島津斉彬の対外認識と政略、アヘン戦争による日本への衝撃と琉球問題をどう乗り越えたのか?

2024年5月15日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)


アヘン戦争の衝撃と撫恤政策への転換

 天保11年(1840)、清(中国)とイギリスとの間でアヘン戦争が勃発した。天保13年(1842)年8月、イギリス軍に大敗した清は南京条約を締結させられた。これによって、清は広州や上海など5港の開港、香港の割譲、1200万両の賠償などを強いられ、中国分割の起点とされる事態に追い込まれたのだ。

 東アジア最大の国家であり、盟主とも言える清の惨敗は、日本人の為政者・知識層を過剰なまでに刺激した。その結果、植民地化の危機を深甚に意識することに直結した。一方で、 幕府はその事実の隠蔽を企図し、国内での動揺を抑えようと努めたが、思うようにいかなかった。島津斉彬は、琉球を通じて独自にその詳細を熟知した。

 ところで、アヘン戦争の3年前、天保8年(1837)にモリソン号事件が勃発していた。浦賀に来航した米国商船モリソン号に対し、浦賀奉行所が外国船打払令に従って砲撃を加えた。その後、薩摩藩の山川港に来航し、ここでも薩摩藩主島津斉興の命令で威嚇砲撃を加え、退去させたのだ。

 しかし、モリソン号来航の目的が日本人漂流漁民の送還であったにもかかわらず、砲撃したことへの批判が巻き起こった。さらに、アヘン戦争での清の惨敗や、イギリス艦隊の来航の情報に驚愕した幕府は、天保13年に遭難した船に限り、食料・薪水提供を認める天保薪水給与令を発令した。

 漂流して食物や薪水が乏しい場合には、相応に与えて帰国させる撫恤政策に舵を切ったことになる。そもそも、撫恤とは「あわれみいつくしむ」ことであり、本来の鎖国政策からは、だいぶ後退することになったのだ。


琉球問題の発生

 この時期、薩摩藩が実効支配する琉球も世界情勢の影響を受けざるを得なかった。天保14年(1843)、イギリス艦サマラン号が琉球の拒絶にもかかわらず、八重山諸島に上陸して測量を実行した。また、同15年(1844)、フランス艦アルクメーヌ号が那覇に来航し、通商・布教を要求した。琉球は拒否したものの、フランスは神父フォルカードと通訳を強引に残留させた。

 弘化3年(1846)、那覇に来航したイギリス船はイギリ皇帝の命令として、宣教師のベッテルハイムとその家族を無理やり居住させた。これ以降、毎年のようにイギリス・フランス船が琉球へ来航し、通商を要求し続けた。

 この事件を重く受け止めた薩摩藩・斉興は、これを契機に長崎のオランダ商館へ積極的に情報を提供したり、また情報を入手したりという、独自の対外政略を展開したのだ。


斉興の琉球問題への対応

 天保15年、薩摩藩はアルクメーヌ号事件について、幕府に事件の詳細を報告した。調所広郷を責任者とし、幕府の指示に従い琉球に警衛兵を派遣した。翌16年には、幕府に無断で警衛兵の数を減らし、その事実を秘匿した。

 弘化3年、イギリス・フランス船が来航したため、今回も斉興は幕府にそのことを報告し、その指示に従って警衛兵を琉球へ派遣した。しかし、調所は斉興の了解の下、またもや警衛兵の数を水増して報告した。その際、斉興は警衛には限界があるとして、フランスの要求通り、通商開始を一部認めることを幕府に建言したのだ。

 その建言に接した老中阿部正弘は、当時アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルへの対応で忙殺されていた。そのため、琉球についての対応は薩摩藩に委ね、一部通商を黙認する決定すらしていた。その後、警衛兵の水増し工作が表面化したため、加えて、キリスト教の布教に否定的な琉球側の強い反対も相まって、フランスとの通商は結局のところ実現しなかった。

 斉興は警衛兵の水増しを容認するなど、琉球問題には消極的であり、この後に登場する斉彬に比べると、対外認識はやや甘かったように見える。しかし、当時の斉興の主たる政治課題は、財政の再建であった。調所の改革が成功を収めつつあるこの段階で、先が読みにくい外交課題に必要以上の財政的手当を施すことは、事実上不可能であったのだ。むしろ、斉興は穏便な方法を選択したとも言えよう。


斉彬の対外認識・政略とは

 斉彬は斉興の世子にもかかわらず、阿部老中の強い推薦もあり、弘化3年6月、琉球問題を処理するために鹿児島入りを命じられた。しかし、斉興・調所の妨害に遭い、簡単に対策を講じることはできなかった。これを契機に、斉彬自身も薩摩藩の対外認識に強い危機感を覚え、これ以降、薩摩藩の対外政略をめぐって、斉興・調所と対峙することになった。

 ここで、斉彬の対外政略はどのようなものであったのか、明らかにしておこう。最初に、ペリー来航時、阿部老中からの諮問に対する建言書(嘉永6年(1853)7月29日付)を見たい。

 アメリカは日本が鎖国をしていることを承知の上、押しかけており、国是(国の方針)が鎖国であることを申し渡しても、一通りでは承知するはずもない。打ち払おうとしても、海防が手薄なこの段階では、必勝は覚束ないと断言する。

 しかし、来年の再来の節に直ちに要求を拒否すれば、戦端を開くことになるかも知れず、可能な限り、再来の時期を引き延ばす交渉をした上で、今回は帰らせ、その間に海岸の防御に専心することが肝要である。3年ほど引き延ばせれば、諸藩の武備充実は必ず実現し、元来日本人は勇壮な気質なので、打ち払いを仰せ付ければ、必勝の策略はいくらでもあると主張したのだ。

 次に、安政5年(1858)5月の建言書を確認したい。

 現状の武備では外国には敵わないとして、「富国強兵」を推し進め、早急に大砲・砲台・軍艦を整えるべきであると主張する。一方で、現状の武備ではまったく西欧諸国と互角に戦うことなど叶わないとの認識に立ち、過激な攘夷論を「無謀の大和魂の議論」として忌避する。斉彬は、リアリズムを持った現状分析から導き出した、積極的な開国論を展開したのだ。

 斉彬は、武備充実を図るための富国強兵論を声高に主張し、その背後にはアヘン戦争に敗れ、植民地化への道をたどる清の二の舞を何とか阻止しようという、強い願望が見て取れる。その脅威は既に琉球を覆っており、我が国が欧米列強に飲み込まれてしまうという、強烈な危機感を示したのだ。

 その主張は未来攘夷そのものであり、冷徹に現実を直視した結果、積極的で過激な攘夷論を一時凍結し、むしろ通商条約を容認する立場を取った。その利益をもって海軍を興し、十分な戦闘・防衛態勢を整えた上で大海に打って出るとしながらも、欧米列強には敵わないこの段階で、唯一導くことができた未来攘夷を志向したのだ。

 次回は、斉彬と異母弟の島津久光との間で起こった、次期藩主の座をめぐる嘉永朋党事件(高崎崩れ・お由良騒動)の真相はどうだったのか、また、斉彬と久光との本当の関係はどのようなものであったのか、大胆に切り込んでみたい。

筆者:町田 明広

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