『光る君へ』本朝(日本)三美人といわれた藤原道綱母はどんな人?『蜻蛉日記』に書かれた兼家との結婚生活とその生涯

2024年4月22日(月)8時0分 JBpress

今回は、大河ドラマ『光る君へ』で、財前直見が演じる道綱母(ドラマでは藤原寧子)を取り上げたい。段田安則が演じる藤原兼家の妻で、上地雄輔が演じる藤原道綱の母、『蜻蛉日記』の作者でもある彼女は、どのような人物なのだろうか。なお、彼女の実名は不明なため、ここでは「道綱母」で表記する。

文=鷹橋 忍


本朝第一美人三人内也

 道綱母の生年は明らかでないが、承平6年(936)頃とみられている(川村裕子『新版 蜻蛉日記Ⅱ』下巻)。

 ここでは道綱母の生年を承平6年として計算すると、延長7年(929)生まれの夫・藤原兼家より7歳年下となる。

 道綱母の父親は、上総、河内、伊勢などの地方官を歴任した正四位下藤原倫寧。

 母親は、通説では主殿頭春通女(とのものかみはるみちのむすめ)であったが、最近では源認女(みとむのむすめ)ともいわれている。

『更級日記』の作者・菅原孝標女(たかすえのむすめ)は姪にあたる。

 南北朝時代に編纂された系譜集『尊卑分脈』には、道綱母に関して「本朝第一美人三人内也」(日本三美人の一人)」と記述されている。


和歌と装束の仕立てが得意

 歴史物語『大鏡』第四巻「太政大臣兼家」に、「きはめたる和歌の上手」とあるように、歌人としても知られ、中古三十六歌仙の一人に数えられている。

 また、当時、夫の衣装の作製は妻の役目だったが、道綱母は裁縫や染色など、服の仕立てに関して、優れた技術をもっていた。夫の藤原兼家は、道綱母のもとにあまり通わなくなってからも、衣装の仕立てを頼んでいる。


『蜻蛉日記』は他人に読ませるために書かれた?

 道綱母は、『蜻蛉日記』の作者として著名である。

『蜻蛉日記』は上中下3巻からなり、天暦8年(954)〜天延2年(974)頃まで、道綱母が数えで19歳〜39歳頃までの21年間の出来事が綴られている。

 書名は、上巻末尾の「あるかなきかの心地するかげろふの日記といふべし(あるかないかわからない、かげろうのような、はかない日記ということになるのでしょう)」という記述に由来するという。

『蜻蛉日記』は、女流日記文学の道を開いただけでなく、紫式部の『源氏物語』にも大きな影響を与えたとされる。

 当時の人々の日記は、他人に読ませることを前提に書かれているという(増田繁夫『蜻蛉日記作者 右大将道綱母 日本の作家9』)。

『蜻蛉日記』も序文で、「天下の人の、品高きやと、問はむためしにもせよかし(最上の身分の男性との結婚生活とは、いったいどのようなものなのかと尋ねられた時の、答の一例になれば)」と記されている。

 紫式部や、ファーストサマーウイカが演じる清少納言、和泉式部など、他の当時の女流作家は宮仕えしていたが、道綱母は家庭にあって、作品を残しているところが、他の女流作家とは異なっていた。


兼家との結婚

『蜻蛉日記』によれば、道綱母は天暦8年(954)夏、藤原兼家に求婚され、同年秋に結婚した。道綱母が19歳のときのことである。

 当時の正式な手続きを経た結婚であり、道綱母は世間的にも、兼家の妻と認知されていたという(服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち—〈望月の世〉を読み直す』高松百花 「第二章 道長の<母>たち ◎実母時姫・庶母・父兼家の妻妾」)。

 だが、兼家は道綱母と結婚したとき、すでに三石琴乃が演じた時姫と結婚しており、前年の天暦7年(953)に、井浦新が演じる藤原道隆が誕生していた。

 当然のことながら、道綱母もその家族も、時姫や道隆の存在を知ったうえで、兼家と婚姻関係を結んでいる。

 道綱母も翌天暦9年(955)8月に、藤原道綱を出産した。だが、同年の秋から冬、兼家は「町の小路の女」という女性のもとへ通うようになってしまう。

 この時に道綱母が詠んだ歌は、『小倉百人一首』にも選ばれている。

 嘆きつつ一人寝る夜のあくる間はいかに久しきものとかは知る

(嘆きながら、たった一人で寝ている夜が明けるのが、どんなに長いか、あなたにはおわかりにならないでしょうね)

 町の小路の女は兼家の寵愛を失うが、兼家はその後も、次々と別の女性のもとに通い、道綱母を苦しめた。

『蜻蛉日記』には、次第に道綱母から足が遠いていく兼家に対する怒りや、嫉妬、嘆きなどが綴られている。


正妻になれず

 婚姻関係を結んだのは時姫が先でも、時姫と道綱母は、ほぼ同じ程度の身分の家の娘であり、結婚後、数年は道綱母が正妻に据えられる可能性を有していたという(星谷昭子『蜻蛉日記研究序説』)。

 だが、道綱母は道綱ただ一人しか子を授からなかったのに対し、時姫は道隆、道兼、道長、冷泉天皇の女御となった超子、吉田羊が演じる詮子と五人の子に恵まれていた。

 天禄元年(970)2月、道綱母が35歳の頃、兼家は東三条の豪華な新邸に移っている。

 道綱母はこの東三条邸に迎えられると期待していたが、それは叶わなかった。

 東三条邸に迎えられたのは、時姫とその子どもであった。同居により、正妻は時姫に決定したという(服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち—〈望月の世〉を読み直す』高松百花 「第二章 道長の<母>たち ◎実母時姫・庶母・父兼家の妻妾」)。

 道綱母が『蜻蛉日記』の執筆を開始した時期に関しては諸説あるが、東三条邸に迎えられなかったことが、上巻の執筆の契機になったともいわれる(川村裕子『新版 蜻蛉日記Ⅱ』下巻)。


事実上の離婚?

 道綱母は天延元年(973)8月、38歳のとき、父・藤原倫寧に引き取られ、広幡中川に居を移した。

 事実上の離婚ともいわれるこの転居は「床離れ」とみられている。

 床離れは、完全に夫婦の縁が切れるのではない。兼家自身が道綱母のもとに通うことはなくなったが、手紙のやりとりや、仕立物の依頼、道綱の行き来はあったという(角川書店編『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 蜻蛉日記』)。

 実際に、兼家から頻繁に縫物の依頼が届いていることが、『蜻蛉日記』に記されている。

 その『蜻蛉日記』も、翌天延2年(974)の大晦日で、幕を閉じた。

 時姫は天元3年(980)正月に、兼家は正暦元年(990)5月に、それぞれ死去した。

 秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』正暦4年2月28日条には、道綱母が病悩したことが記されている。

 さらに、『小右記』長徳2年(996)5月2日条には、道綱が、亡母の一周忌の法事を行なったという記載がみられることから、道綱母は前年の長徳元年(995)に、60歳で亡くなったものと思われる。


道綱母にとっての『蜻蛉日記』とは

 道綱母が『蜻蛉日記』を書いたのは、兼家という高い地位にある貴族と結婚できた誉れをつづりたかった、という一面も存在したのではないかと、見る説もある(服藤早苗『「源氏物語」の時代を生きた女性たち』)。

『蜻蛉日記』を読む限り、兼家は時姫より道綱母を、より深く愛していたと推定する説もある(星谷昭子『蜻蛉日記研究序説』)。

 道綱母の胸の内はわからないが、幸せを感じる時間も少なくなかったことを願いたい。


【藤原道綱母ゆかりの地】

●長谷寺

 真言宗豊山派の総本山。

 正式には豊山神楽院長谷寺という。初瀬寺、泊瀬寺、豊山寺とも呼ばれる。奈良県桜井市初瀬にある。

 安和元年(968)、長谷寺詣へ出かけた道綱母を、藤原兼家は宇治まで出迎えに行っている。

筆者:鷹橋 忍

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