島崎今日子「富岡多惠子の革命」【13】ひとり荒野を歩く

2025年4月15日(火)6時0分 婦人公論.jp


富岡多惠子と。山歩き中のスナップ(写真提供:石坂秀之氏)

戦後の日本文学史に決定的な影響を与えた詩人であり、作家であり、評論家であった富岡多惠子。54年を連れ添った夫・菅木志雄をはじめ、さまざまな証言者への取材をもとに、87年の生涯を辿る。

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『芻狗』の波紋


 1979年、「群像」5月号に富岡多惠子の「芻狗(すうく)」が掲載されると、文壇では小さな波紋が広がった。芻狗とは儀式が終わると捨てられる祭事のための藁でつくった犬のこと。作家は全集の月報で「ロマンチック・ラブ・イデオロギーに対する異和感」を意識したと語り、85年に鶴見俊輔と「強姦論」をテーマに対談したときには、インテレクチュアルに書いた小説だ、と自作を解説した。

〈『芻狗』では中年の女が意識的意欲的に若い男を一本釣りしていく。しかし、性交はする、というより性交しかしないのに性的快楽におぼれない。中年の女が若い男の肉体におぼれるとか、女が浮気をしたら必ずおぼれる、というような俗説の噓をくつがえす〉〈次々に男がひっかけられていくことに対して男がどういうふうに反応するかということに、わたしは興味があったの。/女の肉体が買われる哀れな話からはじまって、強姦される話とか、いつも女が性的に屈辱を味わわされる話は、いかに文学化されていようと、もうウンザリするほど見たり聞いたり読んだりして、どこか底のほうでいやな思いをしてきているわけです〉(『鶴見俊輔座談 昭和を語る』2015年)

 78年に出た初の「婦人白書」によれば、当時のニッポンは女子の平均賃金が男子の56%という時代。「芻狗」発表の翌月に、イギリスではヨーロッパ最初の女性首相、サッチャー首相が誕生。日本では高島屋に生まれた初の女性重役、石原一子が翻訳したビジネス本のタイトルが『男のように考え レディのようにふるまい 犬のごとく働け』というものであった。ウーマン・リブの洗礼を受けてなお、すべての面で男と女の「差」は歴然としていたのである。あのころの「芻狗」に対する世間の目は察せられよう。富岡も最後のインタビューでは「ずいぶん怒られたもん。あっちこっちで」と話した。

なにも理解できなかった


 この時期、富岡と邂逅した編集者のひとりに、講談社にいた石坂秀之・元「群像」編集長がいる。作家より18歳年下で、富岡の作品を読み直したうえで、幾冊もの本と写真と1枚の皿を抱えてインタビュー場所に現れた。
 出会いは70年代の終わり、入社まもない石坂が先輩編集者の小孫靖に「富岡多惠子とスキーに行くけれど、お前も来ないか」と誘われたのだ。小孫は出版部の富岡の担当で、『冥途の家族』『当世凡人伝』『芻狗』などの単行本の編集者である。
「あのときは新宿で待ち合わせてバスで行った気がします。バスのなかで他愛もないことを語り合ってご飯食べて、スキーして。俺はスキーがはじめてだったけれど、富岡さんは割と上手かったです。富岡さんとは苗場、万座、八方尾根、八幡平など行きました。いつも、可愛い格好してましたね。同行者は講談社の編集者たちで、それぞれのパートナーも同伴でした。ひとり参加は富岡さんと俺ぐらいでした。みんな富岡さんのことは好きでしたね。小説家といっても自由におしゃべりできる、普通のネエちゃんでしたから」
 80年、入社3年目で出版部から「群像」へ異動になり、石坂は、その後編集長となる辻章に代わって富岡の担当となった。
「辻さんは誰から見てもとても優秀な編集者でした。文学的な知識も豊富で、その後小説家になって芥川賞候補にもなった人です。そんなすごい辻さんの代わりに自分が富岡さんの担当になったわけです。怖かったです。俺に務まるのだろうかと悩みました。他の作家には、漢字が読めなかったり、文学のこともあまり知らないで怒られたりしていましたが、富岡さんはこちらの無知をまったく気にせず、スキーに行ったときと同じような接し方をしてくれました。当時、『芻狗』とか、『遠い空』も読みましたが、はっきり言ってわかんなかったですよ。富岡さんの書く女性というものがなにも理解できませんでした。ただ、なんとなく、本質的なことをずっと追求して書いているんだろうなと感じていました」

評価され、売れた『波うつ土地』


 当初、引き継ぎの辻と3人で町田のあたりをよくドライブした。ファミレスに寄り、あてもなくぐるぐるまわった。そうして出来あがってきたのが、「群像」83年5月号に一挙掲載され、6月に単行本として刊行された『波うつ土地』。富岡多惠子の代表作ともされる長編である。
「富岡さんは催促されて書くひとではなくて、知らないうちにできていて渡されたんです。やっぱり、『波うつ土地』も、わからなかったですね。もちろん、富岡さんの文章は平明だから書いてあることはわかるんだけれど、感覚がわからない。主人公の女性は『バカの大男』と呼ばれる男と不倫関係でつきあっているんだけれど、『バカの大男』とは共通の話題もなく会話ができない、だから『性交という会話』をするんだと書いてある。性交だけでひとは関係を結ぶことができるんだろうかと悩みました。自分も女に勝手に幻想を抱いてその幻想を愛だと思っている、『バカの大男』と同じなんですね。富岡さんは甘っちょろい男の幻想を徹底的に暴いていく。すごい人だなと思いました。理解はできないけれど、掲載したらすごい評判がよかったし、単行本もよく売れたのは覚えています」
 開発途上のニュータウンを舞台にした小説は「芻狗」同様、男は見られる客体であり、主体は女、性と愛とは別物だという視点に貫かれている。85年に文芸誌で行われた上野千鶴子と三枝和子との鼎談「男が変るとき」で、作家は、この作品で、つくられた男への幻想を壊したかったと語っている。

〈大して能力はなくても、中流的なある程度の働きをしている。病的なものは理解できない。その健康と普通の男のいやらしさ、こわさをどんどん書き込んでつくられた男を壊していこうとするものだから、ある年齢から上の男性は、幾ら何でもこんないやらしい男はいないという、文学以前で拒絶反応起してしまう場合もでてきますよ〉(「新潮」1985年12月号)


富岡多惠子と石坂秀之(右)、スキー場で(写真提供:石坂秀之氏)

富岡さんは特別だった


 このころ、石坂は月に2度は玉川学園まで出かけ、富岡と近所をブラブラ散歩したり、町田に出てランチをしたりするようになった。「ひとつ星山岳会」と富岡が名付けた初心者コースの山歩きに出かけたりもした。山岳会の名前の由来は、山のガイドブックの一番簡単な初心者向けの山に星がひとつついているからだった。
「富岡さんのところに行くのはまったく苦じゃなかったですね。いい加減に帰りなさいって感じのときもあったけれど、1時間で帰ったことはないです。富岡さんはとにかく何事につけ感度がよくて、伊藤比呂美さんが出てきたときも、『良いおっぱい悪いおっぱい』をいいよと教えてくれたり、山田詠美さんが文藝賞をとってデビューすると早速読んで作品の要点を教えてくれました。文学に限らず、世の中のさまざま表現にアンテナを張っていて、いろんなことを教えてくれるんですよ。ガートルード・スタインとアリス・B・トクラスを描いた映画『月の出をまって』が公開されるとすぐに観に行けと勧められるし、柄谷行人さんの批評も富岡さん経由で新しさを知るわけです。こっちは素人に毛が生えた程度だから、富岡さんの言うことをスポンジが水を吸い込むようにどんどん吸収しました。富岡さんが言うことは理路整然としていてわかりやすくて、富岡さんを通してこの世界を見ていたような気がします」
 そうした関係のなかではじまった「群像」の連載は、エッセイ「表現の風景」。富岡がダッチワイフや、女の表現などを縦横無尽に論じた。
「毎回毎回、もらう原稿が新鮮でした。当時は日本文学史に出てくるような作家がまだ生きていた時代で、治安維持法違反で牢屋にいた作家もいるし、第一次戦後派も近代文学派も元気でした。女性作家では佐多稲子さん、円地文子さん、野上弥生子さんも健在で、瀬戸内寂聴さん、河野多惠子さん、大庭みな子さん、津島佑子さんたちが第一線でした。まだ女流文学と呼ばれていて、女流文学者会があり女流文学賞があった。富岡さんは、女流というなら男の文学も男流文学と呼ぶべきだと言ってましたね。そんなころに発表された『表現の風景』は斬新でした。自分ひとりで考えたことを自分ひとりの責任と言葉で自由自在に書く、といった潔さがあった。担当小説家のなかでも富岡さんは特別でした。いつも最前線で我が道を行くといった感じで、とにかくカッコよかったです。でも、自分は富岡さんのひとりの戦いの本当の大変さは、そのころはまだわかっていませんでした」

作家の励まし


「表現の風景」の連載 がはじまったとき、富岡は49歳で、単行本が刊行されたときには50歳になっていた。作家の全方位に向かう好奇心は旺盛で、詩と歌詞の関係について吉本隆明を批判し、返す刀で自己批判して、いくつかの章では小説家の自意識にも触れる。

〈だれにも読まれたくない、という気持と、だれかれに読まれたいという気持の分裂で、少なくともわたしは自分の「小説」から遠ざかろうとする〉(「呪術と複製」『表現の風景』1985年)、〈「小説」或いはことばによる表現によって自分の「私的な日常」がわかられてたまるかという気持と、「私的な日常」を公開して、背中のホリモノをどうだと見せるひとのような気分を味わいたいという気持にひき裂(さ)かれることだった〉(「私生活と私」同前)

 30歳を過ぎたばかりの石坂に、富岡はこんな言葉を繰り返す。
「何回も同じことを言われました。いくら親しくても、家族や夫婦であっても、今日出かけて帰って来るとは限らない。事故に遭うかもしれないし。いつ何時、今生の別れが来るかもしれないと覚悟して生きている、私はいつもそういうふうに思っている、と」
 石坂は、淋しいことを言うなと思った。
「でも、言われてみれば正論ですよね」
 石坂が慶應大学に通う学生だったとき、学内の山を散歩していて便意を催したため、紙がなくて読んでいた岩波文庫を破って用を足したという話をしたときは、作家は「次は是非、私の本で用を足してほしい」と言うのだった。
「文芸書なんて所詮はコピー、文芸書が権威になっちゃダメなんだと言ってくれたんです」
「自分の頭ばかり撫ぜているやつは頭の真ん中がハゲるから、おいらクン、私が間違っていると思ったら遠慮なく言ってちょうだい。そうしないと私の頭がハゲるかもしれない」と、笑いながら言ったこともある。富岡は、自称から石坂を「おいらクン」と呼んでいた。
「富岡さんの言葉全部が、俺に対する励ましに聞こえました。俺は母子家庭で、つまり女性の力で育っているから、富岡さんがいう男性的な思い上がりや権力とははなから関係ない。富岡さんと話したことは多岐にわたり、俺は思ったことはなんでも言うわけです。それが当たり前だと思っていたけれど、どんなに大切な関係だったかとあとになって思い知りました」

フェミニズムに閉じ込められるような人ではない


 世阿弥作とされる能の「蝉丸」からタイトルがとられた「逆髪」が、次の仕事だった。
「蝉丸の姉、逆髪の話をされて、ふーんとわけもわからず聞いていて、髪が逆立っているというのはいかにも富岡さんらしいじゃないかと思うわけですよ。富岡さんはいろいろ考えているけど、滋賀の大津に蝉丸神社があるっていうので『行くしかないじゃないですか』とか、こちらは適当なんです。あるとき、石坂クン、文学はなんのためにあるか知っているかと聞かれました。昼間、お茶を飲みながら。『石坂クン、文学は、一匹の迷える子羊のためにあるんだよ』とまた冗談みたいに言うんです。涙ボー、です。あ、この涙ボーも、富岡さんが何かに感動した時によく使っていた言葉です」
 ちょうどそのころ、「白光」が「新潮」87年7月号に一挙掲載される。舞台は作家の夫、菅木志雄の故郷盛岡で、血のつながらない家族を描いてその終わりまでを書く。単行本の帯は、作品中の一文「立ち止って休むと凍死するよ、氷河を渡ろうとする者は」。先述の鼎談「男が変るとき」で語られたアメリカのレズビアン・コミューンに触発されたと思われるが、「文學界」の男性評者3人による「快著会読」で、川本三郎はこれを「女性小説」と呼んだ。当時、アメリカのフェミニズム色の強い映画が「女性映画」と呼ばれていた。だが、石坂は、富岡作品がフェミニズムの文脈で語られることを断固として拒否する。
「フェミニズムに閉じ込められてほしくないですよ。富岡さんが亡くなったときに、新聞の訃報はみんな代表作が『波うつ土地』と『男流文学論』となっています。ふざけんなです。フェミニズムの代表者みたいに言われて、富岡さんはわかってやっていたんでしょうけれど、富岡さんはフェミニズムという狭い場所に押し込められるような人ではないんです」
「白光」を発表時に読んだとき、石坂はすごい傑作だと感じた。ただし、である。
「『血のつながらない家族』をつくろうとする登場人物の女性たちはどうすれば満足なのか、なにを望んでいるんだろうかと思いました。ちょうど1980年代の後半、俺も富岡さんとは関係ないところで、家族、夫婦というのは資本主義社会がつくりあげた方法論だと薄々気づいてはいました。でも、『白光』では『家族』って言葉を使っている、『血のつながらない家族』ってなんだろう? この言葉はユートピアをつくろうとするような言葉に聞こえるけど、私たちはどこから来てどこへ行くのだ、みたいな気分になるわけですよ。富岡さんは、またひとり荒野を歩いている。そう思いました」
 石坂の感じたその気分は、富岡の最初の小説 「丘に向ってひとは並ぶ」にも通底する。

作家が行き着いた先


「白光」発表の年の暮れ、「群像」で「逆髪」の連載がスタートした。元売れっ子漫才師だった姉妹を中心に家族の桎梏、ジェンダーの嘘が語りの調べにのって軋み、露呈していく。
「『白光』と『逆髪』は近いです。富岡さんは家族についてどんどん深度を深めていって、読んでるとき、富岡さん、どうなるんだろうと思いましたね。どこへ突き当たるのかって。たまに浜松にいる弟さんの話をされて、富岡さんも人間らしいこと言うなぁと思ったけど、『白光』にも『逆髪』にもそういう気配ゼロじゃないですか。普通はもっと情緒に頼るものなのに。今でも、あのころ、富岡さんが見てしまった光景を思うと胸が痛くなります」
 89年3月、「逆髪」が終盤にさしかかったころ、富岡は伊東へ居を移した。2002年に群像の編集長になる以前に石坂は担当から外れていたが、漫画編集部にいた3年間を挟んで、定期的に片道2時間以上かかる富岡のもとに通った。
「改築が終わった伊東の家に行ったとき、『ずい分立派なところに住むんですね』と嫌味言ったら、『いーじゃない! これくらい』って怒ってました。もう担当でもないのに、次の担当連れて行ったり、年中行ってた気がするな。伊東に移ってからしばらくして、鬱で会えないと言われました。菅さんに電話して『どんな様子ですか』と聞くと『まだ会えない』って言われたり。でも、こちらは鈍感だから、放っておけば治るもんだと思っていました。ただ、こんなところ、誰も来なくなっちゃうんじゃないかなとちょっと心配していました」 
 97年、富岡は『ひべるにあ島紀行』で野間文芸賞を受賞する。帝国ホテルでの授賞式で、石坂は「一番前で見ててよ」と声をかけられた。2014年、編集者が定年を迎えて講談社を退社することを電話で報告したとき、すでに筆を置いていた作家はこう言った。
「もう書かない。ひとにも会わない。でも、おいらクンなら会ってもいいよ」
 作家は最後のインタビューで語っている。

〈「もうヤンペ」、もういいんだ、と思った。年をとってもがんばっている人はいるし、やりたい人はやったらいい、私はいやだ、と〉(『私が書いてきたこと』2014年)

富岡さんがいなくなった世界


「富岡さんは、よく賃仕事って言っていました。単なる賃仕事で、あんなに切実に命を削ったように小説を書いていたわけがないと思いました。仕事があるうちはいいとも言っていましたけれど、だから表現やめたとき、ふざけんなと思った。文芸ジャーナリズムにも流行りすたりがあるから、富岡さんの仕事をちゃんと評価できる人がいなくなったら嫌だなと思ってました。富岡さん自身も仕事はやり尽くした気持ちだったかもしれないけれど、『表現の風景』のころ、世の中の現象を誰よりも敏感に感じ取っていた人が、本当にそんなことを言えるんですかと言いたかった。富岡さんは大人で、ちゃんと戦略的だし、利用できるものはなんでも利用するタイプだし、ミーハーだし、だから、もう興味がないなんて本当なの? と思うわけですよ。編集者としてなにか書いてほしいとは思わないけれど、人間としてなにかにしがみついてもっと嫌なことをやってほしかった気がするんです」 
 最後に言葉を交わしたのは、2021年だった。電話で「会いに行きますよ」と言うと、富岡は「来なくていい」と言い、「冷たいこと言うなぁ。また電話かけますよ」と受話器を置いた石坂に、2年後、「恩人」の訃報が届く。
「自分のなかの歴史がひとつ終わった感じです。編集者と作家って共犯関係みたいに言われるけれど、富岡さんが犯行を犯すそばに俺がたまたまいたというぐらいの感じはあるわけです。もらっているものが大きすぎて……。それまで富岡さんがいる世界があって、あの日から富岡さんがいなくなった世界が続いている」
 作家から着物まで何枚かもらったという石坂が取材場所に持参していたのは、組になった菓子皿の1枚。臙脂に金の模様がはいって、料亭で使われているようなものだ。皿のしまってあった引き出しをあけるたびに、元編集者は「おーい、富岡さん」と呼びかけたくなる。

※次回は4月22日に公開予定です。

(バナー画提供:神奈川近代文学館) 

   

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