「令和」で126代目、天皇と“名字”の意外な関係

4月30日(火)6時0分 JBpress

 天皇家の人たちには名字がない──。地名、階層、職制、家系など多岐にわたる要素を組み込み、それぞれが何らかの意味をもつ名字。古代において天皇から職能や序列などを表すために与えられた「姓(かばね)」が、その始まりのようである。では、古代から現代にいたるまで、与える側の天皇や皇族が名字を持たなかったのはなぜだろう。私たちが、祖先から受け継いできた「名字」の成り立ちと変遷を、日本中世史が専門の奥富敬之氏の著書よりひも解く。(JBpress)

(※)本稿は『名字の歴史学』(奥富敬之著、講談社学術文庫)の一部を抜粋・再編集したものです。


姓名は、天皇から賜わるもの

 日本最初の統一王朝である大和朝廷は、ひらたくいえば氏族連合政権だった。多くの氏族が天皇の下に寄り集まって、ひとつの政権を構成していたのである。

 それぞれの民族集団は「氏(うじ)」と呼ばれた。氏族の長は「氏上(うじがみ)」と呼ばれ、同じ血縁の「氏人(うじびと)」たちを統率管理した。その下には非血縁の奴婢(ぬひ)たちが従属させられていて、「部曲(かきべ)」とか「部民(べみん)」と呼ばれていた。

 つまり「氏」は、1人の氏上、複数の氏人、そして多くの部曲とから成り立っていたのである。

 天皇の場合も同様だった。天皇は天皇氏という民族の氏上で、いわゆる皇族は、その氏人だった。しかし天皇氏に従属していた奴婢たちは部曲とはいわず、特別に「品部(ともべ)」と呼ばれた。


尊卑の序列を示す姓名

 中央氏族の氏上は、朝廷に出仕して自分の氏の職能を果たしたり、氏上たちが開く会議に出席したりする。そのようなときの席次などを決定したのが、姓(かばね)と考えられる。姓は、もともとは氏人たちが氏上を呼ぶときに付けた尊称だったという説もあるが、これは誤りと思われる。

 大和朝廷に連合あるいは臣従した際、その氏の身分の高下によって天皇から氏上に授けられた尊称で、それなりに尊卑の序列があった。つまりは、のちの爵位のようなものであり、「真人(まひと)」「大臣(おおおみ)」「大連(おおむらじ)」など20種類ほどあった。

 天皇が姓を与えることを「賜姓(しせい)」という。そして与えられた姓名を名乗るということは、天皇を自分より上位の存在と認め、天皇に対する臣従と忠誠とを誓うという意味があった。

 したがって天皇とその一族には姓はない。もし天皇が姓を名乗ったら、「誰から賜姓されたのか」「天皇より上位の存在があるのか」ということになってしまうからである。

 とにかく天皇は、最高位の存在でなければならない。だから天皇と皇族には姓はない。そのことが継承され、現代でも天皇と皇族には名字はない。


奈良時代の浪費が招いたもの

 天皇を1代目として、子、孫、曾孫と代を重ねても通常は天皇氏の氏人、つまりは皇族として扱われ、親王、内親王あるいは王、女王などの号を称することはできる。しかし数代のちになると、やはり天皇氏という氏族集団から出ていくことになる。天皇氏の氏人でなくなるので皇籍離脱ということになり、必然的に家臣の籍に下るわけだから、これを臣籍降下(しんせきこうか)という。

 奈良時代の大半の天皇は、天武天皇の系統だった。壬申ノ乱に敗れた天智—弘文天皇の系統は、まったく皇位に即(つ)くことができないでいたのである。しかし、この間の天武系歴代天皇の政治は、基本的に放漫財政策だった。浪費が多く、数多くの冗官(じょうかん)を設けた。必然的に財政支出は、つねに巨額だった。

 そして一方では、しだいに律令制度は弛緩(しかん)してきていた。荘園という私領が増大し、これに反比例して税源である公領が減少していたので、必然的に租税収入は減少しつつあった。


財政再建のために

 770(神護景雲4)年8月4日、この天武天皇系の系統が途切れるという事態が起こった。天武天皇系の称徳天皇(女帝)が崩御したのである。称徳天皇には、配偶者はいなかったし、当然のことながら、後嗣たるべき御子もいなかった。次の天皇になるべき皇太子も、決まってはいなかったのである。

 そして、その後の混乱を経て、天智天皇の末子、施基(しきの)皇子の子で、それまで大納言だった白壁(しらかべ)王が次代の天皇に推され、第49代の光仁天皇として擁立されたのである。じつに10代目ぶりの天智系の誕生であった。

 光仁天皇の政治は、天武系歴代天皇の政治の尻拭いだった。「省官簡務」を原則としたが、これは「無駄な官職を省き、余分の役務を簡素化する」という緊縮財政策である。しかし緊縮財政策も光仁天皇の1代限りだった。781(天応元)年、子の桓武天皇が即位すると、放漫財政策に戻ってしまう。

 このような情況下、桓武天皇は異母弟の諸勝(もろかつ)親王を皇籍から離脱させて臣籍に降下させ、広根(ひろね)諸勝と名乗らせた。同時に自分自身の皇子である岡成(おかなり)親王も臣籍降下させて、「長岡」と賜姓した。これは先例のない画期的なことだった。

 律令制度では、天皇から5代目までは皇親であると定められていた。それなのに桓武天皇は、2代目にあたる2人を皇籍から離脱させたのである。両親王の皇籍離脱、臣籍降下は、本人たちの望んだことでもなければ、褒賞でもなく、たんに皇室財政の節約が目的だった。

 大和朝廷の時代から皇族の皇籍離脱、臣籍降下というのは、褒賞であり、論功による行賞だったのにくらべると、きわめて異例といえた。天皇家の財政事情は、ここまで逼迫していたということになる。

 この現状を改善すべく814(弘仁5)年5月8日には、第52代・嵯峨天皇が、4人の皇子と4人の皇女とを一挙に臣籍に降下させるという思い切った手を打った。注目すべきは8人に賜姓された姓名が同一の「源」だったということである。後世の歴史に大きな足跡を残すことになる「源」姓が、史上に初めて現れたのだ。


編み出された「別の手」

 ところが、第67代・三条天皇を源流とする「三条源氏」が成立して以降、約半世紀にわたって異変が起こった。皇族の臣籍降下が、突然とまったのである。天皇家の財政情況が好転したわけではなかった。摂関政治が最高潮に達していた時期だったから、天皇家の財政情況はむしろ悪化していた。それなのに皇族の臣籍降下が行われなかったのである。何故か。

 臣籍降下とは別の方法が編み出されたのである。それは皇族を、大寺院の門跡(もんぜき)に任じて送り出してしまうという手だった。皇族が門跡として送り込まれたのは、円融院・青蓮院(しょうれんいん)・実相院・円満院・仁和寺(にんなじ)・妙法院などだった。

 この方式は、送り出した天皇家にとっても、送り出された皇族にとっても都合がよかった。たんに臣籍降下させるだけだったら、少なくとも1、2代の間だけでも天皇家は旧皇族を朝廷での官職に任じて、一定の収入があるようにしてやらねばならない。しかし皇族を門跡として送り込んだ寺院には、それなりに寺領などがあるから旧皇族が困窮する心配はない。

 また皇族を門跡として寺院に送り込むということは、皇族を僧侶にするということである。僧侶になれば肉食妻帯はしないはずだから子孫が生まれるはずもない。その皇族1代限りということになる。


臣籍降下からの脱却

 しかし、第71代・後三条天皇が即位した頃から、また天皇家に新しい動きがみられた。白河・鳥羽・後白河と、摂関政治にかわって「院政」が開始されたのである。院政を布いた院(もと天皇)たちは、みな財政窮乏の事態の原因を見抜いていた。そして事態の打開を果敢に図ったのである。

 具体的には、まず荘園整理令の強行だった。荘園の立荘関係の証拠文書などを精査して、不備が見つかった荘園を収公し、また公領に戻したのである。院政を布いた院たちは、荘園を公領に戻そうとしただけではなかった。天皇家領の荘園を逆に造成しようとした。つまり院自身が、荘園領主になろうとしたのである。

 律令制以来の建前では、日本の国土と国民とは、みな天皇家のものだった。だからこそ公地であり、公民だったのである。その公地と公民とを支配するはずの天皇家が、私地私民として天皇家領の荘園の造成を図った。もともと公領の支配者だった天皇家が、荘園という私地の領主になろうとしたのである。

 これより以降、財政上の理由での皇族の臣籍降下は、まったく行われなくなった。その必要がなくなったからである。のちに行われた皇籍離脱、臣籍降下と「源」姓賜与は、いずれも政治的な理由によるものだった。


天皇家を継続させた「分」の思想とは?

 天皇家が60余代も続いていたとされる平安時代後期、藤原摂関家も摂政あるいは関白という地位を10余代も独占してきていた。そして公家社会では、一定の官職の世襲化ということも、すでにはじまっていた。

 この間、天皇家以外の出身で、天皇になった者はいなかった。藤原摂関家以外の身で、摂政あるいは関白になった者も現れなかった。菅原道真が急速に立身出世して、いまにも摂政か関白になりそうにみえたこともあった。ところが道真は、太宰府に流されて死んだ。平将門が新皇と名乗って、東国の国王になりかかったこともあった。しかし直後の合戦で将門は戦死した。

 このような情況下、京都の公家社会に1つの考えが芽生え、やがて確立発展していった。それは「分(ぶん)」の思想、あるいは「分」の意識と呼ぶことができるかもしれない。

 人には、それぞれ持って生まれた「分」というものがある。「分際」「分限」あるいは「身分」「身の程」とか、「定め」といいかえてもよい。いずれにしても人それぞれに持って生まれた「分」というものがある。

 だから人間は、自分の「分」を守り(守分)、「分」に応じた生活をし(応分)、「分」に随って生きなければならない(随分)。自分の「分」に過ぎたことを望んだり(過分)、自分の「分」にあらざることを仕出かしたりする(非分)からよくないことが起こる。

 かつての菅原道真も眼前の平将門もそれだった。藤原摂関家の出でもないのに菅原道真は出世しすぎて、摂関という地位に近付きすぎた。だから「過分」ということで太宰府に流されたのだ。天皇家でもないのに平将門は「新皇」と名乗った。だから「非分」ということで敵の矢が額に命中したのだ。これが「分」の思想だった。

 そしてこれらの最高位にあったのが「天皇家」だった。「家業」は日本国を統治することで、「家職」は天皇、「家格」は日本国内で最高というものである。

 この「分」の思想が、たとえ天皇よりも強大な権力を握った者が現れたとしても天皇家を継続させ、さらに日本的階層社会を長く固定化させたという面は否めない。

筆者:奥富 敬之

JBpress

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