本郷和人 なぜ上杉謙信の大領土は「あっ」というまに失われてしまったのか…関東平定を宿願にするなかで後継者問題を招いた「謙信の失敗」【2025編集部セレクション】
2025年4月28日(月)10時0分 婦人公論.jp
東京大学資料編纂所・本郷和人先生が分析する上杉謙信「最大の失敗」とはーー(写真提供:Photo AC)
2024年上半期(1月〜6月)に『婦人公論.jp』で大きな反響を得た記事から、今あらためて読み直したい1本をお届けします。(初公開日:2024年2月14日)
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2023年に放映された大河ドラマ『どうする家康』。家康は当時としてはかなりの長寿と言える75歳でこの世を去っています。「家康が一般的な戦国武将のように50歳前後で死んでいたら、日本は大きく変わっていた」と話すのが東京大学史料編纂所・本郷和人先生です。歴史学に“もしも”がないのが常識とは言え「あの時失敗していたら」「失敗していなければ」歴史が大きく変わっていたと思われる事象は多く存在するそう。その意味で「上杉謙信のある失敗」が歴史に与えた影響は絶大だったそうで——。
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謙信の宿願
謙信は、自分の部下、領地、そして自分を支持する勢力に大動員令を出して軍勢を編成し、軍事行動を起こそうとしたときに、トイレで倒れて亡くなりました。
その作戦の目的は、織田信長との決戦だったと言われてきましたが、今では関東の平定が目的だったと見なされるようになっています。
謙信は関東管領の職を求め、就いていた。その彼にとって、関東を平定し、かつての秩序を回復することは宿願でしたが、ほとんど果たすことができていません。
さらに言えば北条氏という、かつての秩序にはなかった存在を討つことも彼にはできなかった。北条氏康とは和睦までしています。
つまり途中で、現実路線を取らざるを得なくなったわけで、やはり彼にとって関東を昔の姿に戻すことは荷が重かった、という気がします。
当時の越後の国では米が取れなかった
謙信の関東進出については、また別の説もあります。
たとえば立教大学の名誉教授だった藤木久志先生が提起した「越後国が貧しかったため、謙信は略奪を行うべく関東へ進出していた」という説です。この説はセンセーショナルな話題を獲得しました。
『「失敗」の日本史』(本郷和人:著/中公新書ラクレ)
しかし群馬が大変に豊かな土地で米が豊富に収穫できた、という歴史を持っていたのならいいですが、当時の群馬にわざわざ赴いて、新潟に帰ってみんなで食べあえるほどの食料を奪うことはできたのでしょうか。
なお越後の国は当時、米があまり取れませんでした。新潟はコシヒカリを名産とする”米どころ”というイメージがありますが、江戸末期には100万石の石高があったものの、江戸初期には35万石しか取れていません。
なぜかと言えば、米は基本的に寒さに弱いので、雪対策がきちんとできるようになるまで、生産量が上がらなかったのです。
米を買えたはず
そう聞くと、他国に略奪に行きたくなる気持ちもわからないでもない。しかし謙信が亡くなったとき、上杉家の蔵には金がうなっていた、という説があります。
謙信の時代、庶民は青苧(あおそ)から作った服を着ていました。そして越後はこの青苧が取れるのです。
後に木綿が入ってくるまでは、越後で青苧を収穫し、日本海交易を通じて京都まで運び、売りさばくことができた。だからお金は持っていたのです。それを考えれば、米が取れなくとも、お金で買うことは十分にできたのではないか?
「略奪すればタダだ」と思われるかもしれませんが、善悪は別としても、軍事行動にはお金がかかるもの。であれば、素直にお金で米を買ったほうがよかったのでは、という気もしないでもない。
総体として、関東管領になった上杉謙信が、昔ながらの関東の秩序のありかたを好んでいたことは間違いなさそうなので「だから関東に出兵した」という線は捨てきれない。このあたりの検討は、これからの課題ということになるでしょう。
広い領土があっという間に失われて
その謙信は先述の通り、49歳で亡くなる。
彼の亡くなる前、上杉家の領国は越中全域、能登、そして上野の半分まで広がっていました。かなり広い領土があったにもかかわらず、謙信亡き後、あっというまに失われ、ほぼ越後だけになってしまいます。
なぜこんなことになったのかと言えば、それは上杉家が後継者問題で真っぷたつに割れたため。
謙信は結婚していませんから、子どもはいなかった。そのため姉の子である上杉景勝を養子に迎えていた。こちらは謙信と血が繋がっていますから、後継者としてみなの納得も得やすい。
しかしもう一人、候補者がいた。先に北条と和睦をしたと述べましたが、そのとき謙信のもとに、人質として北条氏康の七番目の息子が派遣されてきた。
三郎という人ですが、謙信は彼を非常にかわいがった。男色の相手だったという説もあります。そして三郎に、昔自分が使っていた名を与え「上杉景虎」と名乗らせた。そのため、実はこちらのほうが後継者の本命だったのではないかと見るグループもでてきた。
血の繋がった景勝か。それとも謙信のかつての名を与えられた景虎か。
謙信の真意をいくら考えても、亡くなってしまえば後の祭り。問題だったのは、そこで上杉家が真っぷたつに割れてしまったことです。結果として景勝と景虎は、一年間にわたって抗争を繰り広げ、その間に上杉の所領の多くが失われてしまうことに。
これこそが謙信の招いた「大きな失敗」と言えるのではないでしょうか。
※本稿は『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
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