地震・津波碑データベースでわかる「次に危ない地域」5選! 今こそ祖先からのメッセージを聞け!
2024年5月12日(日)8時0分 tocana
国立民族博物館(大阪府吹田市)は、全国各地の津波被害を記録した石碑や寺社の情報をまとめた「寺社・石碑データベース」を作成し、ネット上に公開している。過去に発生した津波において、どの地域でどれほどの高さまで水が到達したか、被害の詳細を知ることができる津波碑や記録は、防災の観点から決して軽んじてはいけない。とりわけ深刻に受け止めるべき津波碑をピックアップし、そこに記されている内容を考察しておこう。
■津波碑が物語る“最高に危ない地域”5選
前述のデータベース(DB)では、津波碑などが県別・市町村別に分類されているため、その数によって津波発生時の危険度をある程度知ることができる。県別の情報登録数を見ると、岩手県が140件以上と他を圧倒しており、次が宮城県、三重県、和歌山県と続く。市町村別の情報登録件数を見ると、岩手県宮古市(34件)が最多となり、釜石市(33件)、宮城県気仙沼市(31件)、大船渡市(25件)と、4位まですべてが岩手県、宮城県で占められている。岩手県、そして宮城県は、東日本大震災の津波で数多くの犠牲者が出た地域であるが、歴史的にも津波で深刻な被害を受けてきたことがわかる。
では、東日本大震災ではほぼ無傷だったはずの三重県と和歌山県でなぜ津波碑が多いのかというと、これは過去の「南海トラフ巨大地震」において甚大な被害を被ってきたからにほかならない。そこで、本DBにおいて登録件数が多い市町村から、南海トラフ巨大地震をはじめとする切迫した災害を考慮した際、もっとも心に刻みつけるべき5つの津波碑を紹介しよう。
・ 「三陸大海嘯溺死者弔祭之碑」(釜石市只越町)
岩手県釜石市にある32カ所の津波碑の一つ。この津波碑は釜石市の中心市街、只越町の石応禅寺という寺の境内にあり、1896年6月15日の明治三陸地震(推定M8.5)の際に建立された。裏面には、田中製鉄所職員工夫103名の慰霊と記されている。
明治三陸地震は、釜石町(現・釜石市)の東方沖200kmに位置する三陸沖が震源となったが、陸地までかなり距離があったため各地の震度は2〜3程度で、建物倒壊などの直接的被害はなかった。しかし、3.11以前としては観測史上最大の遡上高となる海抜38.2mの巨大津波が発生し、釜石町では8mの高さを記録している。
同地では、その後も1952年の十勝沖地震で2.5mの津波が襲来。1960年のチリ地震(M8.5)では当時の金額で6億円以上の損害、さらに7年前の3.11では993人が命を落とすなど、定期的に津波による甚大な被害を受けている。今後も繰り返されるであろう国内の地震のみならず、海外で発生する地震にも十分警戒しなければならない地域なのだ。
・ 「津波記念碑」(岩手県大船渡市赤崎町)
岩手県南部、三陸海岸南部に位置する大船渡市にある23件の津波碑の一つ。この津波碑は大船渡湾に面した赤崎公園にあり、1933年3月3日の昭和三陸地震(M8.1)による大津波を記録するために建てられた。津波発生から2年後、朝日新聞が募集した義勇金が各市町村に分配され建設資金となった。碑文には、昭和三陸地震の溺死者数81人に加え、前述の明治三陸地震(1896年)の津波による犠牲者数457人も記されている。
昭和三陸地震による死者1500人以上のうち、1300人以上は岩手県民であり、同県がいかに津波の危険地帯であるかを物語っている。碑文には、「地震があったら 津波の用心 津波が来たら 高い所へ」と、後世の人々へのメッセージも刻まれている。
・ 「寶永の津浪潮位(推定)」(和歌山県田辺市)
和歌山は三重とともに津波碑の登録が極めて多い近畿地方の県である。これは田辺市にある15の津波碑のうちの一つで、紀伊半島南端に近い田辺湾岸に位置している。海から500mほど内陸のガード下に、碑文を刻んだ銘板が貼られている形だ。
実は、この津波碑は平成10年に市の公民館によって作られたもので、宝永年間の1707年10月28日に発生した宝永地震(南海トラフ巨大地震、M8.6程度)による津波を記録するためのもの。津波は伊豆半島から九州までの太平洋岸から瀬戸内海にまで達し、2万人の死者が出たと考えられている。刻まれている碑文は、「寶永の津浪潮位(推定) 海抜12メートル79。昔この位置に峠道あり。寶永(西暦1707年)の津波」。碑文には、他にも安政南海地震(1854年12月24日、M8.7程度)と昭和南海地震(1946年12月21日、M8.0)による津波の潮位も記されている。
和歌山県は、今さら指摘するまでもなく南海トラフ巨大地震によって大きな被害が想定されている地域である。内閣府の被害想定によると、津波到達時間は最短で地震発生後4分、死者は最大8万人と見積もられている。宝永の津波が同地で12mもの高さに達したという事実を碑文に刻みつけておくことは、後世の人々にとって貴重な情報となるだろう。
・ 「津波供養塔(供養塔)」(三重県度会郡南伊勢町)
紀伊半島の南東部分にある三重県度会郡南伊勢町は、太平洋に面した土地だ。南側の海から200m弱に位置する最明寺の山門前に、この津波死者供養塔が建てられている。前述の宝永地震と安政南海地震(1854年12月24日、M8.7程度)の津波による犠牲者を弔うものだ。碑文には、宝永地震で約60人、安政南海地震で3人が溺死したと記されている。
南伊勢町も南海トラフ巨大地震で甚大な津波被害が予測されている。内閣府の被害想定では、最大津波高22m(平均12m)、津波到達時間が最短で地震発生後8分だ。そして三重県全体としては、なんと最大で4万3千人もの死者が想定されている。特に海沿いの低地では、大地震が発生したら即座に高台へと避難しないと、津波に呑まれて命を落とすことになるだろう。
・ 「浅川観音堂石段 津波襲来地点石標2基」(徳島県海部郡海陽町)
四国で津波碑がとりわけ多い徳島県海部郡海陽町にある9件のうちの一つ。観音堂に至る石段に、安政南海地震(1854年12月24日、M8.7程度)と昭和南海地震(1946年12月21日、M8.0)による津波が、どの段まで達したかを示す石標が建てられており、安政は海抜6.4m、昭和は4.1mまで達したことがわかる。
碑文縁起には、「自分の目線をその位置に合わせ、石段反対側の家の高さと比べて下さい。津波の恐ろしさが実感できるはずです」と記されている。2つの時代の津波が、どの高さまで達したかを体感できる仕組みとなっており、後世の人々に防災の重要性を訴えかけている。内閣府発表の南海トラフ巨大地震の被害想定では、徳島県全体で最大3万1千人の死者が想定されており、津波到達時間は最短で地震発生後6分。即座に避難しなければ、間違いなく命はないだろう。
■今こそ“祖先からのメッセージ”に耳を傾けよ!
このように、「寺社・石碑データベース」は津波被害に関する貴重な歴史的記録となっており、読者も防災のためにぜひ参考にしていただきたい。もちろん、ここに登録がないからといって、その地域が安全だとは限らない。過去にあった津波碑が流されてしまっている可能性も否定できないからだ。なお、一般の人々もデータを登録できるシステムになっているので、近所に同様の津波碑や遺物があれば、ぜひ登録していただきたい。
とりわけ近畿地方や四国の津波碑は、いつ起きてもおかしくない南海トラフ巨大地震に備えるため、大いに活用すべきだ。東日本大震災では、被害の大きかった岩手・宮城・福島3県の犠牲者のうち90%以上が水死、また65%が60歳以上の高齢者だった。津波から逃げ遅れて亡くなった人々が実に多い。しかも、南海トラフ巨大地震は津波到達が極めて早いとされているため、直ちに避難することは必須。これまで以上に、津波碑に込められた“祖先からのメッセージ”に耳を傾けることの重要性は高まっていると言えるだろう。
参考:「寺社・石碑データベース(大阪・国立民族博物館)」、「朝日新聞」、「南伊勢町 地域防災計画」、ほか
※当記事は2018年の記事を再編集して掲載しています。