これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!

4月25日(木)6時0分 JBpress

 スリランカの首都・コロンボで大規模な爆破テロが発生し、日本人女性を含む多くの方が犠牲となりました。

 ちょうど1年前、私は取材で同地を訪れていました。スリランカののどかな雰囲気と現地の方々の優しさに触れ、ぜひもう一度ゆっくりと旅をしてみたいと思っていただけに、今回のことは大変ショッキングな出来事でした。

「開成をつくった男、佐野鼎(さのかなえ)」は、幕末、今回のテロの現場となったスリランカ(当時のセイロン島)に立ち寄っています。1860年の「万延元年遣米使節」に続き、1861〜1862年の「文久遣欧使節」にも加わり、ヨーロッパ諸国を歴訪。その途中、シンガポール経由でセイロン島にも寄港していたのです。

 明治維新の6年前に、日本のサムライたちがインド洋を航海していたことはあまり知られていませんが、佐野鼎がセイロン島から江戸で待つ友人に宛てた手紙は、現在も残っています。その内容については、またの機会にご紹介したいと思います。


幕末の使節団、パスポートはあったのか

 さて、今回は前回に続き、ハワイからのレポートです。

 佐野鼎が随員として参加した「万延元年遣米使節団」が江戸を発って間もなく、太平洋上で大しけに見舞われ、急遽、予定を変更してハワイのオアフ島に寄港したといういきさつは、前回の記事でお伝えした通りです。

前回記事:幕末のサムライ、ハワイで初めて「馬車」を見るhttp://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56142

 ハワイ王国にとっては、突然決まった初めての日本人の入国です。しかも総勢77人。受け入れ側としてはどのような対応をしたのか? 当時、パスポートなどはあったのか? などなど、とっても気になるところですね。

 じつは、今回の取材旅では、159年前に発行された「パスポート」なるものを、しっかり見学することができました。ハワイの公文書館に保管されている貴重な史料の数々を、一般社団法人万延元年遣米使節子孫の会のメンバーのために特別に公開していただいたのです。

 下の写真が、当時、急遽作られたという日本人の使節団用「パスポート」です(写真が掲載されていない場合は、JBpressの記事をご覧ください)。資料の説明文には「Passport for Japanese Embassy 17 March 1860」とあります。この「パスポート」をよく見ると、使節たちの名前が記され、ハワイ王朝としてそれを許可していることがわかります。

(註:日本最古のパスポートは、慶応2年[1866年]に江戸幕府が、横浜の曲芸師・亀吉に発行したものとされている)

 一方、こちらの写真は、王宮のゲストブックに残されていた、日本人使節トップらのサインです。

 筆跡がよく似ているので、代表者の一人が書いたものかもしれませんが、しっかりとした縦書きの筆文字で、「日本使節」新見豊前守、村垣淡路守、「使節立合」小栗豊後守、森田岡太郎らの名が記されています。

 159年前のその瞬間が、目に浮かぶようです。


現在もその姿を残す宮殿「ワシントンプレイス」

 使節団一行が、カメハメハ4世夫妻に謁見したという宮殿「ワシントンプレイス」も、その姿を今に残していました。この建物は、1847年に建てられたもので、現在も当時の姿を残しています。

 このときの模様や従者によるスケッチの一部は、前回(連載10回目)の記事でも紹介したとおりです。とにかく、彼らにとっては初めて足を踏み入れた「異国」の宮殿ですから、相当なインパクトがあったのでしょう。それぞれの日記には、ここで見たもの、聞いたものが生き生きと具体的に記されていました。

 佐野鼎は西洋砲術の専門家らしく、宮殿に設えられた大砲や警備体制について日記の行数を割いていましたが、木村鉄太(肥後藩)は、自身の日記にこのように記していました。

『ポーハタン号の提督・船将ら十六人が、王の離宮で、夜に舞踏会を催して国王をお招きした。王は王車に乗り、衛士三十余人を従えて来られた。我々ははじめ門にたたずんで妙なる音楽に聞きほれていたところ、衛士たちが迎えに来て中に入り、官人に告げて堂の中に入った』(『万延元年遣米使節航米記 肥後藩士 木村鉄太の世界一周記』より)

 下級の従者たちは当初、王宮の外に待機し、興味津々で中の様子をうかがっていたようです。「妙なる音楽」という表現には思わず笑みがこぼれますが、王宮の中に入ってから彼らは、さらに、驚くような光景を目の当たりにすることになります。

 前出の木村鉄太は、カメハメハ王をはじめとする男性たちが「夫人の両手をとり、音楽に合わせてくるくると回る」その様子を見て、「コマが回っているようである」と記しています。

 日本の江戸時代を生きる彼らにとって、女性が肩を出したきらびやかなドレスを身にまとい、男性にエスコートされながらダンスを踊る姿は、驚くほど奇異であり、また、眩しくも映ったことでしょう。

 カメハメハ4世夫妻に謁見した後、副使・村垣淡路守は、こんなユニークな歌を作っています。

『ご亭主はたすき掛けなり 奥さんは大肌脱ぎて 珍客に会う』


輪転機もあった当時のハワイ

 また、一行は、オアフ島に滞在中、キリスト教の教会にも足を運んでいます。珊瑚の石を使って建てられたカワイアハオ教会です。このとき、イギリス人の幼い女の子が中に入るよう勧めてくれたそうで、彼らはこの建物を「耶蘇堂(やそどう)」と称して、日記を綴っています。

 キリスト教がご法度だった時代に、こうした建物の中に入るには、さぞかし勇気がいったことでしょう。「長椅子が三十余り並べられた講堂」、その正面の高い位置に掲げられた「キリスト磔刑(はりつけのけい)」の図を見たときに受けた衝撃は、相当のものだったようです。

『開成をつくった男、佐野鼎』の中には、このほかにも、蒸気仕掛けの輪転機で「ニウスペーパー」なるものが超高速で印刷される様子を初めて見たり、写真館に立ち寄ったりする場面など、日本よりはるかに進んだハワイ王国の文化に圧倒される場面が登場します。

 ちなみに、勝海舟や福沢諭吉が乗った「咸臨丸」がハワイに立ち寄ったのは、それから約2カ月後のことです。日本とハワイの友好関係は、アメリカの軍艦「ポーハタン号」に乗っていた「万延元年遣米使節」のホノルル港への寄港から始まっているのです。

 ハワイを旅する機会があれば、ワイキキビーチでのリゾートだけでなく、ぜひ「万延元年遣米使節」の足跡を辿り、現存する古い建物も辿ってみてください。

筆者:柳原 三佳

JBpress

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