『べらぼう』「西の丸の爺」松平武元ってどんな人?吉宗、家重、家治と三代の将軍に仕えたベテラン老中の生涯
2025年4月14日(月)6時0分 JBpress
(鷹橋忍:ライター)
大河ドラマ『べらぼう』第15回「死を呼ぶ手袋」では、石坂浩二が演じる松平武元(たけちか)が、奥智哉が演じる徳川家基の急死を巡り、忌み嫌っていた渡辺謙が演じる田沼意次と力を合わせた。今回は、この松平武元を取り上げたい。
16歳で三代藩主に
江戸幕府が編修した武家系図集『寛政重修諸家譜』によれば、松平武元は、正徳3年(1713)に生まれた(諸説あり)。
享保4年(1719)生まれの田沼意次より、6歳年上となる。
父は、水戸徳川家の分家である常陸国府中藩の三代藩主・松平頼明(よりあき)、母は九野氏、武元は二男(諸説あり)と、『寛政重修諸家譜』には記されている。
武元は享保13年(1728)、数えで16歳の時、上野国館林藩の二代藩主・松平(越智)武雅の臨終に際して(同年7月28日に死去)養子入りし、三代藩主となっている。
松平(越智)家は、六代将軍・徳川家宣の実弟・松平(越智)清武にはじまる家門大名で、武雅は、清武が美濃高須藩から迎えた養子である。
武元は同年9月22日、亡養父・武雅の遺領を引き継ぐも、同日、陸奥国棚倉に転封となった。
八代将軍・徳川吉宗に継嗣の補佐を託された?
武元の棚倉治政は特筆すべきことはなく、早くから幕政に参画していたという(藩主人名事典編纂委員会編『三百藩藩主人名事典』第1巻)。
武元は元文4年(1739)に奏者番となり、延享元年(1744)に寺社奉行を兼ねている。
奏者番は大名、旗本の将軍謁見の際に、取次や進物の披露を担う。譜代大名の中から優秀な若手が選ばれたという(安藤優一郎『田沼意次 汚名を着せられた改革者』)。
寺社奉行は、全国の寺社の支配・管理、および、将軍家の宗教行事を司る。
町奉行、勘定奉行とともに「三奉行」の一つに数えられ、奏者番の上位者が任命された。極めて重要な職であるのと同時に、老中などへの出世コースのスタート地点でもあった。
武元は名門出身のうえ、人柄もよく、才能豊かな人物だったといわれ(大石学『徳川将軍事典』)、時の将軍・徳川吉宗も高く評価し、厚い信頼を寄せていたとされる。
吉宗の継嗣・徳川家重は、言語が不明瞭のため、家重の言葉を理解できるのは側用人の大岡忠光のみだったといわれ、しかも病弱だったという。
家重の行く末を案じたのか、吉宗は武元に、「家重を末永く補佐するように」と託している。
武元は吉宗に応え、「(家重の)御病重りし時も、明くれ西城に伺候して、御薬の事なと専に沙汰しける」という(「有徳院殿御実紀付録」黒板勝美編『国史大系 第46巻』所収)。
西の丸の爺
延享2年(1745)11月、吉宗は隠居して大御所となり、徳川家重が九代将軍の座に就いた。
翌延享3年(1746)、武元は西丸老中に抜擢され、家重の継嗣・眞島秀和が演じる徳川家治(のちの十代将軍)の教育係を務めた(大石愼三郎『田沼意次の時代』)。
家治は武元を、「西の丸の爺」と呼んで慕ったという。
この年、武元は棚倉から館林に転封となり、9月に入封している。ようやく館林に戻ることができたのだ。
延享4年(1747)には、本丸老中の座についている。
宝暦10年(1760)、徳川家重は将軍職を継嗣・徳川家治に譲った。
家治は将軍職を継いだ翌日、武元に「私は年若く、国家の事に習熟していない。もし、私に過ちがあれば、必ず糺し、戒めよ」と告げたという(「浚明院殿御実紀付録」黒板勝美編『新訂増補 国史大系 第47巻』所収)。
家治は武元を、心から信頼し、頼りにしていたのだろう。
任期、歴代最長
宝暦12年(1762)、武元は勝手掛老中に任じられる。
勝手掛老中とは、江戸幕府において、財政・農政を専管とする老中のことである。
五代将軍・徳川綱吉の治世下である延宝8年(1680)に始まったが、常置されるようになったのは、武元が任じられてからだいう。
大変な激務で、任期は5年未満が多いが、武元は16年8カ月も務めた。もちろん、歴代最長である。
明和6年(1769)には加増されて、6万1000石となる。
一方、田沼意次は安永元年(1772)1月、正式に老中の座についたが、武元に敬意を表し、武元が生きている間は、幕政を我が物にすることはなかったという。意次が後世に語られるような権勢を振るうのは、武元がこの世を去ってからである(以上、大石学『徳川将軍事典』)。
老中在職のまま死去
安永6年(1777)3月、武元は病に罹り、良くならないので、老中を辞したいと願い出たが、許されなかったという(群馬県邑楽郡館林町編『館林人物誌』)。
武元は安永8年(1779)7月25日、老中在職のまま、この世を去った。
享年67。
吉宗、家重、家治と三代の将軍に仕え、33年もの間、老中の地位にあった。その権威は最期の瞬間まで、衰えなかったと伝えられる。
筆者:鷹橋 忍