徳川幕府の老中・松平定信が「寛政の改革」で見せた、仁慈の精神とは
2025年4月18日(金)5時50分 JBpress
歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
30歳という若さで「老中首座」に
天明7年(1787)6月、白河藩主であった松平定信は、徳川幕府の老中となります。しかも単なる老中ではなく「老中首座」(老中の最上位)に任命されたのです。30歳という若さでした。幕府の要職を歴任してきた訳ではない定信は、なぜ異例の出世を遂げることができたのでしょう。その要因の1つは、定信が、御三家や御三卿の1つ一橋治済の後援を得ていたことにありました。
治済は、11代将軍・徳川家斉の実父であり、影響力がありましたが、それでもすぐに定信の老中就任が実現した訳でもありません。当時の幕閣は、田沼意次派の人々で占められており、御三家や御三卿が定信を老中に送り込もうとしていることに反発したからです。
将軍家斉自身は、御三家らの意向を受けて、定信を老中として登用したい考えだったようですが、老中・水野忠友が反対したために容易に実現しませんでした。
また、定信は将軍の縁者(定信の妹は、亡き10代将軍・家治の養女となっていた)であり、将軍の縁者を幕政に関与させてはならないとする論理も「田沼派」は展開してきました。そのようなこともあり、定信の老中就任は容易に実現しなかったのですが、天明7年5月、田沼派の実力者が役職を罷免されるという事態となり、状況は変化します。
田沼派の人々が罷免された背景には、5月に江戸において、打ちこわしが発生したからだと考えられています。将軍のお膝元・江戸における打ちこわしという前代未聞の出来事。その責任を問われて、一部の田沼派が失脚したのです。そして、老中首座・松平定信が誕生するのです。
ところが、定信が十分に力を振るえる環境はまだ用意されていませんでした。将軍家斉から「遠慮なく目一杯にやって良い」との上意が定信に伝えられても、それは難しかったのです。老中職などに田沼派の面々が依然としていたからでした。それならば、その田沼派の人々を解任してしまえば良いではないかと思いますが、それも困難でした。彼らは「温厚」「篤実」で「何の害もこれ無く」と定信が評するような人々。何か目立った問題がある人物たちならばすぐに解任もできようが、そうではなかったので、定信は苦慮したのです。
「温厚」「篤実」な同僚の首を切ってしまったならば、それは定信が行ったこととして、世間から非難されてしまうことを彼は恐れたのです。将軍家斉が成長していれば、将軍自らの決断として世間も認めようが、将軍は未だ年少。そうした時にあって、定信が老中を罷免することは難しかったのです。
しかし、天明8年(1788)、定信は御三家らの働きかけもあり、将軍補佐役にも任命されます。これにより、他の老中にはない立場を定信は得たのです。これにて、定信はやっと田沼派の老中を罷免することができました。
定信が「文武」を奨励した理由
その後、定信は将軍の側近を定信派で固めることにも成功します。大きな権力を手中にした定信ですが、独裁者として振る舞った訳ではありません。重要な事案は、御三家にお伺いを立てて、賛同を得てから推進していました。また、同僚(老中)ともよく相談していたのです。
定信は「寛政の改革」を実行したことで知られますが、彼の改革は「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶというて 寝てもいられず」(文人・狂歌師の大田南畝)と狂歌で茶化されたことでも有名です。蚊が飛ぶ音「ぶんぶ」と文武(ぶんぶ)をかけたもので、ユニークな狂歌というべきでしょうが、ではなぜ、定信は文武をそれほど奨励したのでしょうか。寛政3年(1791)、江戸では盗賊が横行していました。人々の噂では、盗賊は旗本や御家人の屋敷にまで押し入ったというもの、盗賊には旗本も交じっていたというものもありました。
定信はこれらのことを武士の義侠心の消失と深刻に受け止めたのです。武士の義侠心が衰えた理由を、定信は困窮と「下々の勢いは増長いたし来たり」ということにありと見ていました。奢侈で怠慢な生活、借金生活に陥る武士たち。一方で、下々(町人など)の勢いは増し「上」を凌ぎ、下は上を「軽蔑」する風潮があると幕閣は見ていたのです。武士の義侠心を復活させるための1つの方策が文武を盛んにすることでした。
具体的に言うと、将軍の御前で武術を披露する機会を設けたり、湯島聖堂の補強(建物の拡張や、教育機能の充実)を行ったりしたのです。下々の勢いが上を凌ぐという事態が現出していると定信が見ていたとは言え、定信は下々の者を侮っていた訳ではありません。
同僚の老中を諭した「老中心得十九ヶ条」の中では「町人・百姓・下賤の者であったとしても、侮ってはいけない」と述べているからです。寛政の改革では、凶作や災害に備えた米穀・金銭の貯蓄が全国的に行われました。こうした社会政策の遂行は、民衆を思いやる定信の精神から出たものと言えましょう。
参考文献
・藤田覚『松平定信』(中公新書、1993年)
・高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館、2012年)
筆者:濱田 浩一郎