稲葉賀惠「31歳で<ビギ>を設立、ヒッピーブームで人気に。85歳で<ヨシエイナバ>をクローズ、デザイナー人生に区切りもやりたいことは山のよう。終点を考える暇はない」
2025年4月15日(火)12時29分 婦人公論.jp
「世の働く女性たちのためにも自分のためにも、きちんとした服をつくらなければ、と痛感しました」(撮影:荒木大甫)
上質な素材と洗練されたベーシックなデザインで、長年にわたり多くの女性の支持を得てきたファッションブランド「yoshie inaba」。デザイナーの稲葉賀惠さんは、2024年秋冬コレクションの発表を最後に、同ブランドをクローズしました。前編では、文化学院での青春時代や、菊池武夫さんとの結婚や服作りについて語っていただきました。デザイナー人生に区切りをつけた現在の思い、そしてこれからの生活は——(構成:丸山あかね 撮影:荒木大甫)
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<前編よりつづく>
デザイナーに転身、ブランド設立へ
やがて菊池が既製服に目をつけ、31歳の時、私たちは仲間とともに「ビギ」という会社を設立。ヒッピーブームに乗って商品を展開すると、たちまち人気に火がつきました。
でも、私は本来、きらびやかでモードな服ではなく、「普通」の服が好き。ある時からベーシックな服をつくりたい、と思うようになっていました。そこで33歳でデザイナーへ転身し、ビギでレディースブランド「MOGA」を立ち上げたのです。
私は当時、仕事と子育てで大忙し。息子の幼稚園への送り迎えは、もっぱら動きやすいシャツとデニムでした。するとほかの保護者から校風にそぐわないとクレームがあったようで、先生に呼び出されたのです。
悔しかったけれど、私はその時、日本には働く女性が着られる素敵な服がないことに気づきました。
社会進出する女性は当時まだ少なかったものの、これから必ず増えていくはず。世の働く女性たちのためにも自分のためにも、きちんとした服をつくらなければ、と痛感しました。そこで私は、何気ないように見えて、着るとカッコいい、それでいて女性らしさのあるスーツづくりに力を注いだのです。
しかし同じ頃、一人の女性としては試練の中にいました。夫の菊池はモテる人だったので、まあ苦労が多かった。我慢することもできたけれど、自分に嘘をつき続けるのは何より苦しい。結局、MOGAを立ち上げたのと同じ時期に、結婚生活に終止符を打ちました。
本名の「佳枝」から「賀惠」に改名したのも、この頃です。私は友人の紹介で占いの先生のもとに通っていたのですが、離婚を機に「一人でも仕事を続けたい」と相談しました。すると先生は、「佳枝は妻になるには適しているが、仕事で頑張るなら賀惠に改名しなさい」と。
「その代わり結婚は二度とない」とおっしゃるので、私は即座に「わかった」と答えました。あの先生は本物でしたね。その後も恋はしたけれど、結婚には至らなかったもの。(笑)
ありがたいことに、MOGAは成長しました。ところがブランドが発展すると、会社は経営組織なので、売れたデザインを繰り返すよう求めてきます。それだと服を買う女性は飽きるでしょう。だから絶対に嫌だと反発しても、やりなさい、の一点張り。
そしていざ在庫が残ると、すべてデザイナーのせいにされるんです。その時は、なんて嫌な仕事だろうと思いました。
しばらくして、MOGAは若い人に任せ、私は一着一着を丁寧に仕立てる「洋服屋」に立ち返ることにしました。自分も年を取っていきますから、大人の女性のために着心地や上質な素材にこだわった服をつくろう、と。
それが42歳の時に立ち上げた「yoshie inaba」です。私自身の名前をつけたのは、自分の好きなものをつくり続けていきたいという意思表明でした。
始まりは屋根裏部屋のような小さなスペースを与えられ、スタッフは3人。生産予算ももらえませんでしたが、会社が「チャレンジしてごらん」と言ってくれたので、「絶対にやってやろう」と強く決意しました。目指したのは、流行は意識しながらもそれに流されない定番の服。
ゼロからのスタートで店もありませんから、まずはMOGAに何着か置くことから始めました。服を買ったお客さまが喜んでくださったのも、よく覚えています。あの時はとにかく一生懸命で、でも楽しかった。
次第にブランドの名が知られるようになると、毎年似たようなデザインなのになぜ売れるのか、などと言われることもありましたが、私はこれがベストだと思っていました。
ありがたいことに、その後、企業の制服をデザインさせていただく機会にも恵まれました。なかでも思い出深いのは、JALの客室乗務員(CA)の制服かしら。依頼された時、先方の偉い人たちは「CAがどこにいるか一目でわかる制服にしたい」と奇抜な色を希望されましたが、これに私は反発を覚えました。着るのは現場のみなさんなのだから、機能性や着心地を優先するべきだと主張したのです。
しかし現場のCAの方たちが私のデザインを強く希望してくださったので、それが何より嬉しくて、私の好きにさせていただくという条件でお引き受けしました。
実際に狭い機内で彼女たちの動きを体験したところ、想像以上に重労働。そこで、織組織のシワになりにくい生地を一から開発し、動いてもシルエットがきれいに出る制服をつくりました。驚いたのはその8年後、2004年に制服をリニューアルする際、CAのみなさんが再び私を指名してくださったこと。デザイナー冥利に尽きる、素晴らしい思い出です。
長く服づくりをしてきて確信しているのは、日本の女性は世界の中でもとりわけ美しいということです。だから、みなさんにはもっと自信を持っていただきたい。小柄でもふくよかでも、どんなに年を重ねても、その方に似合う服が必ずあります。
私は一貫して、店のスタッフたちに「お客さまには嘘をついてはダメ」と指導してきました。試着して似合わなければ似合わないと伝え、本当に似合う服を勧めてほしいと。私が商売人の娘だからでしょうか。お客さまには絶対に損をさせたくない、というのが私のポリシーでした。
『yoshie inaba』(著:稲葉 賀惠/講談社)
終点を考えている暇はない
仕事における原動力は、ひとえに仲間です。私は正直な人が好き。立場に関係なく何でも言いたいことを言い合って、売上が伸びればビールで乾杯! そんな仲間意識が、明日への意欲に繋がっていました。
ただ、ずっと仕事一筋で生きてきましたから、引退後の生活は少し不安です。みなさん私を評価してくださるけど、今まで人に助けられて生きてきたので、自分では何もできないのです。ひとり暮らしで何かあった時に頼れる人はいませんから、これから自分で自分を育てたいと思っています。
まず始めたいのは、スマホの勉強です。認知機能は年々衰えているのに、新しいことを覚えるのは大変。でも、新幹線のチケットを買ったり音声機能でネット検索したり、若い人と同じように使いこなしたいのです。
何か趣味も探したいですね。できれば仕舞を習いたいのですが、難しそうなのでほかのことも考えているところです。
それ以外にも、家の中のいらないものを整理しなきゃとか、いずれ施設に入るべきかとか、気になることはあります。でも今は、お友だちと食事をしたり旅行をしたり……やりたいことが山のようにあるので、終点を考えている暇はないのです。
私のデザイナー人生、人とのご縁のおかげでここまでたどり着きました。時代に恵まれ、並走してくれる企業や職人さんがいたことも幸運でした。
おかげで60年間、仕事を辞めようと思ったことは一度もありません。洋服を好きでいさせてくれた人たちへの感謝を忘れずに、新たな人生も楽しみたいと思います。
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