森鷗外、永井荷風、谷崎潤一郎と続く文学の系譜を知ることで見えてくる谷崎文学、美食で培ったその深みとは
2025年4月16日(水)8時0分 JBpress
明治時代から戦後まもなくまでの文学の大きな流れは、大きく2つに分かれると考えると理解しやすくなります。1つは、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治という系譜。もう1つは、森鷗外、永井荷風、谷崎潤一郎という系譜です。これは、日本の文学的「嗜好性」に依るのかもしれませんが、子弟関係ということとも重なってきます。もちろん、優劣をいうものではありません。
文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美)
漱石と鷗外を筆頭とする2つの系譜
まず、夏目文学の系譜ということについてお話をしたいと思います。
夏目漱石から流れる系譜は、芥川龍之介、太宰治と繋がって行くものです。すでにこれまでの連載で紹介しましたが、漱石は、芥川に文学の才能を見出しますが、その芥川に憧れて次の流れを作って行くのが太宰治です。
もう1つの系譜は、今回お話する谷崎潤一郎を生む系譜です。谷崎は、森鷗外の系譜に入れて考えることができると思います。というのは、鷗外から永井荷風へ、永井荷風から谷崎潤一郎へと子弟関係がつながるからです。
森鷗外はドイツに留学していたこともあって、ヨーロッパ文学にとても詳しい人でした。慶應義塾大学の文学科顧問であった森鷗外は、荷風がアメリカ、フランスに遊学して帰国すると、荷風を慶應義塾大学の文学部教授に迎え、機関紙『三田文学』の編集主幹を任せます。荷風は、教壇に立って、フランス文学、特にゾラや批評を紹介するのです。
晩年の荷風からは「まじめな大学教授」というイメージはまったくしませんが、荷風の授業について、佐藤春夫はこんなことを語っています。佐藤春夫は、芥川龍之介のライバルでもあった文豪です。
「森鷗外先生の講義はすごく面白かった。しかし、永井荷風先生の雑談はそれ以上に面白かった」
ところで、佐藤春夫と谷崎潤一郎は、大正6年(1917)年に開かれた芥川龍之介の『羅生門』出版記念会で知り合い、親交を深めていました。
次回に御紹介しますが、佐藤春夫は谷崎の奥様のことが大好きになり、奥さんを自分に譲ってくれるようにと谷崎に頼んだのです。それがこじれて谷崎と佐藤の関係は、一時絶交状態になるのです。
結局、佐藤の恋が成就し、谷崎から譲られた女性と佐藤が結ばれると、谷崎と佐藤は晩年までずっと友情を保ち続けます。
森鷗外、永井荷風、谷崎潤一郎には、日本の文化の裏側というのか、明るく陽の当たるような表側の煌びやかな部分ではなく、それを支える暗くドロドロとしたり、しっとりしたり、眼に見えない部分を好むという傾向がありました。
これは、「耽美主義」とも言われますが、当時流行していた「自然主義」が、私生活の「暴露本」のような様相になっていくのに対して、荷風は江戸時代の人達が持っていたもっと温かく、涙や笑いの中に漂う情緒の中に、はかない「美」を感じとろうとしていたのでした。この荷風の思いが谷崎の『陰翳礼讃』などの作品となって現れてくるのです。
太宰治は谷崎より二十三歳ほど年下になりますが、太宰や坂口安吾、葛西善蔵など「無頼派」と呼ばれる文学も後に登場してきます。「無頼派」は、もうどうにでもなれと、酒に溺れたり借金を繰り返したりして、それをそのまま文章にするというところからすれば、島崎藤村の自然主義の系統なのかなぁと思ったりしてしまいます。
さて、谷崎は「文学」を、人間の官能、五感を動かしていくものなのだと考えていました。谷崎は子どもの頃からとても優秀だったと言われますが、「知力」だけでなく「気力」も「体力」もあります。芥川のように「ぼんやりとした不安」などでは決して死ぬことはない精神力を持っていました。
それに、谷崎は、貪欲でした。小説だけでなく、映画監督までやるほどですが、探偵小説の草分けだとも言われています。江戸川乱歩を発見したのも谷崎です。インスピレーションやアイディアが無限に湧いてくるだけではなく、それを形にする力を持った作家だったのです。
『刺青』を激賞した荷風
谷崎の文章を読んでみましょう。どんな印象を受けるか、ちょっと感覚を研ぎ澄ませて、できれば小さくても構いませんので、声を出して読んでみてください。
「己はお前をほんとうの美しい女にする為めに、刺青の中へ己の魂をうち込んだのだ、もう今からは日本国中に、お前に優(まさ)る女は居ない。お前はもう今迄のような臆病な心は持って居ないのだ。男と云う男は、皆なお前の肥料(こやし)になるのだ。………」
其の言葉が通じたか、かすかに、糸のような呻き声が女の唇にのぼった。娘は次第々々に知覚を恢復して来た。重く引き入れては、重く引き出す肩息に、蜘蛛の肢は生けるが如く蠕動(ぜんどう)した。
「苦しかろう。体を蜘蛛が抱きしめて居るのだから」
こう云われて娘は細く無意味な眼を開いた。其の瞳は夕月の光を増すように、だん/\と輝いて男の顔に照った。
「親方、早く私に背(せなか)の刺青を見せておくれ、お前さんの命を貰った代りに、私は嘸(さぞ)美しくなったろうねえ」
娘の言葉は夢のようであったが、しかし其の調子には何処か鋭い力がこもって居た。
「まあ、これから湯殿へ行って色上げをするのだ。苦しかろうがちッと我慢をしな」
と、清吉は耳元へ口を寄せて、労(いた)わるように囁いた。
「美しくさえなるのなら、どんなにでも辛抱して見せましょうよ」
と、娘は身内(みうち)の痛みを抑えて、強いて微笑(ほゝえ)んだ。
『谷崎潤一郎全集 第一巻』所収『刺青』より(中央公論社)
ドスの利いた、ねっとりとした文章ですね。初期の代表作『刺青』です。この小説の主人公は、腕利きの刺青師(ほりものし)・清吉です。清吉は娘を薬で眠らせ、その背中に蜘蛛の絵を刺(ほ)っていきます。初めはただ夢中で刺っていたのですが、最終的には自分が蜘蛛の虜になってしまいます。女性の肌の美しさ、背中の刺青の美しさの虜となり、自分が描いた蜘蛛の糸に引っかかってしまうのです。清吉が美に囚われていく様子を谷崎は見事に表現しました。
この『刺青』をはじめとする小説を激賞したのが、鷗外を師と仰ぐ永井荷風でした。荷風によって谷崎は作家として世に出たのです。
食通と谷崎文学
ところで、鷗外、荷風、谷崎の3人には共通点がありました。
この3人は、いずれも「食通」でした。鷗外は、ご存じのように、衛生学の専門の医学者で生ものは絶対に口にしないという偏食ですが、「食」にこだわりがあるという意味では、「食通」であったと言えるでしょう。
谷崎は、裕福だった子供の頃から美味しいものを食べていました。小学校時代は中華料理店・偕楽園の息子の笹沼源之助と親しくし、また精養軒や彌生軒にもよく通っていました。彌生軒は日本橋茅場町にあった西洋料理店で、現在、やよい軒をフランチャイズするプレナス創業者の塩井末幸の祖父・民次郎が開店した店です。民次郎は精養軒で修行したフレンチの専門家で、谷崎は日記にも「彌生軒はうまかった」と書き残しています。
谷崎にとって美味しさを追求するというのは、ただ表面的な味だけではありません。出汁の旨みといった隠し味が、本当の美味しさを出していることを谷崎は知っています。谷崎の文章に深みがあるのは、彼の食に対するこだわりにも支えられているのではないかと思います。食を通じて色々な感覚を研ぎ澄ましていったのです。
よく谷崎文学はフェティシズムの文学と言われますが、それは食べることにも共通します。熟成マグロを舌の上に乗せたときに、トロっと溶ける。その溶け方が女性の肌の溶け方のように感じる。食べることによって、食べ物が自分の体の一部になっていくように、書くことによって谷崎は自分のものにしていったのです。
それは和歌の世界と同じです。谷崎は3番目の妻・松子といっしょに和歌をたくさん作っていますが、和歌というのは、言葉にしたものが自分のものになっていくというものです。書いた途端に自分のものになっていくものなので、和歌のように書いた言葉を自分のものにしながら、谷崎は文章を書き続けました。
食について、荷風とのこんなエピソードが残っています。
谷崎は、多くの人が食事もままならなくなった太平洋戦争末期も、ほとんど食べ物に困りませんでした。1945年8月13日、永井荷風が岡山県の勝山(現在の真庭市)いた谷崎を訪ねます。荷風は東京大空襲で家を焼かれたため、友人を頼って岡山市まで来て、食べるものに困って、谷崎のところに来るのです。当時は、塩も米も配給でした。
8月14日、谷崎は荷風を迎えると、なんと「すき焼き」でもてなします。大卒の銀行員の初任給が80円という時代に、牛肉1貫(約3.75kg)を200円で買い、酒2升を地元の造り酒屋から譲ってもらってもてなすのです。
ただの小説家ではありません。あらゆる面において豊かさに満ちた人間だったのだろうと思います。
筆者:山口 謠司