島崎今日子「富岡多惠子の革命」【15】『男流文学論』の余波

2025年5月1日(木)6時0分 婦人公論.jp


座談会『男流文学論』の書評を総点検する(「中央公論」1992年7月号)

戦後の日本文学史に決定的な影響を与えた詩人であり、作家であり、評論家であった富岡多惠子。54年を連れ添った夫・菅木志雄をはじめ、さまざまな証言者への取材をもとに、87年の生涯を辿る。

* * * * * * *

「やってくれない?」


「中央公論」の編集部にいた河野通和のもとに、富岡多惠子から突然電話がかかってきたのは1992年4月のことであった。休職して1年間アメリカの大学で教鞭を執っていた河野は、前年の秋に嶋中鵬二社長から呼び戻されたばかりで、富岡と言葉を交わすのはひさかたぶりだった。挨拶のあと、その当時話題になっていた『男流文学論』について「面白かったですね」と感想を告げると、作家は用件を口にした。
「そう? これについての書評をひとあたり、このメンバーで論じようと思ってて。どこで掲載しようかと思ったとき、そうや、そうや、アメリカから白馬に乗った王子さまが帰ってきたと、あんたのこと、思いついたの。やってくれない?」
 河野は即答した。
「ああ、それは喜んで。やりましょう」
 富岡は「本当? 大丈夫?」と念を押してきたが、河野の返事は変わらなかった。
 男性作家の作品の読み直しをしようと考えたとき、富岡はつきあいのあった出版社のなかから文芸誌を持たない筑摩書房に声をかけている。その危険性がわかっているだけにできるだけ編集者に負担を強いず、なおかつ信頼できる編集者がいる場所をと頭をめぐらせたはずだ。書評を批評するときも、それは同じだったろう。
 河野は、東大で文学研究会の部長だったころから、53年生まれの自分より18歳年上の作家のファンだった。詩は面白かったし、最初の小説『丘に向ってひとは並ぶ』に衝撃を受け、それから富岡作品を愛読してきた。篠田正浩や粟津潔と映画をつくり、坂本龍一とレコードを出すなど作家の仕事ぶりは実にカッコよかった。エッセイも見逃さないように気をつけていた。
 中央公論社に入社し、「婦人公論」に配属された78年の秋、「庭にゴロゴロ、アートの残骸が転がっている家や」と教えられた玉川学園の自宅へ出かけて、秋の臨時増刊のための短編小説を依頼した。渡された作品は、上京時の下宿屋に材をとった「十二社の瀧」。富岡の前で、40枚の原稿を読みはじめた25歳の新米編集者は、緊張してなかなか読み進められなかった。そこへ、三島由紀夫から最後の原稿を受け取った伝説の編集者、「新潮」の小島千加子がやってきて、一挙掲載の長編『三千世界に梅の花』(1980年)の300枚か400枚かある原稿用紙の束を受け取るなり、サラーッサラーッとすごいスピードで読んでいった。慌てた河野が思わず富岡の顔を見上げると、ふたりの真ん前に座っていた作家は、「どや、これがプロや」と嬉しそうに笑ったのだ。
 河野にとって忘れられない、大好きな富岡の思い出である。

しょうがなく花火をあげた


「富岡さんというのは希有なひとでね。僕にとって、作家からあんなに優しく、親切にされ、温かい言葉をかけてもらったということはなかったんですね。ふとした拍子に仕事の不満めいたことを漏らしたら、『あんた、仕事はマジメにやらんとあかん。いい加減にやったり、手を抜いたりしてると、自分がバカに見えてくるから』と言われました。母親や上司に言われたら、うるせーなぁとなっただろうけれど、富岡さんにやわらかい大阪弁で、でもきっぱり言われると打たれたんですね。彼女のロジックをその後も繰り返し思い出しながら、すごく励まされました。恩返ししなきゃな、という気持ちがずっとありました」
 富岡が『男流文学論』の書評を論じたいと言ったときも、怯むことはなかった。
「いろいろ波風は立つだろうなという思いは若干ありましたが、それでも懸念はなかったし、二つ返事で引き受けました。やりたいと思いましたよね。というのも、あの本が出たとき、3人の座談会で論じられたように馬鹿げた書評が多かったし、文壇では無視するような雰囲気が強かった。ちゃんとこの本の位置づけを議論することは『中央公論』としてまっとうな態度だと思いましたから、やるべきだと即決したんです」
『男流文学論』は、発刊以来、膨大な数の媒体で取り上げられ、書評も次々載った。編集者だった藤本由香里は、その数の多さに小躍りしたほどだ。
「とにかくすごい反響でした。すごい数の書評が出て、めちゃくちゃ叩かれました。でも、私たちはしめしめと思っていた。叩かれても、話題になるほうが絶対いいんです。今の言葉でいえば、炎上上等! という感じでした」
 富岡多惠子、上野千鶴子、小倉千加子が書評を論じる座談会は藤本も参加して、92年4月30日に京都で行われ、「『男流文学論』の書評を総点検する」のタイトルで、6月10日発売の「中央公論」7月号に掲載された。16ページという長さである。文芸誌の対談や座談会では普通にある長さだが、総合誌でこれだけのページをとることは少ない。
 ここで富岡はなぜ男性作家の作品の読み直しをやろうと思ったかを、改めて語っている。
 二十歳のころから詩や小説を書いてきて、男性批評家から批評されてきたという経験があったとして、次のように述べた。

〈女だというまとまりでしか捉えられなくて個人個人として批評されてない感じが、ずっとしていた〉〈これまでの批評の言葉は男の言葉だということに気がついた。女の人だって、女の言葉では批評もし合っているんだけど、これまでそういうものが批評だと見なされなかった〉〈女自身のもっている言葉づかいというものもあるのに、そういうものを抑圧しないと、男と共通の言葉を使えない。それをなんとかして、少しでも変えたい〉〈べつに男に頭をなでられるようなものを書こうなんてだれも思ってませんけれども、批評が男のディスコースで重ねられていくうちに、読者も書き手もいつの間にかワナにはまっていくんですね。そこに風穴をあけなきゃおかしいという気持ちがだんだんたまってきた〉(「中央公論」1992年7月号)

 そうして、〈仕事というのは地面を這うように地道にやるものだと思っている〉作家は、今回は〈しょうがなく〉花火をあげたというのである。

重鎮・吉行淳之介の反応


 この座談会は、『男流文学論』を本編とするならば、付録としてもいいもので、文芸批評のフェミニズム批評となっている。俎上にのったのは、発売以来3カ月の間に掲載された膨大な数の書評。だが、その膨大な書評のなかに当時の三大紙のひとつである毎日新聞はなく、主要文芸誌も「群像」が小さなコラムで、「すばる」が書評ではないところで取り上げたのみ。つまり、文壇ジャーナリズムの主流派からは文芸批評とみなされていないという反応をうけた、というところから話はスタートし、なぜ文壇は黙殺するのかと展開。当時の文壇がムラ化していること、男性批評家の批評スタイルや、フェミニズムに対する態度を片っ端から論じていく。
 富岡は、最後にこう話した。

〈この人らふたり(注・上野と小倉)だけじゃなくて、もっといろんな人が、半分揶揄され馬鹿にされたりしながら、勉強してきたわけですよね。田中美津さんからはじまって、二〇年間、それぞれ、なんやかや言いながらも、女の人たちはけっこう地道に勉強してきているわけですよ〉〈私たちは身につまされるから考えてきたんですね。身につまされない人は考えないですよ〉(同)

 河野が雑誌局長から呼ばれたのは、「中央公論」7月号が出て、間もなくのことだった。局長が何かの折に吉行淳之介に会ったらしく、「苦情やクレームというんじゃないけれど、俺はちょっとここのところ神経の具合があまりよくないので、こういうのを読むと調子がよくないんだよ」と言われたのだという。
「『男流文学論』は、吉行淳之介を冒頭にもってきて論じていました。当時の文壇で吉行さんはカリスマで、ある種の聖域だったわけですから、そこから論じはじめたのは、何とも果敢で大胆でした。あの座談会でも、吉行さんが読売新聞のインタビューであの本について聞かれて『やれやれ、いやはやです』と言ったことや、田村隆一との対談で『フェミニズム系の問題は触らないほうがいいよ』と言ったことを、取り上げていましたよね。そのまま載せたわけですが」
 鼎談で富岡が言う。

〈日本の風土としては、高見に立って、いやあ、あんなものは、まあまあいいじゃないか。嵐と同じでそのうちおさまる、というのが大人なんですね。そういう風土は非常に不愉快です〉(同)
 
 雑誌局長は、困った顔をした。
「吉行さんの言うことには重みがあって、うちも谷崎賞や中央公論新人賞、いろいろご縁もあるわけだよ」
 河野は中央公論新人賞の担当者として長らく吉行の世話になっていた。「じゃあ、僕はどうすればいいんですか。吉行さんのところに行って、この話をしましょうか」と応えると、それは止められた。
「話は承りました、と言って退室しましたが、掲載したことへの後悔はまったくありませんでした。ただ吉行さんとすれば、『中央公論』にあんな記事が掲載されるとは……と釈然としない思いだったんでしょうね」


取材先のトルコ・イスタンブールで(写真提供:菅木志雄氏)
広がる文壇との距離

『男流文学論』が出た半年後、富岡は中央公論社から『雪の仏の物語』を刊行していた。担当編集者の下川雅枝が「これで絶対谷崎賞を」と自信を持った作品だが候補にもならずに、受賞は瀬戸内寂聴の『花に問え』に決まった。選考委員だった吉行は8月に行われたこのときの選考会を欠席している。94年7月、吉行淳之介逝去。吉行が中央公論社で選考委員をしていたもうひとつの中央公論新人賞は、この年で終止符を打った。
 そのあたりの事情はともかくとして、河野は作家を心配した。
「僕は、富岡さん、大変だろうなと思いましたね」
 当時、吉行淳之介は大ヒットした87年の『夕暮まで』以来、ほとんど小説を書いてはいなかったが、文壇で隠然たる力を持ち、依然中心的存在であることには変わりなかった。その周りにいた編集者たちも、当然文芸ジャーナリズムの中核を担ってきたひとたちだった。
「何か具体的なことがあったり、噂を耳にしたわけではありませんが、文壇のまんなかにいたひとたちと富岡さんの距離ができていくだろうなとは感じましたね」
 河野の言うとおり、「ええいっ」とばかりに文壇に打ち上げた花火が、富岡にどんな影響を及ぼしたかはわからない。『男流文学論』以降、富岡が刊行した小説は『雪の仏の物語』と、97年に講談社から出た『ひべるにあ島紀行』、2007年に新潮社から出た『湖の南』のみで、このあたりから評論の世界へ入っていくのである。それは、89年に伊東へ引っ越したことと無縁ではなかったろうし、年齢的なこともあったろう。むしろそれ以降、読売文学賞、野間文芸賞、毎日出版文化賞と次々大きな賞を受賞し、2004年には日本芸術院賞も受賞して、社会的な評価が定まっていったと考えられる。それでも、花火の火の粉が富岡の作家人生に飛び火しなかったとは思えない。あるいは、すべてを予想した上での革命的選択であったのか。
 富岡が大きなリスクを冒して世に問うた『男流文学論』は、ヒットはしたものの、期待したほど爆発的な数字にはならなかった。藤本には、今ならその理由がわかる。
「なにが大ヒットにストップをかけたかというと、『私は、これ、読んでいない』ということだったと思います。もともとの作品を読んでないから読んでもしょうがないということだったんでしょう。でも、会話のテンポがいいし、梗概もついてるから、作品を読んでなくても楽しめるんですけどね。男性のなかにも評価してくださる方はいて、その筆頭が鶴見俊輔さん。『これは素晴らしい試みだ』ととてもほめてくださいました」

空前絶後の存在、戦後最大の作家


 河野にとって富岡との最後の仕事は、編集局長として『湖の南』を谷崎賞の候補作として検討したことだった。結局、受賞にはつながらず、2008年に中央公論新社を退社した河野と作家の縁も少しずつ遠くなっていった。
「僕にとって、富岡さんというのはパワーがあってアクティブなひとなんですね。好奇心旺盛でチャレンジングで。だから80年代には、たとえば『西部邁ってどういう人?』とか、『中沢新一って、どういう人?』とか、僕の知っている筆者について尋ねられたり、よく電話がかかってきたんですね。でも、ある時期から新しいひとに対してもだんだん自分が首実検に行ってやろうというような色気がなくなって、これまで馴染んできた世界を改めて手元に引き寄せるような感じになっていきました。ああ、このひともそういう心境になったのかな、と少し寂しく感じた記憶があります」
『男流文学論』の伴走者、上野千鶴子は、富岡が70代半ばで筆を擱いたことに驚嘆する。
「どこかで、彼女はなぜ書くのかと問われて、『書かずにすむようになるため』と言っていた。言ったとおりのことをなさって、見事だなと思いました。どんなに性描写が激しくなっても、女の書くものから性愛ロマンティシズムはなくならないのに、富岡さんだけは例外だった。愛と性が別ものだという、女にとっての性と愛の思考実験を極北まで見せてくれたあんな作家、他にいません。空前絶後の存在です」
 上野の富岡多惠子論は、2013年の『〈おんな〉の思想 私たちは、あなたを忘れない』などで、詳細に分析されている。
 もうひとりの伴走者、小倉千加子は、間遠になっていったものの、晩年まで富岡と手紙を交わし、電話で話していた。
「評伝を書くとき、『あんた、どう思う?』とよく電話がかかってきて、ふたりで議論していました。十数年ほど前、親が死んだので家業の幼稚園の経営を継ぐと報告したとき、もう書かなくなってはった富岡さんに、『あんたの文章はゼニのとれる文章や。あんたはもっと書かなあかん。どうするの。幼稚園にとられた』と心配され、怒られました。本当に優しくしてもらいました。詩を書いて、小説を書いて、評伝を書いて、そのすべてにおいて独創性があり、新しいものでした。戦後最大の作家です」
 富岡多惠子が87歳で逝った翌年の2024年12月、日本の文壇を大きく揺るがした32年後に『男流文学論』の韓国版が刊行された。韓国の通販サイトのレビューには、「このような本を待っていた」「韓国の作家も同様に読まれるべき」といった声が並んでいる。

※次回は5月8日に公開予定です。

(バナー画提供:神奈川近代文学館) 

   

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