なぜ日本人だけがゴボウを育て文化に発展させたのか

4月12日(金)6時0分 JBpress

ゴボウ。栽培がなされ、またさまざまな料理に使われる点で日本特有とされる。

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 日本人は「根菜」、つまり根や地下茎を食用とする野菜をたくさん食べてきた。本コラムでも取り上げたダイコンの他、ニンジン、カブ、レンコンなどなど。土の中で蓄えられる栄養を大切にいただいてきたのだ。

 さまざまな根菜の中でも「ゴボウ」ほど、日本の特有性が高い食材はないだろう。伝来種とされながら、日本でのみゴボウ栽培が発展していった。また、ゴボウがさまざまな食材として使われているのも日本だけという。

 東日本ではきんぴらゴボウ、西日本ではたたきゴボウが、ハレの日にも日常的にも食べられる。汁物や炒め物の具材、また天ぷらのタネとしても使われる。今も日本人はゴボウ好きといえよう。

 今回は、ゴボウをテーマに、日本における歴史と現在を前後篇で追っていきたい。前篇では、日本での独自の歩みを農と食の観点からたどっていく。ゴボウが栽培されたり、さまざまな料理に使われたりといった発展を遂げたのは日本だけ。その理由にも迫りたい。後篇では、ゴボウに注がれている現代の研究について伝えたい。福岡県で取り組んでいる「サラサラごんぼ」という新品種の開発について紹介する予定だ。


平安時代の古文書に「悪實」「支太支須」という言葉が

 ゴボウというと、色や風味からいかにも日本の食材っぽい。だが、原産地は西アジアから地中海沿岸にかけて。日本への渡来については、平安時代、薬用として使われていた中国からという説がある。その一方で、より古く、縄文時代の鳥浜遺跡(福井県)、三内丸山遺跡(青森県)、忍路土場(おしょろどば)遺跡(北海道)などからゴボウの種子が出土している。複数方面からの経路があったのかもしれない。

 日本の文献に初めてゴボウの記述があったのは、平安時代の昌泰年間(898-901)に成立した漢和字書『新撰字鏡』において。「木」の部に「悪實 支太支須乃弥」とある。「悪實(悪実。あくみ)」は、ゴボウの種子のこと。また「支太支須(きたきす)」はゴボウの古名だ。

 今も使われる「牛蒡」の字については、延喜年間(901-923)に成立した本草書『本草和名』の第九巻「草中」に「悪實 一名牛蒡(略)和名岐多伊須」とある。なお、「牛蒡」は、ゴボウのひげ根が牛の尾に似ており、それに草の名前の「蒡」がついてできたといわれる。かつては「うまふぶき」とも呼ばれていた。また、「牛房」と書かれることも多い。


「栽培植物へ」という一大転換

 ゴボウが日本人にどのように栽培されるようになったか。その歩みも文献の記述からうかがえる。

 承平年間(931-938)につくられた辞書『倭名類聚抄』に「牛蒡」が出てくるのは「蔬菜部」の「野菜類」において。この部には「園菜類」もある。ここから、北海道開拓記念館元学芸部長の山田悟郎氏は、当時のゴボウは畑で栽培されたものでなく、山野で採られた山菜だったと考えられると推測する。

 では、ゴボウが栽培されるようになったのはいつごろか。京都の東寺に伝えられた古文書『東寺百合文書』には、鎌倉時代中期の1266(文永3)年における丹波国の大山庄領家の注文事として「牛房五十把」また「山牛房卅本」の記述がある。ここから「山牛房(やまごぼう)」だけでなく、栽培された「牛房(ごぼう)」も存在したと見ることができる。

 つまり、この2つの文献から、平安中期から鎌倉中期の間に、ゴボウが栽培されるようになったことが推察できるわけだ。世界で日本だけとされるゴボウ栽培を、まさにこの時期の日本人が成し遂げたことになる。


江戸期に生まれた滝野川ゴボウが日本各地に広まる

 その後、江戸時代にもなると、日本の各地でそれぞれに特徴を持ったゴボウが栽培される時代となった。今の千葉県匝瑳市大浦地区に古くから根づいていた「大浦ゴボウ」、石川県七尾市の沢野婆谷神社の神職が京都からコボウの種を取り寄せて植えたのが始まりとされる「沢野ゴボウ」、山口県美祢市美東町の赤土を利用した「美東ゴボウ」などだ。

 そうした中、元禄年間(1688-1704)、江戸の北豊島郡滝野川村(今の北区滝野川)では、鈴木源吾という人物がゴボウを改良し、栽培に取り組んだ。当地は水田に乏しかったが、やわらかな黒土に覆われて水はけはよく、畑作には適していたようだ。そこで、根の長い大きなゴボウが作られた。そして地名から「滝野川ゴボウ」と呼ばれるようになった。

 鈴木はゴボウの種子を売ってもいたらしく、その後、滝野川ゴボウは日本の各地に広まっていった。各地でその後、生まれた品種の多くには、滝野川ゴボウの系統が含まれるようになり、今や日本で栽培されているゴボウの種の9割は、滝野川ゴボウの系統に関係しているともされる。


「きんぴら」も「たたき」もハレの日の料理食材だった

 食材としてのゴボウにも目を向けてみたい。中国からの影響を受け、当初は日本でもゴボウは薬用として使われていたとされる。

 料理にゴボウが使われていたことが分かる最古の文献は、平安時代の1146(久安2)年ごろ作られた、恒例・臨時の儀式、行事における調度についての記述『類聚雑要抄』にある。1118(元永元)年9月24日に供された宇治平等院御幸御膳のうち「干物五杯」の字の下に「海松(みる)、青苔(あおのり)、牛房(ごぼう)、川骨(かわほね)、蓮根(はすのね)」と並んでいる。その後は、南北朝時代から室町時代にかけて成立したとされる教科書『庭訓往来』の中で「煮染牛房」と記されている。ゴボウは煮物の材料だったようだ。

 日本の各地におけるゴボウ食は、どう展開していったのだろう。ゴボウの食文化などを研究する冨岡典子氏は、正月などの儀礼食として、関東以北では「きんぴらゴボウ」が、近畿地方では「たたきゴボウ」や「ゴボウのおひたし」が伝承されてきたと述べている。そして、祭りではゴボウがお供えになっていたことも触れ、「古代よりごぼうが神饌として供されたことが近畿地方を中心にごぼう料理の発達を促したと考えられないであろうか」と推測している*1

 煮しめ、きんぴら、たたきなどのゴボウ料理は、基本的には「ハレの日」に出されるものだったようだ。だが、江戸時代も下ると、総菜屋などでゴボウが売られるようになり、庶民の日常食としても食べられるようになった。1853(嘉永6)年に完成した喜田川守貞の風俗考証書『守貞漫稿』には、「菜屋」と呼ばれる総菜屋の記述があり、生アワビやスルメ、焼き豆腐などの他、クワイ、レンコン、そしてゴボウが醤油の煮しめとして売られていたという。こうした店は江戸のあちこちにあったとも記されている。


外国人は「ゴボウ食で虐待された」と訴える

 太平洋戦争中、ゴボウを巡ってこんな国際事件があった。日本軍は敵国捕虜たちにゴボウ料理を与えていた。だが、捕虜たちにはゴボウ食の文化も経験もあるはずがない。戦後の軍事裁判では、当時のオーストラリア人捕虜から「私は木の根を食べさせられた」という虐待を受けたとの訴えがあった。ゴボウを与えていた旧日本軍人は戦犯扱いになったともいう(その罪だけではないだろうが)。ゴボウを食べる文化と食べない文化の違いから生じた出来事だ。

 世界を見渡しても、ゴボウを食べる文化があるのは日本と韓国ぐらい。その韓国も、日本ほどさまざまなゴボウ料理があるわけではない。日本におけるゴボウの栽培や食は、世界で唯一のものといってよい。

 ではなぜ、ゴボウの栽培や食が日本だけでこれほど発展したのか。前出の冨岡典子氏は、ゴボウとよく似た日本原産のアザミ属を食べる習慣が一要因だという考えを示している*1。キク科アザミ属の「モリアザミ」は「山ゴボウ」とも呼ばれ、古くから根も食べられてきた。日本原産の山ゴボウに対するこうした食習慣が前段にあり、日本人だけが当然のようにゴボウも「食べられるもの」と認識し、日本固有のゴボウ食文化にまで発展したとすれば、興味深いことだ。

 他の国のことはつゆ知らず、日本人はゴボウの格を上げに上げてきたのだ。そして今もなお、ゴボウの栽培や食を発展させる日本人の営みは続いている。後篇では、ゴボウの新品種の開発の取り組みを追ってみたい。

(後篇へつづく)

*1:冨岡典子「日本におけるごぼうを食材とした料理の地域的分布と食文化」 日本家政学会誌 52, 511-521 (2001)

筆者:漆原 次郎

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