良きライバルがいてこそ競馬は面白い!テイエムオペラオーとメイショウドトウ、6度の死闘を繰り広げた2頭の名レース

2025年5月12日(月)6時0分 JBpress

(堀井 六郎:昭和歌謡研究家)


歴史に残るライバル対決

 今年の皐月賞では1.5倍という断然の一番人気、無敗だったクロワデュノールがゴールまで100メートルというところで3番人気のミュージアムマイルに差され、クラシックレースの1冠目に手が届きませんでした。

 人気が集中した馬は目標にされる以外に周囲を囲まれたりするなどレース中さまざまな事態に遭遇しますが、こうした難局を騎手とともに克服しなければ真の王者にはなれないということなのでしょう。1、2着を占めたこの両馬がこの先も良きライバルとして見応えのあるレースを見せてくれるといいですね。

 相撲の栃若、柏鵬、野球の長嶋・村山、王・江夏、江川・掛布等々、スポーツの世界ではライバルが存在することによって両者の対決がクローズアップされ、歴史に残る名シーンが数多く生まれます(遠い昔のヒーローばかりですみません)。

 競馬の世界でも、古くは1964年、最初の東京五輪の年に話題になったシンザンとウメノチカラ、1970年のタニノムーティエとアローエクスプレス(私の馬歴史はこのあたりから始まります)、1988年のオグリキャップとタマモクロス、2007〜08年のウオッカとダイワスカーレット、近年では2022〜23年のイクイノックスとドウデュースのライバル対決あたりが話題となりました。

 ライバルに仕立てようとすればさらに列挙できる例もありますが、2000年と2001年の両年にわたり白熱のレースを展開してくれたテイエムオペラオーとメイショウドトウという両馬の激闘を忘れてはいけません。両雄がG1レースで熱戦を演じ、6度にわたり1着と2着を分け合ったという例を私はほかに知りません。 

 テイエムオペラオー(以下、オペラオー)といえば、圧巻だった2000年のレースが思い出されます。2月の京都記念から12月の有馬記念にかけて全8レースに出走、内訳はG2が3レース、G1が5レース、すべて1番人気で全レースを制覇するという前代未聞の結果を残したのです。

 翌年、連勝は止まりますが、春の天皇賞(G1)を2年連続で制し、この時点でG1の勲章は7つとなりました。引退時の総獲得賞金も約18億3500万円と、2001年当時としては世界最高額でした。その後、ドバイワールドカップの賞金が高額となり、ドバイ遠征馬たちによってこの記録は破られますが、オペラオーの場合、日本国内だけの賞金だっただけに価値あるものであり、この記録は15年以上にわたり世界一として君臨する額でした。


好成績でも人気薄の理由とは?

 こうした実績にもかかわらず、オペラオーの人気度は現役当時だけでなく、引退後も思ったほど伸びることはありませんでした。以前にもご紹介しましたが、月刊誌『優駿』読者が選ぶ「未来に語り継ぎたい名馬BEST100」(2024年9月号)でオペラオーは第13位となっています。

 この馬の輝かしい実績からすると低い評価と言えますが、実はこの評価にこそ他馬とは一味違うこの馬の魅力が隠れている、と私は思うのです。

 こうした人気投票では、大きなレースでどれほどの着差をつけて勝利したのか、その勝ちっぷりを高く評価したり、あるいは故障や連敗によって一度奈落に落ちた人気馬が復活するという物語に感動したりするなど、その馬が見せてくれた圧倒的な強さや負けっぷりも含めた個性やドラマ性にファンは惹かれるため、オペラオーのように接戦の多い勝ち方は印象度アップに貢献してはくれなかったのでしょう。

 オペラオーの最大の武器はその精神力にありました。G1レース7勝の際、2着馬との差は、レース順に①首、②3/4馬身、③首、④2馬身半、⑤首、⑥鼻、⑦半馬身というように1馬身以上の差をつけて勝利したレースは1度しかなく、勝利した7レースの着差の合計は4馬身ほどにしかなりません。

 今から40年前の1985年に日本初の7冠馬となったシンボリルドルフの場合、7冠レースで2着馬につけた着差トータルは約14馬身というものでした。

 シンボリルドルフの勝ち方と比較したときに両馬の印象度に違いが出てくるのは致し方ありませんが、見方を変えると、オペラオーの勝負強さがあぶり出されてくるとも言えるのです。追いつかれても絶対抜かせないという比類なき勝負強さは隠れた魅力でもあったのです。

 オペラオーは皐月賞に勝利した馬ではありましたが、デビューの頃から騒がれていた馬ではありませんでした。ミスターシービー(1983年)、シンボリルドルフ(1984年)、ナリタブライアン(1994年)、ディープインパクト(2005年)、オルフェーヴル(2011年)、コントレイル(2020年)という歴代6頭の3冠馬は皆、デビューの頃から注目され、新馬戦やクラシックレースの前哨戦で勝利し、人気と実力を兼ね備えたエリートたちでした。

 反して、オペラオーの初勝利は3戦目、遅い初勝利だっただけに皐月賞には追加登録料の200万円を支払って出走、皐月賞を制覇したことによって、この登録料は無駄にはならず、その後の名馬誕生につながりました。このようにG1初制覇までには前述の名馬たちとは一味違う道のりがありました。


名脇役メイショウドトウとの死闘

 オペラオーはその勝負強さから「5冠馬シンザンの再来」と称されたこともありましたが、そのシンザンが死亡するちょうど4か月前の1996年3月13日に誕生したのがオペラオーでした。

 競馬ファンの間では、2000年に無類の強さを見せつけてくれたことから「世紀末覇王」と称されていますが、ゴール前でたびたび心臓を激しくドキドキさせてくれたので、個人的には「ゴール前の過激王(歌劇王)」と呼びたいですね。

 そのゴール前の攻防で前述のごとく6度にわたりオペラオーと死闘を演じた名脇役、メイショウドトウ(以下、ドトウ)の名を忘れてはいけません。

 ドトウはオペラオーが生まれた1996年3月13日の12日後に誕生している同期生です。ただし出世はオペラオーよりもさらに遅く、重賞レースに登場したのは2000年、4歳になってからでした。3歳クラシックレースに出走できなかったドトウはそのうっぷんを晴らすが如く4歳になってからG2、G1の常連となり、オペラオーの好敵手として台頭してきます。

 2000年6月以降の古馬G1レースはオペラオーとドトウの2頭を中心に展開されます。宝塚記念から始まって秋の天皇賞、ジャパンカップ、有馬記念、すべてオペラオーが勝利し、先に記したわずかな差で2着にドトウが迫りました。どうしても勝てなかったドトウですが、翌年の宝塚記念で初めてオペラオーに雪辱、着差は1&1/4馬身でした。

「もしも」の世界は単なる夢想でしかありませんが、もしもオペラオーがいなければ、ドトウは6冠馬になる可能性があったのかもしれませんね。

 オペラオーの引退式の日、その隣にはドトウがいました。2頭の合同引退式というJRAの粋な計らいにファンからは大きな拍手が送られ、それまでオペラオーの脇役に甘んじていたドトウでしたが、この日はダブル主演として輝いていました。

 オペラオーを取り巻く周辺にはもう一つ物語がありました。馬主の竹園正継、調教師の岩元市三、そして騎手の和田竜二、この3者の絆を繋ぎ直すという役割もオペラオーが果たしてくれた仕事です。

 竹園氏は「テイエム」の冠馬名で知られるJRAの馬主ですが、オペラオーを管理していた岩元調教師とは鹿児島県垂水町(現・垂水市)出身の幼馴染でした。

 岩元調教師がまだ騎手だった頃の1982年、バンブーアトラスに騎乗してダービーを制覇、テレビ中継のインタビュー画面を偶然見かけたことが実業家として歩み始めていた若き竹園正継を発奮させ、馬主への道を踏み出させることになったのです。

 二学年上の竹園は馬主として騎手時代の岩元をG1馬に騎乗させることはできませんでしたが、調教師転身後の岩元に自らの持ち馬を預け続け、後にオペラオーが登場する土台を作りました。

 オペラオーが菊花賞で2着に惜敗した際、竹園は岩元調教師に騎手(和田竜二、当時22歳)の騎乗ミスを指摘し、交替を強く要請します。しかし、岩元は若い和田を育てたい一心から竹園を説得、その後もオペラオーの背には常に和田の姿がありました。

 2001年12月末の有馬記念を最後にオペラオーは引退、生涯成績26戦14勝、2着6回、3着3回、着外3回、全レースに騎乗した和田竜二はこのとき24歳でした。

 2018年、オペラオーが22歳で死亡した際、40歳になっていた和田は人生を変えた出逢いであるオペラオーを偲び、没後からひと月後のSNSにこう記しました。

 ──あなたのおかげでまだここにいます。

(編集協力:春燈社 小西眞由美)

筆者:堀井 六郎

JBpress

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