<ヨシエイナバ>デザイナー、稲葉賀惠「85歳でブランドに終止符を打った理由。上質な服作りの追求が難しくなって…寂しさはあるけれど思い残すことはない」
2025年4月15日(火)12時30分 婦人公論.jp
「私はこれまで上質な服を追求してきましたが、満足のいくパフォーマンスを続けていくのは難しいと悟り、終止符を打とうと決めたのです」(撮影:荒木大甫)
上質な素材と洗練されたベーシックなデザインで、長年にわたり多くの女性の支持を得てきたファッションブランド「yoshie inaba」。デザイナーの稲葉賀惠さんは、2024年秋冬コレクションの発表を最後に、同ブランドをクローズしました。デザイナー人生に区切りをつけた現在の思い、そしてこれからの生活は——(構成:丸山あかね 撮影:荒木大甫)
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寂しさはあれど気持ちはスッキリ
心を込めて取り組んだ最後のコレクションは、おかげさまで好評をいただき、無事に終えることができました。全国に構えていた28店舗も今年の2月にすべて閉じ、これをもって完全に引退です。まだまだ元気に過ごしているとはいえ、85歳になればどうしたってあちこちが傷んできますからね。(笑)
時代の変化にともなって、信頼関係を培ってきた工場が相次いで閉じてしまったことも、痛手でした。私はこれまで上質な服を追求してきましたが、満足のいくパフォーマンスを続けていくのは難しいと悟り、終止符を打とうと決めたのです。今はとてもスッキリしています。
昔から、引退する時はひっそりと、と決めていました。でも、社内で「本をつくったらどうか」という案が持ち上がり、気持ちが動いたのです。
残念ながら過去の作品は会社に保管していなかったのですが、自分のクローゼットにある服なら提供できますし、長年支えてくださったお客さまに直接会えずとも、感謝の気持ちをお伝えできる。作業は想像以上に大変だったものの、でき上がった『yoshie inaba』はまさに私の集大成。もう思い残すことはありません。
1月の終わりに開いたお別れパーティーには、たくさんの仲間が方々から集まってくれて、まるで同窓会のようでした。あの人にもこの人にもお世話になったと、さまざまな場面が鮮やかに蘇ってきて……。
もちろん寂しさもあります。だからといって「楽しい季節は終わってしまった」なんて考えるのはナンセンス。私の心が穏やかなのは、「なんて素敵な経験をさせていただいたのだろう」と思っているからでしょう。私が長くやってこられたのは、奇跡のようなものですから。
13歳頃、自分でつくったワンピースを着て(写真提供:稲葉さん)
家庭の中で感性を育み、服づくりに目覚めて
私は東京・八重洲に生まれ、5歳の時には3月10日の東京大空襲を経験しました。B29の爆音や焼夷弾が落ちる時のサラサラとした音は、今も耳に残っています。私にとって、この一夜を生き延びたことからして奇跡なのです。
焼け出されて一家で鎌倉へ移った頃は、終戦を迎えたとはいえ、まだまだ日本中の人が貧しい暮らしを余儀なくされていました。それを思えば、私の家庭環境は恵まれていたと思います。
大正時代にアメリカからタイプライターを輸入して会社を興した祖父も、画家を夢見ながらやむなく家業を継いだ父も、外国人の職人が仕立てたスーツを着ていました。戦後しばらくは、アメリカに暮らす大叔父が心配して、食料や洋服、ファッション誌などを頻繁に送ってくれて……。
つまりわが家は《西洋かぶれ》だったわけですが、お菓子のポップなパッケージや可愛いフリルのワンピースといった夢のある美しいものが、私の感性を育んでくれたように思います。
祖母は手先が器用で、何でも自分で縫ってしまう人。最新のファッションにこだわる母も、アメリカから送られてくる型紙で見事に服を縫い上げるので、子ども心にすごいなと思っていて。私も影響を受け、小学生の頃からお人形や着せ替えの服をつくっていました。
家で着る服は、母がつくってくれたり、近所の仕立屋さんに頼んだり。でも、母の好みは真面目な感じで、高校生の頃にはもの足りなさを覚えるようになっていました。
かといって、私の着たい服はどこにも売っていない。それなら自分でつくるしかない! というのが、服づくりを始めたきっかけでした。
刺激がいっぱいの青春時代
さらに、私の人生を左右した出来事といえば、高校卒業後、御茶ノ水にあった文化学院の美術科に進んだことでしょうか。実は、ほかに進学したかった大学があったのだけれど、落ちてしまって。さてどうしようと思い、親戚に勧められた文化学院を見学しに行った時、私に合いそうだと直感したのです。
文化学院は自由な校風で、普通の学校では味わえないことばかりでした。授業の講師は、板画家の棟方志功さんや洋画家の村井さん、宗教哲学者のさんなど一流揃い。個性豊かなクラスメイトたちからも刺激をもらいました。あれが私の青春時代。
西洋から一気に入ってきた新しいカルチャーに触れ、芸術を語り合ったり音楽を聴いたり、ファッションを競ったりしながら自由を謳歌しました。この学校で学んだことは、今も私の糧となっています。
卒業後は、パリでオートクチュールを学ばれた原のぶ子先生が設立した洋裁学校に通いました。本格的に洋裁を学びたいという思いと、もう一つ、山のように舞い込む縁談から逃れたかったから(笑)。
自立したかったというより、自由でいたかったのです。原先生の指導は厳しかったですが、おかげで美しいシルエットの服をつくるための技術を習得することができました。
でも、当時日本に進出してきたジバンシィのアトリエで働きたいと門戸を叩いたものの、ご縁がなくて2度も断られてしまった。悔しい思いをしましたが、美しい服をつくる夢を絶対に諦めない、と奮起したことを覚えています。
ほどなくして、文化学院時代の同窓で洋裁学校にともに進んだ菊池武夫と結婚し、2人でオートクチュールのアトリエを始めました。
デザイナーは菊池、私は縫製を担当し、幸先よくスタートを切ることができたのです。ところが菊池は贅沢な素材にこだわる人で、採算が取れず、家計は火の車でした。
その頃、原先生の指名でモデルのピンチヒッターを務めたことがきっかけで、雑誌『ミセス』から熱意あるお声がけをいただき、専属モデルを務めることに。とはいえ、大事な縫製の時間を割くわけですから、私もメリットがほしい。
そこで、菊池武夫の服を着ること、撮影は月に1日のみ、という条件を出したのです。身のほど知らずもいいところでした。それなのに編集長は私を可愛がって、服飾の関係者もたくさん紹介してくださった。心から感謝しています。
<後編につづく>
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