に富んだ七代目の生涯

「勧進帳(かんじんちょう)」の初演者であり、「歌舞伎十八番」の制定者であることは、七代目團十郎の担った栄誉として、現代にも広く知られていることがらである。しかし、七代目の歩んだ人生は、けっしてはなやかで平坦な道ではなかった。

 一見自由奔放、豪放磊落(ごうほうらいらく)で、気の向くままに行動したように思われ、従来そう理解されてきた七代目であるが、本当の人柄は意外に小心で、几帳面なところもあり、かなり神経質で、生真面目な一面を持っていたように思われる節がある。

 彼ほど個人的な手紙をたくさん書き残した役者は珍しいが、それらを見ると、いずれも非常に長文の手紙で、こと細かに身辺の事がらを記している。

 洒落っ気に富み、たとえば平仮名の「め」の代わりには必ず眼玉の絵を描く(七代目の眼は格別大きく、これをトレードマークにして、みずから「眼玉」の号を使っていた)など、つねに遊びの気分が横溢(おういつ)しているのは、江戸人気質の代表選手と呼ぶにふさわしい。

 天保11年3月、「勧進帳」を初演した七代目(当時海老蔵)は、市川流宗家の権威を確立し、人気も絶頂であった。

 しかし、天保の改革による弾圧は、劇界全体に対してはもちろん、七代目個人の上にも厳しく襲いかかってきた。

 遠山左衛門尉の進言によってかろうじて取りつぶしを免れた江戸三座は、辺鄙の地であった浅草に強制移転を命じられた。


江戸追放

 天保13年(1842)4月6日、南町奉行鳥居甲斐守(かいのかみ)から召喚された七代目は、手鎖のうえ家主の預かりになり、さらに吟味の後、6月22日にいたって江戸十里四方追放の刑に処せられた。

 改革の趣旨に背き、身分不相応な奢侈(しゃし)の生活を送り、舞台でも贅沢きわまりない道具を使っているというのが、追放の理由であった。江戸市民の憧憬の的であった七代目を処罰することのもたらすであろう絶大な効果をねらったものに違いなかった。

 江戸を追われた七代目は、6月25日に出発し、成田屋七左衛門と改名して、とりあえず成田山新勝寺の延命院に寓居した。

 しかし、下総の領主堀田正睦が当時老中を務めていたこともあって、七代目の行状についての監督が格別に厳しかったらしく、いたたまれなくなった七代目は翌年2月に成田をたち、12日ひそかに府中在の百草村松蓮禅寺に立ち寄り、さらに14日には眼医伊達本益を頼って行く。常照院からの送り手形を携えて行った。

 富士根方(静岡県)の伊達本益とは以前から親しい交際があったらしい。この時成田山新勝寺からも、七代目をよろしく頼むという内容の書簡が届けられている。ここに落ちついた七代目は、久しぶりにのんびりとした日々を楽しんだと見えて、得意の書画を揮毫(きごう)した作品がたくさん遺されている。

 江戸の家族から留守中の出来事を知らせた書状もあり、その中には八代目から父に宛てた書簡もある。

 本益に恩義を感じた七代目は、赦免(しゃめん)されて江戸に帰ったのちも、しばしば手紙を送って交際を続け、新板の浮世絵を贈ったり、江戸の芝居の様子を伝えたりしている。

 自身を「親どんぐり」、八代目を「どんぐり」と言い、本益を「いがぐり」とたがいにあだ名で呼び合う親密な仲で、手紙の中に描いた戯画のうちにも幕末江戸人の典型のような七代目のしゃれた素顔がうかがわれてほほえましい。なお、「団栗」を俳名の一つとして使っていた。

 この地で1、2カ月を過ごしたのち、伊勢古市の芝居に出演し、やがて大坂に上った。以後は大坂に住んで、京との間を往復するとともに、大津、桑名など各地の芝居に出ていた。

 七代目が地方の芝居に出演する時は、市川海老蔵のほか、市川白猿、幡谷重蔵、成田屋七左衛門という名を使っている。


晩年の七代目團十郎

 いつの時代も、人気は移ろいやすく変わりやすいものである。足かけ9年にわたって江戸を留守にした間に、江戸人の人気は若くて美貌の八代目團十郎に集中しており、さすがの七代目もかなりの衝撃を受けたらしい。

 艶福家で知られた七代目には2人の妻と3人の愛妾があり、当時江戸の木場の自宅には後妻のすみと2人の愛妾(さと・ため)が同居していたので、家庭内のもめごとが絶えなかった。

 この3人はそれぞれ、八代目團十郎、市川白猿、九代目團十郎・猿蔵・幸蔵・海老蔵の母親であるから、子どもがからむ複雑な愛憎が渦巻いて七代目を苦しめた。さらに追放中の出費と大世帯のための借財などが募り、生活も苦しかった。7男5女をもうけ「寿海老人子福者」と気取って楽天的に見せてはいたものの、晩年の生活はけっして幸せではなかったと思われる。

 嘉永5年(1852)9月河原崎座で、一世一代の名残として「勧進帳」の弁慶を演じた。この時、剃髪して、口上の舞台で鬘を取って坊主頭を見せたと言う。

 江戸を離れる決心をした七代目は、嘉永5年の暮れに江戸をたち、翌年正月には大坂の角の芝居へ出た。それ以後、大坂と京都を中心として、堺、名古屋、宮島、伊勢、兵庫など転々と各地の芝居に出演している。その間、嘉永7年(1854)8月に、江戸から呼び寄せた八代目が大坂の宿で自殺するという不幸に見舞われた。

 安政5年(1858)5月、6年目に江戸に帰って市村座に出、翌6年は中村座に出演して「根元草摺引(こんげんくさずりびき)」の曾我五郎を演じたのを最後に、3月23日波瀾に富んだ生涯を閉じた。69歳であった。

筆者:服部 幸雄

JBpress

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