なぜ武市半平太は土佐勤王党を結成したのか?その経緯と実態、武市の政治的動向

2025年4月30日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)


将軍継嗣問題とハリスの来日

 武市半平太の動向を追う前に、安政期(1855〜60)を中心に、当時の政治情勢について触れておこう。将軍就任直後から暗愚で病弱とされる13代将軍徳川家定では、未曽有の国難を乗り切れないとの判断が広く浸透していた。そのため、賢明・年長・人望の条件を満たす一橋慶喜を推す一橋派と、あくまでも血統を第一として、紀州藩主徳川慶福(後の家茂)を推す南紀派の二つの派閥が形成され、政争が繰り広げられた。まさに、改革派(一橋派)vs守旧派(南紀派)の様相を呈したのだ。

 安政3年(1856)7月、ハリスは日米和親条約で開港された下田に上陸した。玉泉寺を総領事館と定めて直ちに出府を希望し、江戸での通商条約交渉の開始意向を開示したのだ。安政4年(1857)5月、下田奉行の井上清直らは日米和親条約を修補した日米約定(下田条約)に調印した。

 これにより、長崎の開港、下田・箱館居留の許可、片務的領事裁判権(治外法権)等が取り決められた。ちなみに、領事裁判権とは外国人が現在居住する国の裁判権に服さず、本国の法に基づいて本国領事の裁判を受ける権利である。これは、日米修好通商条約にもそのまま取り入れられ、不平等条約の要因となったのだ。


日米修好通商条約の締結

 安政4年10月14日、ハリスは江戸に到着し、21日には江戸城において、将軍家定に謁見して、ピアース大統領の親書を奉呈した。いよいよ、日米修好通商条約の締結に向けた交渉が始まるかに見えた。しかし、実際には徳川斉昭を始めとして、通商条約への反対意見も多数存在したため、交渉はなかなか進捗しなかった。

 艦隊の派遣や戦争の開始を示唆するなど、武力を背景にしたハリスの砲艦外交により、12月3日に下田奉行井上清直と海防掛岩瀬忠震を全権に任じ、ようやく交渉が開始された。この間、筆頭老中の堀田正睦の下で外交の推進者となったのは岩瀬であり、主導的な役割を果たし続けたのだ。

 安政5年(1858)3月、堀田は上京して通商条約の勅許を求めたが、孝明天皇から拒絶された。4月23日、彦根藩主井伊直弼が突如として大老に就任し、慶福(家茂)を将軍継嗣と決定、さらに通商条約は堀田らの幕府専断による締結やむなしの意見を抑え、あくまでも大名の意見調整を踏まえた勅許獲得に固執した。しかし、第2次アヘン戦争(アロー号事件)を外圧にしたハリスの圧力も相まって、6月19日、岩瀬の判断で調印したのだ。


安政の大獄と山内容堂の対応

 安政5年8月8日、それまでの大政委任体制を朝廷自らが否定し、水戸藩に勅諚を下賜し、諸藩にも内報された極めて意義深い事件、戊午の密勅が起こった。勅許なく、幕府が通商条約に調印したことを強く非難し、御三家および諸藩には幕府に協力して公武合体の実を挙げること、幕府には攘夷推進の幕政改革を成し遂げることを命令したのだ。伝達方法だけでなく、内容的にも幕府の面目は丸つぶれとなった。

 水戸藩による朝廷工作によって、戊午の密勅が下賜されており、大老井伊直弼は斉昭が黒幕と睨んで、何とか証拠を見つけて徳川斉昭を罰するために、徹底的な捜査を命令した。ここに、安政の大獄が勃発したのだ。

 捜査範囲は広がり続け、未曽有の大弾圧事件に発展した。山内容堂は参政吉田東洋の助言により、先手を打って隠居したが、謹慎となり江戸在住を強要された。しかし、安政7年3月3日(1860、3月18日に万延に改元)、桜田門外の変での井伊大老の横死後、9月に容堂は謹慎解除となっている。


武市による土佐勤王党の結成

 文久元年(1861)6月、武市半平太は文武修業のため再び江戸に出て、大石弥太郎から尊王論が勃興する時勢を聞き及んだ。大石の紹介により、住谷寅之助、岩間金平、樺山三円、桂小五郎、久坂玄瑞ら水戸藩、薩摩藩、長州藩の即時攘夷派の志士と交流を始めた。特に、久坂とは肝胆相照らす仲となった。武市は彼らと時勢を論じ、深く感じるところがあり、大石、島村衛吉、池内蔵太、河野敏鎌らと藩内の尊王志士の組織化を決意したのだ。

 同年8月、武市らによって、江戸で土佐勤王党が結成された。その目的は、大石弥太郎の起草による盟約書の一節によると、一度、錦の御旗が掲がれば、団結して火の中水の中どこへでも突出することを神明にかけて誓い、上は孝明天皇の御心を安んじ奉り、老公(容堂)の遺志を継ぎ、下は万民の災患を取り除くことにあった。

 謹慎中の容堂の意志を継ぎ、朝廷のために命を惜しまず、攘夷と国事にまい進する覚悟を謳っている。9月4日、武市は早速江戸を出立し、一旦土佐に帰国して同士糾合を企図した。いよいよ、武市が政治の表舞台に登場したのだ。


土佐勤王党の構成と武市の動向

 土佐勤王党の構成員の総数について、198名(後に脱藩等で吉村虎太郎など7名が名簿から削除)が血盟している。ちなみに、坂本龍馬は9番目であるが、在藩者の中ではトップであった。龍馬の加盟は、おそらく武市の帰藩後の文久元年9月頃と考える。

 構成員の身分の内訳については、判明者の175人中、上士は3人、白札は15人、下士総数は104人(郷士層50人、その他64人)、庄屋は19人、その他(陪臣、僧侶、医師、百姓など)は24人となっている。僅かだが、上士も含まれるなど、身分を横断しているものの、基本的には下士層以下からなる集団であった。

 さて、この頃の武市半平太の動向であるが、桜田門外の変以降、全国的に即時攘夷運動が隆盛となっていた時流に乗り、大目付に対し、薩長両藩とともに上京することや、藩政改革、人材登用などを進言している。さらに、藩内で勢威を拡大し、容堂の股肱の臣である吉田東洋と対立を始めているが、この段階ではさすがに武市らが藩政を動かすに至らなかった。

 武市は、久坂玄瑞に密使(坂本龍馬ら)を派遣して善後策を相談したが、藩を挙げての活動に固執する武市と、草莽崛起を主張する久坂の路線の差異が顕然化するだけだった。龍馬や吉村虎太郎は、久坂に感化を受けて追従する姿勢を示し、脱藩して久坂が目指す義挙への参加を志向したのだ。

 次回は、武市による参政吉田東洋の暗殺の経緯を追い、また、文久期前半の長州・薩摩両藩の中央政局への進出の動向を確認し、藩主山内豊範の上京にかかわる武市の活躍などを詳しく述べたい。

筆者:町田 明広

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