「天誅」の開始と武市半平太、攘夷別勅使の派遣の決定、随行員の選別を任された武市の動向
2025年5月14日(水)6時0分 JBpress
(町田 明広:歴史学者)
天誅の開始と武市半平太
文久2年(1862)7月20日、島田左近が暗殺された。島田は、九条家に仕えて大老井伊直弼の腹心長野主膳と協力し、関白九条尚忠を親幕府派に転向させ、一橋派の探索や和宮降嫁の画策に従事した。そのため、即時攘夷派から憎まれ、薩摩藩の田中新兵衛らに暗殺されて四条河原に梟首された。この暗殺こそ、天誅のスタートと位置付けられる。なお、武市半平太は本件には無関係であったが、事後に肯定的な意見を述べている。
閏8月20日、本間精一郎が暗殺された。本間は、勘定奉行川路聖謨の中小姓となり、川路に従って京都に行き、諸国の尊王志士と交流したが、その言動が同志の反発を招いて暗殺された。武市が初めて直接指揮をした天誅で、土佐勤王党のみで実行した。四条河原に梟首し、傍らの木札に「薩長土之三藩ヲ様々讒訴に及び、有志之間を離し、姦謀相巧、或は非理の貨財を貪り」と、罪状を墨書した。
閏8月22日、宇郷重国(玄蕃頭)が暗殺された。宇郷は、九条家の家臣として島田左近とともに、京都で反幕府勢力の弾圧に関与し、和宮降嫁工作など公武合体策の推進のために暗躍した。そのため、即時攘夷派が大いに憤激し、京都九条家下屋敷内の居所で殺害され、松原河原に梟首された。この暗殺は肥後藩志士ら5、6人の犯行であることが有力だが、武市は何日も前に相談を受け、指揮は執らないものの、この天誅の相談役になった。
武市による天誅の継続
文久2年閏8月29日、目明し文吉が暗殺された。文吉は、養女を島田左近の妾にして羽振りを利かせ、安政の大獄で水戸藩士鵜飼幸吉ら多くの志士逮捕に活躍したため、多額の報奨金を獲得した。さらに、それを元手として高利貸や妓楼を経営しており、即時攘夷派に激しく憎まれた。高倉押小路の居宅を襲われたが、暗殺者は斬首すれば刀が穢れるとして、荒縄で絞首して翌日に三条河原に梟首したのだ。土佐藩の清岡治之助・阿部多司馬・岡田以蔵によって殺害されており、武市半平太が指示した可能性が高いとされる。
9月23日、京都町奉行組与力渡辺金三郎、同心大河原重蔵、与力格同心森孫六、同心上田助之丞らが江戸に呼び返される途中、江州石部の宿で暗殺団により殺害された。武市の指示により、土佐藩の堀内賢之進、岡田以蔵、弘瀬健太、清岡治之助、平井収二郎、山本喜三之進ら12名、長州藩の久坂玄瑞、寺島忠三郎ら10名、薩摩藩の田中新兵衛ら2名、合計24名が手分けして4軒の旅宿を襲撃した。
その斬奸状には、長野主膳や島田左近といった大逆賊に与し、諸奸吏らと心を合せて古来未曾有の国体を醸し出し、少しでも国事を憂いる者がいれば、ことごとく無実の罪を着せて死罪や流刑などの厳罰に処している。こうした悪賢い計略を思い通りにしようとすることは、まったく受け入れ難い罪状であり、一々枚挙にいとまがない。よって、天戮(天誅)を加えるのだ、と記している。
攘夷別勅使の派遣の決定
武市の当時の構想は、山内容堂の入京および攘夷督促のための勅使の江戸派遣であった。攘夷別勅使は前回述べた藩主豊範の名で朝廷へ出した建白草案(文久2年閏8月)に既に記載されており、その実現に向けて奔走したのだ。武市が中心となり、具体的には姉小路公知および土佐・長州両藩を主体に模索した。当初は、中川宮(青蓮院宮)・薩摩藩は必ずしも積極的ではなく、9月13・15日、姉小路は宮を訪問し、攘夷別勅使の派遣を迫ったが、宮はきっぱりとその要請を拒否している。
9月16日、姉小路が武市に引篭りを示唆したため、武市らは中川宮に半ば強引に迫って攘夷別勅使派遣の同意を獲得した。その上で、土佐・長州・薩摩の3藩士会談の結果、派遣建白に至ったと推察する。この判断の背景として、当時、中山忠光を中心とする即時攘夷派による、四奸二嬪排斥への徹底した圧力から朝議が動揺しており、彼らの主張する攘夷別勅使派遣は無視できないレベルだったのだ。
あわせて、政治総裁職松平春嶽が開港説に転向したとの風聞があり、その点からも早期の攘夷別勅使派遣が必要と判断された。薩摩藩は、生麦事件やその後のイギリスとの関係の推移から、攘夷実行を渋るわけにもいかず、歩調を合わせたものの、島津久光の許可を得る時間的余裕はなかった。在京薩摩藩士が3藩主連名での建白書に同意できたのは、久光の名代的存在・中川宮の賛意があったからに他ならない。
攘夷別勅使の選任と武市の動向
文久2年9月18日、関白近衛忠煕から薩摩藩士藤井良節を介して、攘夷別勅使は正副体制を止めて、姉小路公知だけにしてはどうかと、中川宮に打診があった。20日に至り、正使には三条実美、副使には姉小路とすることを、薩摩藩から近衛関白に言上があり、そのように決定を見た。中川宮が藤井に指示をして、即時攘夷派廷臣の急先鋒である姉小路のみの派遣を阻止し、まだ、この段階では中川宮派であった三条実美を正使、姉小路を副使とするよう関白に建言させて実現したものである。
武市は、随従する同志を選別し、島村衛吉・小笠原保馬・岡田以蔵・久松喜代馬・阿部多司馬・多田哲馬・森助太郎ら土佐勤王党員の約20人を指名した。形式的には、三条家と姉小路家の家来としての江戸下向であった。武市は、副使・姉小路家の雑掌という身分の高い役職を得て、柳川左門と称した。武市は、巨大な棒で担ぐ高級駕籠に乗っており、公家の重臣として家来が6人も付随した。
正・副勅使の家来とされた土佐勤王党員は、衣の下を鎖帷子で固める勇ましい格好で、三条・姉小路を隙なく護衛した。その雄姿について、三尺朱鞘をさして肩で風切る姿は、「土佐の長柄組」と吹聴され恐れられた。ビジュアル的にも、威厳を醸し出そうとしたようだ。
一方で、世の中の不正を糺そうとする土佐勤王党の決意の反映から、一行の行動に対する取り締まりも厳しく、これまでの公家通行時の悪習だった賄賂・音物(贈り物)を厳禁した。日頃から、助郷に苦しむ村々が歓喜して、東海道筋の品川宿から平塚宿まで8ヶ所の問屋が土佐藩へ連名で感謝状を出すほどであった。武市は、民衆を味方にしたのだ。
次回は、攘夷別勅使の江戸到着後の動向、また、土佐・長州両藩に亀裂が入った梅屋敷事件の実相を、その間の武市の動向とともに明らかにし、さらに、土佐勤王党の弾圧の萌芽となる間崎哲馬・平井收二郞らの「密策」について、詳しく述べてみたい。
筆者:町田 明広