石原裕次郎が亡くなった時は“デスマスク”を描かせ…石原慎太郎が闘病中に問い続けた「自分が死んだらどうなるのか」
2025年5月3日(土)7時10分 文春オンライン
〈 石原慎太郎は膵臓がんとの闘いに“怒り”を…「なんでオレがこんなヤクザな目に遭わなきゃいけねえんだよ」 〉から続く
文壇と政界に、巨大な足跡を残した石原慎太郎(1932〜2022)。その歯に衣着せぬ物言いは、常に世間の耳目を集めた。しかし、いくら燃え盛った太陽も、いつかは沈む。その最期を看取った、画家で四男の延啓(のぶひろ)氏が明かす、父・慎太郎が遺した言葉とは。(全3回の3回目/ はじめから読む )

◆ ◆ ◆
「自分が死んだらどうなるのか」
父はもう10年以上も前から「オレはもうじきに死ぬ!」とよく口にしていました。このセリフを聞くたびに食傷気味の私は「俺が10年がかりで看取ってやるよ」と半ば冗談で返していましたが、本人は本心では死ぬ気などまったくなかった。
利き手の左手に麻痺が残り、足が弱くなったのを自覚したせいもあるでしょう。リハビリには精を出していました。近所に住んでいた私が車を運転していると、老人が周りを気にせずに道のど真ん中をウォーキングしている。「迷惑なじいさんだなあ」と思いながら近づいてみると父であることがよくありました(笑)。ウォーキングから帰ってくると、玄関でスクワットを20回するのが決まり。利き手が不自由になっても「昔はもっと上手かったのに」と怒りながら整理した自宅の画室で絵を描いたりして、リハビリに余念がなかったようです。
父は、仏教や神道の各宗派の方々との交流も深く、法華経の現代語訳をはじめ仏教関係の本も書いていますが、しばしば「宗教は信じていない」「神もいない」と発言することもありました。そして何よりも、自分が死んだらどうなるのかを気にしていたように思います。晩年にはジャンケレビッチの『死』が愛読書となり、書斎の机の横には必ず置いてありました。
12月のある時、病床で突然に、
「オレはわかった! 人は死んだら自分にとっての神と出会うんだ」
と大きな声で言ったこともありました。
数年前に父の家で酒を酌み交わしながら東北の被災地における体験などについて話をしていた際には、
「もしオレが死んだ後、おまえが困っていたら、必ずオレは幽霊になって現れてやるからな」
と言ってくれました。珍しいことを言い出すなと思いながら、息子としてそれなりに感動していたのですが、その後「いや、死後の世界は存在しない。虚無だけだ」と言うからガッカリ(苦笑)。
幽霊はともかくとして、父には、いい枯れ方をしてほしいという願いがどこかにありました。これは私の勝手な思い入れでしたが、イギリス人の映像作家デレク・ジャーマンの写真集『ガーデン』のような仕事を父と一緒にできないかと思い、父に持ちかけた事もあります。彼はHIVに感染してから、ロンドンの家を引き払い、イギリス最果ての村に移住した。そこで庭いじりをしながら余生を暮らし8年後にこの世を去りました。そのときの暮らしをまとめた『ガーデン』は一部で大変な評判になりました。社会風俗から離れて、情念のない穏やかな暮らしをしながら、ジャーマンのようないい枯れ方をして、穏やかに世界を見つめ直す眼差しを持ってくれたらなと。そういう方向に持って行きたかったのですけれど、実際はぜんぜん違った。それは所詮私の我であり、当の父こそは自我を失うことを最後まで恐れて、戦っていました。
「末期の目」がない
父は初期の作品から生と死を主題としたものが多いのが特徴です。
先に述べた、柄谷さんとの対談のなかで、父の長編小説『生還』(1989年)が話題にのぼっています。この作品は末期の胃がんの宣告を受けた男が常識破りの治療法に再起を賭け、奇跡的に完治するという話。柄谷さんは父に次のような感想を述べています。
〈〈石原さんは依然として健在だなと思った。つまりあれ(『生還』)には「末期の目」がないんです。日本の美学の伝統から言えば、必ず「末期の目」に映ったものは美しいとなる。しかし、『生還』は絶対生き返ろうとしてるでしょう〉〉
結局、自分自身が個として存在していることが一番だから、それは政治家としては問題になる。私が素人目で見ても、アーティストが政治家やっているわけだから、派閥なんて束ねられる訳が無い。人気があっても総理大臣になるのは厳しいと思っていましたし、なったら失言で内閣はひと月で倒れてしまったのではないでしょうか(笑)。逆に都知事は、都民の皆さまが直接選ぶ大統領制みたいなところがあるから、持ち味を生かせるところがあったのではないかと思います。
息を引き取ってから自宅に帰ってきた父はとても穏やかな顔で安らかに眠っていました。私は叔父(裕次郎)や父方の祖母が亡くなったとき、父に言われてデスマスクを描かされたのですが、亡くなったことに直面させられる無表情がとてもつらかった。その時々とは違い父は笑みさえ浮かべていて、まるで仏様のような顔をしていました。家族みんなで「普段からこれくらい優しい顔をしていたら、みんなもっと優しく接してあげられたのに」と言いました。
でも、それで終わらないのが父です。納棺する際、いつも着ていたグレーのダブルのスーツに身を包み、お馴染みのアスコットタイとチーフをつけていました。それがもう生々しくて今にも目を覚ましそうです。シーツの端を持って、棺に入れるのに手間取っていたら、さっきまで穏やかだった父の顔が急に不機嫌そうに変わったのです。「手際が悪いんだよ、お前たちは!」と怒り出しそうであまりに父らしく、家族みんなで泣き笑いしました。
火葬場で父と別れたあとでも、驚かされることがありました。焼き上がったお骨を見ると、よほど骨がしっかりしていたのか、頭蓋骨や太い骨がかなり焼け残り、灰になってしまうことの多い歯まで確認することができました。改めて頑強であった父の肉体を強く感じました。
「オレの人生で一番の仕事って何だったのだろう?」
父にとって文章を書くことは生きがいでした。自宅でお招きしたお客様と一緒に食事をしている途中でも何か閃きがあると「じゃあ」と切り上げて2階の書斎に行ってしまうことさえありました。
執筆の相棒はワープロ「ルポ」。ひらがな入力ができるという理由で同じモデルを30年以上使い続けていました。日本ではもう5人くらいしか使っている人はいないという話で、東芝には父の為の専門の担当者がいると聞いたことがあります。
父は今ここが第一の人。その時々に書いたものが父にとっての最高傑作でした。まだ実家で一緒に暮らしていた頃、明け方近くにトイレに立つと「オレは今、これまでで最高の散文詩集を書きあげたぞ」と高揚している父に出くわしたこともあります。流石に晩年になって現行の作品が最高傑作かを問うと「ん? 悪くない作品だよ」と言うにとどめておりましたが。
昨年12月も半ばを過ぎると徐々に病気も進行し、父は「手探りでのたうち回っている感じがする」と言うようになりました。そして「ノスタルジーしか感じない。只々懐かしい」と昔の思い出ばかりを書いている父に「今、まさしく死に行く人間がみている眺めを描写して書いてみない? 親父の小説の『遭難者』や『透きとおった時間』の中で死んでいく主人公よりも時間があるのだから書いてよ」と提案してみました。
父からは「おお、そうだな」と気のない返事が返ってきました。もう、そこまでの体力はなかったのでしょう。残されたフロッピーディスクの中には、昔の思い出を綴った文章以外見当たりませんでした。
亡くなるひと月ほど前だったでしょうか、ある時病床の父からふと、
「オレの人生で一番の仕事って何だったのだろう?」
と問われました。私が答えを模索していると、
「創造的な世界にひとつのやり方を投げかけることはできたよな」
独り言のようにポツリと言いました。父は最後までアーティストでした。もっと色々と聞きたかった、話したかった。それがもう叶わないのはとても寂しく残念でなりません。
◆このコラムは、いまなお輝き続ける「時代の顔」に迫った 『昭和100年の100人 リーダー篇』 に掲載されています。
(石原 延啓/ノンフィクション出版)