現代でも使える、源頼朝が挙兵を成功に導くためにやった、魅力的な秘策とは?

2024年4月11日(木)5時50分 JBpress

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います


流罪地でも敵だらけでなかった幸運

 永暦元年(1160)3月、13歳の源頼朝は、死刑を免れて、流刑地・伊豆国に配流となります。伊豆に流された頼朝は、当初は同国の豪族・工藤氏、続けて伊東氏(祐親)の監視を受けたと考えられています。私は、頼朝は幸運に恵まれた人物だったと前稿で述べましたが、それは流罪地においても変わりませんでした。

 先ず、頼朝を支援してくれる人々がいました。その代表的存在と言えるのが、頼朝の乳母・比企尼でした。尼は、夫(比企掃部允)が代官となっていた武蔵国比企郡(埼玉県)に都から赴き、そこから、頼朝に仕送りをしたのです。それも1年や2年ではなく、20年にも亘って(『吾妻鏡』)。

 比企尼と夫との間には、3人の娘がいましたが、彼女たちは、安達氏・河越氏・伊東氏という関東各地の有力武士のもとに嫁ぎます。その中でも、比企尼の長女と結ばれた武蔵国の安達盛長は、流人・頼朝の側近くに仕え、支えていくことになるのです。このように、流罪の地で、周りが敵だらけでなかったことが幸運の1つ。そして、幸運の2つ目は、流人生活が比較的自由であったことでしょう。

 伊豆国伊東の豪族・伊東祐親の3女と、頼朝は恋愛関係となり、ついには男子までもうけたとの逸話(『曽我物語』)もあります(生まれた男子は、平家を恐れた祐親により殺害)。祐親の魔の手は、頼朝にも向き、生命が危うくなりますが、祐親の次男・祐清が事前に襲撃を知らせてくれたので、頼朝は危地を脱することができました(1175年。ちなみに、祐清は比企尼の3女と結婚しています)。

 伊東を逃れた頼朝を保護したのが、伊豆国北条の豪族・北条時政です。時政の娘の1人が北条政子であり、政子が頼朝の正室となったことは言うまでもありません。北条が親族となったことも、頼朝にとっては心強いことであるし、幸運なことだったと思います。

 頼朝の周りには、父・源義朝の家人だった者たちも参集してきます。佐々木秀義の一族などがそうです。頼朝の乳母も比企尼だけではなく、複数おり、そのなかの乳母の甥で、下級公家の三善康信は、都の情勢を月に3度も頼朝に知らせていました。


中央の政治情勢の変化が運命を変える

 このようなことを考えると、頼朝の監視体制は穴だらけだったことが分かります。都から遠い伊豆に流したし、伊豆の周囲にも親平家の豪族もいる、何ができようかとの想いが、平家方(清盛)にあったのかもしれません。が、中央の政治情勢の変化が、頼朝の運命を、そして平家の運命も変えていきます。

 頼朝配流から20年後の治承4年(1180)4月、後白河院の第2皇子・以仁王が平家に対し、挙兵。平家討伐を命じる命令書(令旨)は、諸国に配布されます。令旨が頼朝のもとに届いたのが、同年4月27日だったとされます(『吾妻鏡』)。頼朝は、舅である北条時政を側に招き、令旨を見たといいます。以仁王の乱は、平家によりすぐに鎮圧されました。令旨を得て、頼朝はすぐに挙兵を決断し、動いたように思われますが、実はそうではありません。同年6月上旬となっても、挙兵の動きは見られません。

 頼朝挙兵の1つの契機となったのが、都の三善康信がもたらした情報と考えられます。康信は使者を遣わし「以仁王の令旨を受け取った源氏は全て滅ぼすように命令が出ました。頼朝様は源氏の正統なので危険です。早く奥州に逃げたほうが良いでしょう」との情報とアドバイスを頼朝に伝えたのです。「諸国の源氏を平家が追討する」との報を、頼朝は重く受け止めました。やられる前に先手を打って挙兵し、活路を見出す。それが頼朝の考えでした。挙兵に加勢してくれる武士探しを始めたのが『吾妻鏡』によると、6月24日のこと。腹心の安達盛長が相模国に派遣されました。

 ところが、頼朝の乳母の子・山内首藤経俊や、義朝と縁戚にあった波多野氏は、挙兵に反対。使者に暴言を吐く始末でした(彼らは平家に近く、頼朝挙兵は無謀と考えていたのでしょう)。が、頼朝挙兵に賛意を示した人々もいました。平家の圧力に苦しむ伊豆や相模国の武士が頼朝に加勢せんとしたのです。

 工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、宇佐美佑茂、天野遠景、佐々木盛綱、加藤次景廉・・・そういった武士たちを、頼朝は1人1人、順番に部屋に呼んで、挙兵の相談をしつつ言いました。「未だ誰にも口外していないが、汝だけが頼りだ」と(『吾妻鏡』8月6日条)。頼朝の言葉に、声をかけられた武士らは、感激。頼朝のために尽くそうと、心を強くしたようです。リーダーや上司からの声かけは重要で「部下への声掛けを怠ると、職場のやる気は消えていく」(沖本るり子『ダイヤモンドオンライン』2012・7・13)との見解もあります。

 同稿には「細かいところまで気を配って、よく頑張っているね」というリーダーからの言葉がけで「あっ、私の仕事ぶりを見てくれているんだ」と思い、感激し、それまでの仕事の疲れも吹き飛んだという部下の言葉が載っています。言葉がけによって「期待以上のことをやってやるぞというやる気」を引き出したのです。「リーダーから認めてもらえるということが、自分を信じることにもつながった」のでした。前述の頼朝の言葉がけと、それに対する武士団の反応も、ある意味、これと同じことが言えると思います。頼朝は巧みな人心掌握術を身に付けていたのです。

筆者:濱田 浩一郎

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