源頼朝の挙兵が成功した納得の理由、密事を一人だけに話したことでわかる性格

2024年4月19日(金)5時40分 JBpress

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います


敵にスパイを送り込む

 治承4年(1180)8月17日、源頼朝は、流罪となっていた伊豆国で平家方に対して挙兵します。最初の攻撃目標は、伊豆国の目代(受領の代官)・平(山木)兼隆。兼隆を攻めることは、当然、前々から決まっていたわけですが、彼の居所は「要害の地」であるということで、頼朝方では対策が講じられていました。兼隆の居所の地形を「絵図」にするため、藤原邦通を兼隆の邸に送り込んだのです(鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』)。

 ちなみに、邦通は都から離れて、諸国を遍歴していましたが「因縁」あって、安達盛長の推挙で、頼朝に仕えることとなったようです。兼隆の邸に赴き、そこでの酒宴で、流行歌を歌ったという邦通。兼隆は、邦通が頼朝方のスパイだということも知らず、邦通を気に入り、数日間、滞在させたようです。よって、邦通は思う存分、邸周辺の地形を検分することができました。

「山川村里」に至るまで絵図に纏めた邦通が、無事に帰還したのが、8月4日のことでした。頼朝は、舅の北条時政を自室に招き、邦通作成の絵図を眼前に置き、挙兵の際、軍勢が進むべき道、軍勢の進退についてのことなどを「指南」したと言います(邦通作成の絵図は、とても分かりやすいものだったようです)。

 8月6日には、挙兵の日時を「8月17日」(深夜3時〜5時)と定めます(とは言え、8月12日にも、兼隆を討つ日を17日と定めたという記述がありますので、この時はまだ確定的なものではなかったと推測されます)。頼朝が加勢してくれる武士たちを集めて「お前だけを頼りにしている」と丁寧な言葉をかけたのは、この日のことです。

『吾妻鏡』には、頼朝は諸将に「お前だけが頼りだ」と言いつつ、密事は舅・時政にしか知らせていなかったと記しています。挙兵前日(16日)は、1日中、雨でした。頼朝の周辺では、戦勝の祈祷が行われていました。が、当てにしていた佐々木定綱らがやって来ないということで、明日深夜、予定通り、挙兵するか否か、頼朝の心は揺れていたようです。

 19日になれば、頼朝が挙兵するということは世間にバレてしまい、こちらが討たれる立場となってしまう。余裕と時間はたっぷりあるというわけではなかったのです。定綱らがやって来ないことを、頼朝は彼らが裏切ったかもしれないと考えていたようです。

 彼らに「密事」を容易く話してしまったことを頼朝は「後悔」していたと『吾妻鏡』には記されています。おそらく、そのような内容のことを、頼朝は周辺に漏らしていたのではないでしょうか。頼朝と言えば、沈着冷静なイメージがありますが、意外に、感情を表に出すタイプの指導者だったのかもしれません。


兵を挙げるも頼朝は出陣せず

 さて、8月17日。この日の午後になって、やっと、佐々木定綱らが頼朝のもとに到着しました。雨による増水のため、到着が遅れたとのこと。頼朝は涙を流しつつ「お前たちの遅参により、今朝の戦ができなかった。残念じゃ」と佐々木らに言ったとされます。

 その日の夜、頼朝の命令により、安達盛長の手の者が、兼隆の雑色(雑務に従事する者)を捕えます。この雑色は、北条邸の下女と結ばれており、毎夜のように通ってきていたのです。北条邸には軍勢が集結していたので、異変に気付いた雑色が、兼隆邸に走り、異変を告げることを防ぐ意味がありました。

 いよいよ、兵を挙げる時が訪れました。頼朝は出陣せず、邸に留まります。邸を出た将兵は、兼隆の後見・堤信遠の邸を最初に襲撃。これを討ち取ります(信遠討伐は、北条時政の発案で、急遽、決まったようです)。兼隆の邸の前で「矢石」を放つ北条らの軍勢。しかし、兼隆の家臣たちは、同日に行われた三嶋社の祭礼に出かけており、邸にはいませんでした。邸に残っていた者は、死を恐れず、頼朝方の軍勢と戦ったといいます。

 が、多勢に無勢で、ついに兼隆は討ち取られてしまうのです。挙兵の第一段階は、成功したと言えましょう。成功の鍵は、事前の準備にあったと言えます。スパイを敵方に忍び込ませて、邸周辺の地理を探る。情報が漏れることを恐れて、敵方の雑色を捕らえる。人々が眠っている夜に挙兵したこと(夜襲をかけたこと)。こういった諸々の対策が功を奏したのではないでしょうか。

 後になって考えれば、佐々木氏の遅参により、挙兵の日程が若干ズレたことも良かったのかもしれません。早く挙兵していたら、兼隆の家臣たちはまだ多く邸にいて、最終的には頼朝方が勝っていたとしても、討伐に手こずった可能性があります。これも偶然と言えば偶然なのですが、ここにも頼朝の運の良さが表れています。

 頼朝は将兵らが出陣した後、邸にいて、兼隆の邸の方角から火の手が上がらないか、じっと待っていました。煙がなかなか上がらないので、心配して、下男を木に昇らせたのですが、それでもよく見えません。(我が方は、負けているのか)と頼朝は感じたのでしょう。周りにいた武将を援軍として派遣するのです。彼らは命令通りに、兼隆の邸に乱入し、その首を取ったのです。

筆者:濱田 浩一郎

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