昭和後期世代憧れのヒーローが<仮面ライダー>から<ドリフターズ>へ変化したワケ。「現代のように個性が最重要との空気は、俺たちがガキの頃はまだ強くなかった」

2025年5月9日(金)12時30分 婦人公論.jp


(写真提供:Photo AC)

大阪・関西万博の開幕に伴い、1970年に開催された大阪万博にもたびたびスポットライトが当てられています。そんななか、人気雑誌『昭和40年男』創刊編集長の北村明広さんは、大阪万博後の昭和46年以降を「昭和後期」と定義し、この時代に育った人たちを「次々と生み出されたミラクルに歓喜しながら成長した世代」だと主張します。今回は北村さんの著書『俺たちの昭和後期』から一部を抜粋し、再編集してお届けします。

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ブラウン管の中に求めるヒーローが変化する成長


『仮面ライダー』と『ウルトラマン』によってテレビの魅力に取り憑かれ、以後次々と登場するヒーローたちに心を踊らせた。

まだアニメと呼ばれる以前の、テレビまんがや特撮ヒーローものを、大人たちは手を替え品を替え懸命になってガキどもにぶっ込んだ。テレビまんがの2大巨頭『デビルマン』が昭和47年7月に、『マジンガーZ』が同年12月に放送が始まった。永井豪によるビッグキャラクターだ。

昭和20年生まれの発展請負世代である。戦争の記憶はない。

円谷英二石ノ森章太郎にとっては、影響の受け方こそ異なれど敗戦は大きな共通項で、2大ヒーローに滲み出ている部分がある。永井作品にはなく、この差異がごちゃ混ぜになっているのが昭和後期のヒーローたちだ。されど共通するのは、子供を喜ばせたいとの大人たちの深い愛だった。

「ドリフターズの一員になる」という夢


幼少時にヒーローとして君臨したのは、正義の味方や梶原ワールドに代表される努力の男たちだった。だがやがて、成長に合わせて、ヒーロー観に変化が起こる。リアルを求め始めたのだ。

土曜の夜8時に、粉骨砕身する巨星を見つけた。ドリフターズだ。

仮面ライダーシリーズはV3まで付き合った。だが、昭和40年に生まれた男が小学3年生になった昭和49年のXは記憶にほぼない。小1の時に“帰ってきた”ウルトラマンも、同年スタートのレオの記憶はほとんどない。個人差は大きいと思われるが、偉大なるヒーローがドリフターズに取って代わった。

偶然にもこの年、ドリフターズに大変革が起こった。荒井注に代わり、志村けんが正式に加入した年なのだ。

幼稚なバカ者が人生で初めに描いた夢が、仮面ライダーになって正義に貢献することだった。次に小3にして描いた夢が「ドリフターズの一員になる」だった。志村けんの加入は、“あり得る”と信じさせる大変革だったのだ。

余談ながら、小5の時にはTBSのスタジオに『ぎんざNOW!』の、しろうとコメディアン道場のオーディションを受けに行っている。天才少年現ると騒然となる予定をしていたが、あっけなく散った。

この私事を持ち出して言いたいことは、昭和のブラウン管は少年に夢を見せ、尊い経験をさせた。それほどの存在だったのである。

日本最後の“連帯責任世代”が圧倒的に支持した土曜日


ドリフターズの魅力こそはチームワークであり、昭和後期世代はここに惹きつけられた。少し以前のクレージーキャッツは天才集団であり、個々の力が前面に出ているグループだった。

ドリフターズも、「なんだバカヤロー」の天才、荒井注が在籍した時代は、“個”がチーム力よりやや前面に出ていると感じさせる。クレージーキャッツ的だった。

志村けんの加入当初は『8時だョ! 全員集合』の視聴率が低迷する。だがやがて、志村のギャグ力が増しながらチーム力も高めていった。その変化をブラウン管より心眼で受け取った。

『8時だョ! 全員集合』におけるドリフは、“個”プラス“個”が5つで引き出しあいながら、まるでコンマ何ミリの隙間もなくはまり、完璧なチームへと昇華した。5人という大人数でありながら、それぞれの押し引きの調和がこれほどまでに完璧なチームは、お笑いの世界で後にも先にもおるまい。


(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)

この奇跡の過程を、小学低学年から高学年に成長していく中で自然と受け取ったのだ。

メンバー全員が体当たりで番組作りに邁進する姿に、誰1人欠けてはならない絆を知った。

現代のように個性こそが最重要だとの空気は、俺たちがガキの頃はまだ強くはなかった。力を合わせて結果を出すことの美徳を、家庭も学校も地域も熱心に説いた。日本最後の連帯責任世代であることも、ドリフの熱狂を支えたのだ。

強固な結束から生まれる笑いを、笑いとしてだけでなく受け取ったのはまさに心眼である。

メンバー5人は真剣そのものだった


コーラスを担当した女性コーラスグループ「コールアカシア」に所属していた、川崎由美子さんに話を聞いた。

昭和56年頃から最終回まで、毎週土曜日の12時に会場入りして、リハーサルから生放送の本番終了まで過ごした。

彼女は登場がない、冒頭コントのリハーサルをいつも見つめた。

メンバー5人は真剣そのもので、改良を加えながらリハを進行させる。大道具や美術スタッフ間でも怒号が飛ぶことがしばしばあったそうだ。裏方も含め、一人ひとりの番組に対する気持ちの強さを肌で感じたと言う。

リハーサル合間の休憩で見えてくるのは、メンバー総じての真面目さとやさしさ、周囲への気遣いの高さだった。本人いわく、バックコーラス風情も大切な共演者として扱ってもらえたそうだ。

本番直前に志村さんから、「緊張してない?」と、ほぐすように笑顔で声をかけてくれたと振り返る。

すごい番組ができるのはこういうことなのだと、毎週欠かさず過ごした昭和の現場を懐かしみながら話してくれた。

※本稿は、『俺たちの昭和後期』(ワニブックス)の一部を再編集したものです。

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