代々文才に恵まれ学者や歌人を輩出した大江氏、その主流となった大江音人の、能力で出世し公卿になった異例の生涯
(歴史学者・倉本 一宏)
日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。この連載では藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、興味深い人物に関する薨卒伝を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像を紹介します。今回は『日本三代実録』より、大江音人です。
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元は凶礼を掌る土師氏
久々に有名人について語るとしようか。『日本三代実録』巻三十二の元慶(がんぎょう)元年(八七七)十一月三日庚子条は、大江音人(おおえのおとんど)の薨伝を載せている。音人は学者ではあるが、参議従三位というれっきとした公卿なので、卒伝ではなく薨伝なのである。
参議従三位行左衛門督大江朝臣音人が薨去した。音人は、右京の人である。備中権介本主(もとぬし)の長子である。云々。音人は性格が静かで落ち着いており、外見は飾り気がないようで口数も少なかった。人となりは眉が広く目は大きく、身体は大柄で立派な顔立ちをしており、風格もあった。また、声も大きくて美しかった。音人は特に勅を承って、『群籍要覧』四十巻と『弘帝範』三巻を撰した。また勅が有って、参議刑部卿菅原朝臣是善(これよし)とともに、『貞観格式』を撰定した。その上表文と式序は、これは音人の辞である。行年は六十七歳。
大江氏というのは、元は大王の喪葬などの凶礼を掌る土師(はじ)氏であった。土師氏からは天応(てんおう)元年(七八一)に菅原氏、延暦(えんりゃく)元年(七八二)に秋篠(あきしの)氏が分かれたが、延暦九年(七九〇)には、桓武(かんむ)天皇の外祖母土師真妹(まいも/桓武生母の和(やまと/高野[たかのの])新笠[にいがさ]の母)の縁により、大枝(おおえ)朝臣姓を賜った。大枝の名は山城国乙訓郡大枝郷にちなむものである。貞観(じょうがん)八年(八六六)十月、参議大枝音人らは上表して、枝の幹より大なるは子孫永く繁栄するゆえんではないとして、枝を江に改めることを請うて許された。
大江氏の主流となった音人の系統は代々文才に恵まれ、文章博士・東宮学士・式部大輔などに任じられる者を輩出し、江家と称された。特に音人の孫維時(これとき)・朝綱(あさつな)が相並んで文章博士となった十世紀後半以降、江家は大学寮の文章院東曹を管理して、西曹の菅家(菅原氏)と並び称されるに至った。子孫には摂関期に活躍した匡衡(まさひら)、院政期に活躍した匡房(まさふさ)や、鎌倉幕府の有力御家人である大江広元(ひろもと)などがいる。戦国大名の毛利(もうり)氏なども、大江氏の子孫を称する。
なお、『尊卑分脈』や『大江氏系図』の諸本には、音人の父である本主を平城(へいぜい)天皇の皇子阿保(あぼ)親王の子とする記事が見られる。そうなると在原業平(ありわらのなりひら)の異母兄弟ということになる。しかし、音人が阿保親王の子ということは、ほとんど考えられない。『公卿補任』に音人の母である中臣石根(いわね)の女が「阿保親王の侍女」であると見えるところから、さまざまな俗説が生まれたのであろう。
実務官人の頂点に
音人は、弘仁(こうにん)二年(八一一)の生まれ。父母はすでに述べたとおり。父が本主、祖父が諸上(もろがみ)ということは確かなのであろうが、諸上と真妹との関係は定かではない。したがって、音人と和(高野)新笠との関係もわからない。
薨伝には官歴が載せられていないが、紀伝道について菅原清公(きよきみ)に師事し、天長(てんちょう)十年(八三三) に二十三歳で文章生、承和(じょうわ)四年(八三七) に二十七歳で文章得業生となり、「本朝秀才のはじめ」と称されたものの、『公卿補任』によると、承和九年(八四二)に承和の変に連座して尾張国に配流されたらしい。長徳(ちょうとく)四年(九九八)に音人の子孫である匡衡が尾張守に任じられ、妻の赤染衛門(あかぞめえもん)を伴って任地に下った際、先祖の音人がこの地に流されていたことを『朝野群載』所収「熱田宮に男挙周(たかちか)、明春、侍所を望むを祈請する状」に記している。
その後、許されて復帰し、承和十三年(八四六)に三十六歳で少内記に任じられ、嘉祥(かしょう)元年(八四八)に三十八歳で従五位下に叙され、大内記に上った。嘉祥三年(八五〇)には惟仁(これひと)親王(後の清和[せいわ]天皇)の教育係である東宮学士に任じられた。仁寿(にんじゅ)二年(八五二)に民部少輔、仁寿三年(八五三)に大内記、斉衡(さいこう)三年(八五六)に左少弁を兼任したが、東宮学士は元のとおりであった。よほど惟仁親王の外戚である藤原良房(よしふさ)の信任を得ていたものと思われる。後に清和天皇の侍読、良房の顧問も務めている。
その後も天安(てんあん)二年(八五八)に惟仁親王の即位に伴い式部少輔、また右中弁を兼ね、貞観元年(八五九)に四十九歳で権左中弁(式部少輔は元のとおり)、貞観三年(八六一)に左中弁、貞観五年(八六三)に右大弁に上り、出世の階段を上っていった。その能力のなせるわざであろう。
そして貞観六年(八六四)、ついに五十四歳で参議に任じられ(それでも右大弁は元のとおり)、公卿の地位まで上りつめた。その出自から考えれば、異数の出世と言えるであろう。
さて、貞観八年(八六六)十月十五日、大枝姓から大江姓に改姓することを請い、これを許された。枝(分家)が大きいと、本体である木の幹(本家)が折れる事(「下克上」)にもつながり不吉であるとの理由であった。しかし大枝姓は桓武天皇から賜った姓であることから、すべてを変えるわけにもいかず、読み方はそのままで漢字表記のみの変更に留めた。また、大きな川(江)のように末永く家が栄えるようにとの意味があるという(『日本三代実録』)。
音人の方は、貞観九年(八六七)に左大弁を兼任し、実務官人の頂点に立った。貞観十六年(八七四)には従三位に叙され、名実ともに公卿となった。
この間、薨伝にあるように、音人は特に勅を承って、『群籍要覧』と『弘帝範』、そして『貞観格式』を撰定した。その上表文と式序は、音人の作であるとある。貞観十三年(八七一)には『日本文徳天皇実録』撰進の命も受けているが、これは元慶元年に音人が死去したため、菅原是善を加えて元慶三年(八七九)に完成された。
薨伝によれば、音人は性格が静かで落ち着いており、外見は飾り気がないようで口数も少なかった。眉が広く目は大きく、大柄で立派な顔立ちをしており、風格もあった。声も大きくて美しかったという。まさに大人の風格を持った人物であったと言えよう。
そして元慶元年、六十七歳で薨去したのである。家集として『江音人集』一巻、別に『音人伝』一巻があったとされるが、現在は散逸してしまっている。
なお、末永く家が栄えるようにと大江姓に改めたのではあったが、子孫は学者としては名声と地位を受け継いだものの、貴族としては中級官人の地位に甘んじた。音人の子は、九人の男子が知られるが、官位がわかるのは、玉淵(たまふち)が従四位下、千里(ちさと)が正五位下式部権大輔、千古が従四位下伊予権守が知られるのみである。千古(ちふる)の子孫が、匡衡・匡房、そして広元となる。
それでも歌人や学者として名を残し(和泉式部[いずみしきぶ]も大江氏)、「江家」と称されて近代まで続いたのであるから、泉下の音人もさぞや満足なことであろう。
筆者:倉本 一宏