百済系渡来氏族かつ貧乏だった長岑高名が異例の出世を遂げた理由、皇位継承や政権抗争の陰にある、下級官人層の営み

2024年5月2日(木)6時0分 JBpress

(歴史学者・倉本 一宏)


百済系の渡来氏族

 長岑(ながみね)氏の官人を扱うのもはじめてである。『日本文徳天皇実録』巻九の天安(てんあん)元年(八五七)九月丁酉条(三日)は、次のような長岑高名(たかな)の卒伝を載せている。なお、六国史に長岑氏の官人の薨卒伝が載っているのは、この高名だけである。

正四位下右京権大夫兼山城守長岑宿禰高名が卒去した。高名は右京の人である。童児のときに大学に入った。年二十一歳ではじめて文章生となった。幼い時は義兄従五位下茂智麻呂(もちまろ)に養なわれた。家は貧しく、全く蓄えが無かった。専ら文友と交友し、義兄と深く親交した。弘仁(こうにん)十二年春正月、式部少録に任じられた。しばらくして民部少録に遷任された。弘仁十三年、少内記に任じられた。家が清貧であったので、更に外官に任じられることを望んだ。天長(てんちょう)元年春正月、安房掾に任じられた。清廉で正直な性格で、私心を忘れて公務を勤めた。天長七年春二月、右少史に任じられた。天長九年春正月、為左少史に転任された。天長十年冬十一月、左大史に転任された。承和(じょうわ)元年春二月、遣唐使准判官となった。承和二年春正月、外従五位下に叙された。二月、大膳亮・美作権介を兼任した。承和三年、遣唐大使参議正四位下藤原朝臣常嗣に従って、第一舶に乗った。船上の雑事を大使に委任された。夏四月、更に難波の三津浜に於いて、追って従五位下に叙された。幸いなことに大唐揚州の海竜県桑田郷桑梓浦に着いて、長安に来朝した。時に副使(小野篁[たかむら])がいなかったので、殿に上って皇帝(文宗[ぶんそう])に拝謁することを許された。承和六年、本朝に帰った。秋九月、従五位上に叙され、次侍従となった。冬十月、伊勢権介に任じられた。承和七年春正月、正五位下に叙された。行なったところの政事は、頗る民の望みに合っていた。八月、別に勅が有って、召されて嵯峨院別当となり、すぐに山城守に任じられた。承和九年夏六月、阿波守に遷任された。嵯峨太上天皇の崩御に遭ったからである。承和十年春正月、伊勢守に転任された。在任すること六年。政事には有能という評判が有った。承和十五年春正月、従四位下に叙された。嘉祥(かしょう)三年、播磨守に任じられた。仁寿元年冬十一月、従四位上に叙された。仁寿四年春正月、正四位下に叙された。斉衡二年二月、右京権大夫に任じられた。斉衡三年正月、山城守となった。政事は厳正で公明に行ない、百姓が騒ぎ立てるようなことはなかった。平生、子孫に命じて云ったことには、「吾が家は清貧で、まったく蓄えが無い。吾が死んだ日には、必ず薄葬の儀に従うように」と。官司に於いて卒去した。時に行年は六十四歳。

 長岑氏(長岑宿禰)は百済(ひゃくさい)系の渡来氏族で、現在の中国山東省にあった魯(ろ)の初代君主である伯禽(はくきん)の後裔を称している。伯禽というのは周(しゅう)王朝の政治家である周公旦(しゅうこうたん)の子で、魯公として派遣されたという。反乱を鎮め、魯の風習を改定したという。紀元前九九七年に君主の座を子の「考公(こうこう)」に譲って死去したという。もちろん、伝説上の人物である。

 私はかつて、山東省の煙台(えんだい)にある大学から講演を頼まれ、遠いから嫌だなあと思ったが、講演の翌日に円仁(えんにん)ゆかりの赤山法華院(せきざんほっけいん)の跡に連れて行ってもらえるならという条件で引き受けた。

 地図で見ると煙台からすぐに行けそうだったが、実際には山東半島の先端にある赤山とは百キロ近くも離れていて、中国の大きさを実感したものである。そのとき、山東省を走っている車のナンバーが、「魯」であるのを見て、大いに感動したものであった。なお、「赤山法華院」は中国によくある巨大な歴史テーマパークのような所で、一九八七年に「日本の有名な学士が来られて、200万元投資して、再改造」されたものとのことである。やれやれ。

 それはさておき、長岑氏はその伯禽の後裔を称しているが(『続日本後紀』承和二年[八三五]十月庚子条)、もちろん、実際の血縁関係はないであろう。ただ、百済には中国、特に江南地方からの移住者も多かったから、百済系渡来氏族とはいっても、中国との関係がまったくなかったとは限らないのである。

 長岑氏は元々は白鳥村主(しらとりのすぐり)という姓であったが、天長年間に白鳥村主から長岑宿禰に改姓されている。ちなみに六国史にこの氏族の官人が登場するのは、『続日本後紀』天長十年(八三三)三月癸巳条に、河内国人大外記外従五位下長岑茂智麻呂たち五人の本居を改めて、右京に貫附したという記事からである。元々は渡来人の多く住んでいた河内に本拠を置いた氏族であった。

 白鳥という氏の名から、日本武尊(やまとたけるのみこと)の白鳥陵(実際は古市古墳群の中でも初期の王陵であり、水鳥形埴輪が出土した津堂城山古墳か)が造営された旧市邑(ふるいちのむら/現大阪府藤井寺市津堂)あたりを地盤としていたのであろう。

 平安京造営当初から人家は少なく、条坊もすべてが造られたわけではない右京に貫附されたということから、この氏族の格の低さがわかろうというものである。この茂智麻呂は、高名の卒伝によると義兄であったという。

 この時に右京に貫附された五人のなかに高名も含まれていたのであろう。茂智麻呂はこの天長十年の十一月に従五位下に叙されている。その他、この氏族の官人は、承和七年(八四〇)に従五位下越中介の秀名、貞観(じょうがん)三年(八六一)に従五位下(女官か)の良子、貞観九年(八六七)に右京権亮から筑前権介に任じられた外従五位下(後に従五位上)の恒範と、合わせて五人しか、六国史に現われない。ほとんどの氏人は六位以下の下級官人で終わったのであろう。

 この長岑高名は、延暦(えんりゃく)十三年(七九四)と言うから、平安京遷都の年に生まれたことになる。父母の名は明らかではない。『日本文徳天皇実録』の卒伝に父母の名前がないということは、五位以上に上っていなかったことによるものであろう。

 高名は、家が貧しく、まったく蓄えが無かったので、幼い時は義兄の茂智麻呂に養なわれた。幼少で大学に入ってからは、もっぱら文友と交友し、義兄と深く親交したという。

 それが功を奏したのか、弘仁五年(八一四)に二十一歳という若さで文章生となり、弘仁十二年(八二一)に二十八歳で式部省の第四等官である式部少録、そして民部少録に任じられた。その勤務態度が評価されたのであろう、翌弘仁十三年(八二二)には二十九歳で少内記に任じられた。少内記というのは、中務省の被接官の一つで、詔勅・宣命の草案や官人の位記を作成し、また朝廷の記録を掌る下級官である。

 そのまま内記所で勤務するかと思われたが、二年後の天長元年(八二四)に三十一歳で安房掾に任じられた。安房国は千葉県南部の中国という格の国であり、掾はその第三等官である。家が清貧であったので、更に外官に任じられることを望んだ結果であるという。

 そこでも実直に勤務し、清廉で正直な性格で、私心を忘れて公務を勤めたとある。ただ当時はまだ、いわゆる「王朝国家」にはなっておらず、国司が任地で私腹を肥やすことはできなかったのであるが、中央の下級官人よりは実入りはよかったのであろうか。

 安房掾の任期が終わった天長七年(八三〇)、ふたたび中央に戻され、三十七歳で右少史に任じられた。二年後の天長九年(八三二)には三十九歳で左少史に転任されている。

 少史というのは太政官弁官局の第四等官(主典)である。判官以上の処分した事を記録し、文案を作るなどの職掌を担った。四十歳を迎えた翌天長十年(八三三)には何と、左大史に昇任された。よほど優秀な勤務を認められたのであろう。この間、白鳥村主から長岑宿禰に改姓されている。


遣唐使の准判官に任じられる

 転機が訪れたのは四十一歳の承和元年(八三四)の時であった。この年、延暦以来の発遣が決定した遣唐使の准判官に任じられたのである。前にも述べたように、この最後の遣唐使は、小野篁の一件などもあって、なかなか出帆しなかった。この間、承和二年(八三五)に、外従五位下に叙され、大膳亮・美作権介を兼任した。

 任命から二年後の承和三年(八三六)、遣唐大使参議正四位下藤原朝臣常嗣に従って、第一舶に乗った。高名は船上の雑事を大使に委任されたとある。夏四月、更に難波の三津浜に於いて、内位の従五位下に叙された。

 律令官位制の原則では、基本的には内位は中央氏族、外位は地方豪族や格の低い氏族が叙されるものとされていた。また、四等官のなかで次官は長官と同じ職掌を持ち、長官が不在の際はそれに代わってその官職を代表する。高名がそれまで外位を帯し、第三等官を歴任してきたのに対し、ここで内位の五位(すなわち貴族)の次官(大膳亮・美作権介)の地位に上ったというのは、これまでとはまったく異なる立場となったことを意味する。

 さて、第一舶は三度目の渡航で、困難を極めた航海の後、幸いにも六月に唐の揚州の海竜県桑田郷桑梓浦に着いた。その後、副使の小野篁がいなかったので、高名は長安に赴く三十四名に選ばれ、十月に来朝した。承和六年(八三九)正月、高名も殿に上って皇帝(文宗)に拝謁することを許された。

 閏正月、一行は第一船と第四船が航行不能となっていたため、新羅船九隻を雇って、日本に向けて帰国の途に就いた。その時には渡航ルートを巡って高名と常嗣の間で対立が生じたが、結局は高名の主張が通って、新羅の南岸沿いの航路を利用した(『入唐求法巡礼行記[にっとうぐほうじゅんれいこうき]』)。

 この時、短期の請益僧であった円仁ら四人は途中で下船して不法滞在を続け、「会昌の廃仏」という弾圧を受けながら五台山を目指した。その過程で滞在したのが、先に述べた赤山法華院である。私がどうしても赤山法華院を訪れたかった理由がご理解いただけよう。なお、円仁は帰国後の仁和四年(八八八)、京都の北東の表鬼門に赤山禅院(せきざんぜんいん)の創建を命じている。

 話を高名に戻すと、帰国後の九月、従五位上に昇叙され、次侍従となった。十月には伊勢権介に任じられ、また外任が始まった。承和七年(八四〇)正月には正五位下に叙されている。行なったところの政事は頗る民の望みに合っていたというから、また善政を行なったのであろう。八月には別に勅が有って、都に召されて嵯峨院別当となり、すぐに山城守に任じられた。ここではじめて、長官となったのである。高名は太上天皇として権力を振るった嵯峨の側近に仕えることとなったのである。

 しかし、承和九年(八四二)に嵯峨太上天皇が病に倒れると(七月に死去)、六月に高名は四十九歳で阿波守に遷任された。上国という格の国同士とはいえ、平安京のある畿内の山城守から阿波守では、ずいぶんな左遷である。しかし、翌承和十年(八四三)には五十歳で大国という最上格の伊勢守に転任された。こんどは六年の任期いっぱい勤めることができ、またもや政事には有能という評判を得た。承和十五年(八四八)に従四位下に叙され、嘉祥三年(八五〇)に播磨守に任じられた。播磨も最上格の大国である。この年にはすでに五十七歳に達していた。

 すでに当時の平均寿命を越えた頃、また転機が訪れた。仁寿元年(八五一)に従四位上に叙された。四位というのは大化前代の大夫(マヘツキミ)に由来する高位である。仁寿四年(八五四)には正四位下に昇叙されている。これは八省の長官である卿に相当する高位である。そして斉衡二年(八五五)、六十二歳で右京権大夫に任じられ、翌斉衡三年(八五六)、六十三歳で山城守に任じられた。ここでも政事は厳正で公明に行ない、百姓が騒ぎ立てるようなことはなかったという。

 しかし、高名がその才を発揮し続けることはなかった。すでにその寿命は尽きていたのである。平生から子孫には、自分が死んだら薄葬を行なうよう命じていたが、天安元年九月三日、官司(山城国衙)において卒去した。六十四歳であった。なお、山城国府の所在地は、何次にもわたって移転しているが、遺跡はいまだに確定していない。

 この間、朝廷の権力中枢部では、桓武(かんむ)・平城(へいぜい)・嵯峨(さが)・淳和(じゅんな)・仁明(にんみょう)・文徳(もんとく)天皇と時代は遷り、藤原氏の数々の官人が政権を担当し、一方では平城太上天皇の変(薬子[くすこ]の変)や承和の変など様々な政変が起こったが、高名はそういう動きとはまったく無縁に、与えられた官を黙々と勤めあげ、その出自から考えると異数の出世を遂げたということになる。それもすべて、若年時の学問の研鑽、および生活の環境から培われた、深い学識と高潔な人格によるものであろう。華やかな皇位継承や政権抗争の下部には、このような下級官人層の日々の営みが存在したのである。

 河内の渡来系氏族出身で貧乏だった高名が、これほどの出世を遂げ、(当時としては)天寿を全うして人生を終えたことには、普段は出世ということにあまり価値を置かない私でさえ、思わず喝采を送ってしまう。高名の死は、執務中の突然死だったのであろうが、官司の中で卒去するというのも、いかにも高名らしい。本人の脳裡に去来したものは何だったのであろうか。

 なお、高名の子孫や縁者は、まったく六国史から姿を消す。しかし、摂関期の古記録には、六位以下の下級官人もたくさん登場する。長岑氏でいうと、藤原師輔(もろすけ/道長[みちなが]の祖父)の『九暦(きゅうれき)』の天慶(てんぎょう)七年(九四四)の記事に、近江国の焼亡した糒倉と兵庫の修理料として銭千二百貫を進上した長岑数種(かずたね)、藤原実資(さねすけ)の『小右記(しょうゆうき)』、藤原行成の『権記(ごんき)』、道長の『御堂関白記(みどうかんぱくき)』の寛弘(かんこう)二年(一〇〇五)の記事に、大宰府と宇佐八幡宮との抗争に関連して罪名勘文が陣定で定められた大宰典代長岑忠義(ただよし)、実資の『小右記』の寛仁(かんにん)三年(一〇一九)の記事に、刀伊(とい)の賊徒に拉致された女十人を、高麗国に渡って随身して帰ってきた対馬島判官代長岑諸近(もろちか)、そして『小右記』の長元(ちょうげん)五年(一〇三二)の記事に、佐渡(さど)国に配流されていた長岑忠義が伊勢大神宮の託宣によって罪を赦されて召し替えされたことが見える。

 この三人が高名の子孫であったかどうかはわからないが、その可能性もあるであろう。少なくとも同じ氏族の者が活動していることに、少なからず安堵する次第である。

筆者:倉本 一宏

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