東京を離れた谷崎潤一郎、運命の女性・松子と出会い『春琴抄』『細雪』などの名作を次々に発表し、美の骨頂をめざす
2025年4月18日(金)8時0分 JBpress
松子と出会った谷崎は、女性の美や、日本の伝統的な美を追求していきます。そして、表の世界の美しさと裏の世界の美しさという新しい「美」の世界にたどり着きます。
文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美)
『陰翳礼讃』と『細雪』
太平洋戦争中、谷崎は、出版禁止令などを受けています。題材や文章があまりに妖艶だったからです。ですが、そのような制限を受けても、谷崎は素知らぬ顔で松子夫人とその妹の四姉妹との生活を題材にした『細雪』に取り組みます。
軍部による発行差し止めに遭っても書きたかった小説『細雪』の4人姉妹のうち、主人公の二女「幸子」は松子夫人がモデルです。
谷崎は、『細雪』など関西を舞台にした小説では、登場人物のセリフを綺麗な船場の言葉に松子に直してもらいました。船場の美しい日本語は、京都・伏見の公家が使っていた言葉で、皇族に着物を納める時などに使われていたものだったのです。
松子は、生まれた時から船場言葉で育った裕福な女性です。谷崎の書いた文章を、船場言葉に直してくれるのです。
1977年に刊行された、丸谷才一の『文章読本』(中央公論社刊)には、谷崎潤一郎が書いた『文章読本』(1934年中央公論社刊)も取り上げています。
谷崎の『文章読本』には「文法的に正確なのが、必ずしも名文ではない。だから文法に囚(とら)はれるな」と書かれています。
丸谷によるとここでいう「文法」は「英文法」を指し、谷崎は「英文法」にこだわって日本文を書き続けてきたが、英文直訳のような主語を置かず、無視した日本語を書けと言っているのです。谷崎の天才的な妖艶な文章は、松子夫人の影響や直しによって、さらに磨きが掛かります。
さて、市川崑監督の映画『細雪』で四姉妹を演じた俳優さんたちに船場の言葉を指導したのも松子夫人でした。映画の最後のスタッフロールには「台詞校訂 谷崎松子」と記されています。
小説や映画『細雪』にはおもしろい船場でのお食事の仕方の練習場面も出てきます。たとえば、ご飯の食べ方では「お」と言いながら、口の真ん中にお箸の食べ物を持っていくと唇を汚さないで食べられる。それを練習するのに高野豆腐の出汁でビチョビチョになっているものを使う、など。松子の美しい所作も谷崎は小説に取り入れていったのです。
関西で松子と出会ったことで、谷崎は小説の中でも、それまで以上に女性の「美」を表現していくようになります。また、谷崎が着目したのは、日本の華美華麗な文化を支える「影」の部分の美しさです。そのことをまとめたのが世界的にも有名な『陰翳礼讃』というエッセイです。
もし日本座敷を一つの墨絵に喩えるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり、床の間は最も濃い部分である。私は、数寄を凝らした日本座敷の床の間を見る毎に、いかに日本人が陰翳の秘密を理解し、光りと蔭との使い分けに巧妙であるかに感嘆する。なぜなら、そこにはこれと云う特別なしつらえがあるのではない。要するにたゞ清楚な木材と清楚な壁とを以て一つの凹んだ空間を仕切り、そこへ引き入れられた光線が凹みの此処彼処へ朦朧(もうろう)たる隈(くま)を生むようにする。にも拘らず、われらは落懸(おとしがけ)のうしろや、花活の周囲や、違い棚の下などを填(う)めている闇を眺めて、それが何でもない蔭であることを知りながらも、そこの空気だけがシーンと沈み切っているような、永劫不変の閑寂がその暗がりを領しているような感銘を受ける。
『谷崎潤一郎全集 第二十巻』所収『陰翳礼讃』より(中央公論社)
東京や横浜の文化は明治維新以降、新しいもの、商業的なものに変化しましたが、京都をはじめ関西には日本の美しい文化が残っていました。江戸っ子の谷崎は、その対比の中で、古くから残る日本の美とそれを支える文化を感じたに違いありません。
谷崎は大正12年から昭和24年まで芦屋で暮らしていて、戦争中もほとんど生活に困りませんでした。現在、芦屋市谷崎潤一郎記念館は松子夫人や親族、関係者からの谷崎に関する寄贈品を収蔵・展示しています。また記念館は、谷崎が戦後に移り住んだ京都の「潺湲亭(せんかんてい)」を模した数寄屋風の外観で、池のある庭も潺湲亭の日本庭園を再現しています。
記念館へ行くと、谷崎の仕事部屋には広く美しい庭を見ながら仕事ができる机が置かれています。谷崎はどんなことがあっても毎日必ず机に向かい、原稿用紙3枚から4枚、1日6時間かけて書いていました。あとは遊んで暮らしているという贅沢な光の部分を持っている作家でしたが、同時に落ちていくもの、崩れていくものに対して、愛着と哀愁を持っていました。そんな谷崎だからこそ、数々の名作を生み出せたのだと思います。
敏感な五感が紡ぎ出す谷崎文学の美しさ
『文章読本』にも書かれていることですが、谷崎は漢字で書く部分とひらがなで書く部分、行間をきちんと見ながら、どれくらいの文章の長さで書けば美しく見えるかということを計算して、文章の虜となるぐらいの書き方をしました。
文章自体もですが、漢字ひらがなカタカナの使い方、ふりがなの振り方といった細部にまでこだわり、視覚的な美しさを追求していきました。
また谷崎は、視覚だけでなく音に対しても敏感でした。『細雪』の中に妹のお見合いに行く支度をしている姉妹の博多帯についての会話があります。
博多帯は芝居見物やお茶会に行くときには結んではいけない。なぜかというと、博多帯は、動くと「キュウ、キュウ」と音が鳴るからです。
ほかにもお吸い物を開けるときのきゅんといった音や、食べ物が煮えた音を松風にたとえたりなど、谷崎の文章を音読するとわかりますが、音が聞こえてくるような表現を感じるところが散りばめられていることに気がつきます。
『痴人の愛』など妖艶な小説も有名ですが、その文章を読んでみると本当に生々しい、まとわりついてくるような表現に驚きます。ああいう文章が書けるというのはやはり舌の感覚、味の感覚が鋭かったからなのだなぁと思います。
谷崎が書いた食べ物の文章を読むと、唾液が湧いてくるほどです。谷崎は、感受性が強く、それを表現する能力を持っていたと言えばそれまでですが、谷崎の表現力を支えたのは、独特の「哲学」だったのではないかと思います。それは、友人で哲学者の和辻哲郎の影響でしょう。
和辻と谷崎は一高時代には共に文芸部員で、帝大では第2次『新思潮』を一緒に創刊した友人です。谷崎より3歳年下でしたが和辻の『古寺巡礼』の世界、『風土』に書かれる環境と人間との関係など、西田幾多郎の弟子だった和辻ならではのユニークな思想、哲学などが谷崎の感覚をさらに昇華させたのではないかと思うのです。
7回もノーベル賞候補に
太平洋戦争中の昭和17年(1942)、谷崎は長編小説『細雪』を書き始めます。翌年から雑誌『中央公論』で連載が始まりますが、検閲当局から「印刷禁止」に指定されてしまいます。
しかしそんなことは、谷崎にとって、どうでもいいことでした。谷崎は、執筆を続け、『上巻』を自費出版で出し、知人に配付します。『中巻』も政府による印刷禁止となり、戦後もGHQによる検閲を受け、改変を余儀なくされました。
そしてようやく昭和23年(1948)、62歳で『細雪』全編を書き上げると、翌年、朝日文化賞を受賞、同年、文化勲章を授与されるのです。『細雪』は昭和25年に英訳版がアメリカで出版、その後も世界各国の言葉で出版されました。
昭和33年(1958)には西脇順三郎とともに日本人として初めてノーベル文学賞にノミネートされます。谷崎は、昭和35年から40年までの毎年、計7回もノーベル文学賞候補になっているのです。
また、昭和39年には、日本人で初めて全米芸術院・米国文学芸術アカデミー名誉会員に選出されています。この全米芸術院・米国文学芸術アカデミー名誉会員に文学者として選出されたのは、現在でも谷崎潤一郎だけです。
昭和40年(1965)7月24日、79歳の誕生日に好物の鱧を食べた谷崎は、翌朝体調が悪化、7月30日に帰らぬ人となりました。
『文章読本』で、文章の味は、藝の味、食物の味と同じで、それを鑑賞するのには学問や理論は助けにならず、感覚の鋭いことが必要だと書いた谷崎。
谷崎は、感覚を磨き続け、美にたどり着いた文豪に違いありません。その源泉となる力は、どこにあったのか。それは、貪欲さ、そして美しいものと同化しようとする「愛」だったのだと思います。
筆者:山口 謠司