芥川に「老獪な偽善者」と批判された島崎藤村、姪との不倫を赤裸々に綴った小説は「自然主義文学」といえるのか?

2024年5月17日(金)8時0分 JBpress

姪・こま子を妊娠させ、フランスに逃げた藤村は、『桜の実の熟する時』を書いたのち帰国します。そして主人公と姪の不倫を書いた告白小説『新生』を発表するのです。世に言う「新生事件」として世間を騒がせた藤村。自然主義文学はなんでも洗いざらい書けば許されると思っているとしたら大間違いです。

文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美)


懺悔すれば許されるのか

 前回を読んでいただいた方は、藤村は純粋でシャイな人物のように思うかもしれませんが、その実態は違いました。

『桜の実の熟する時』でも藤村は若い頃の不幸な恋愛経験を吐露しましたが、自然主義文学だからといって、洗いざらい書けばいいというものではありません。

 明治の後半になって興った自然主義という文学運動は、人間の生活を直視し、ありのままの現実を飾ることなく描写するというものですが、二葉亭四迷などは「近頃は自然主義とか云って、なんでも作者の経験した愚にも附かぬ事を、聊(いささ)かも技巧を加えず、有(あり)の儘に、だらだらと、牛の涎(よだれ)のように書くのが流行(はや)るそうだ」と明治40年の連載小説『平凡』に書き、批判的な目を向けていました。

 藤村と並んで自然主義文学の代表作とされる田山花袋の『布団』も、実体験に即して中年作家・竹中が美しい弟子の芳子に恋心を抱き、嫉妬にかられる様子を赤裸々に描いた作品です。芳子の使っていた布団と夜着の匂いを嗅ぐシーンは、今だったら変態扱いでしょう。なんでもかんでも事実を書けばいいというものではありません。

 藤村の場合、キリスト教徒だったということも影響していると思います。

 キリスト教では自分の罪を悔いて告白する「懺悔」をすることで、罪を許され、救いになります。洗いざらいすべて明かして、懺悔のような気持ちで綺麗な世の中を作っていくんだという、理想的な世界を藤村は求めているように思えますが、実は小説のモデルとなった輔子や恒子、こま子など、他人の苦労を何とも思わない、ずる賢いところがありました。

 作家になってからも「僕はこんなに惨めなんだ」と女性を油断させておいて、「ねえ、慰めて。僕の奥さんは体が弱くて何もしてくれないんだよ」というようなことを言って女性に言い寄り、ついには妻が死んだ後、その寂しさから家事を手伝いに来ていた21歳の姪のこま子に手を出すのです。この時藤村は41歳。そしてこま子が妊娠したことがわかると「これはヤバい!」と、自分だけフランスに逃げるという、とっても卑怯な男だったのです。

 そして大正5年(1916)7月に帰国すると、その2年後にこま子との一部始終を描いた『新生』第1部を発表(第2部は1919年8〜10月)しました。登場人物の岸本捨吉が藤村、節子がこま子です。節子が岸本に妊娠を告げる場面は次のように描写されています。

 ある夕方、節子は岸本に近く来た。突然彼女は思い屈したような調子で言出した。

「私の様子は、叔父さんには最早(もう)よくお解(わか)りでしょう」

 新しい正月がめぐって来ていて、節子は二十一という歳(とし)を迎えたばかりの時であった。丁度二人の子供は揃(そろ)って向いの家へ遊びに行き、婆やもその迎えがてら話し込みに行っていた。階下(した)には外に誰も居なかった。節子は極く小さな声で、彼女が母になったことを岸本に告げた。

 避けよう避けようとしたある瞬間が到頭やって来たように、思わず岸本はそれを聞いて震えた。思い余って途方に暮れてしまって言わずにいられなくなって出て来たようなその声は極く小さかったけれども、実に恐ろしい力で岸本の耳の底に徹(こた)えた。それを聞くと、岸本は悄(しお)れた姪(めい)の側にも居られなかった。彼は節子を言い宥(なだ)めて置いて、彼女の側を離れたが、胸の震えは如何(いかん)ともすることが出来なかった。すごすごと暗い楼梯(はしごだん)を上って、自分の部屋へ行ってから両手で頭を押えて見た。

   島崎藤村「新生(上)」(新潮文庫)

 娘ほど年齢の離れた女性の妊娠を知って、大の大人がこんなに動揺するものでしょうか。


『新生』のその後の人生

『新生』で姪との衝撃的な関係を新聞紙上に発表した藤村は、その後の展開も小説の中に告白していきます。

 小説では主人公の捨吉が渡仏中、姪の節子は男子を産み、3年後に捨吉が帰国すると再びふたりは関係を持つようになります。そして捨吉は節子との関係を公表して世間の裁きを求めようと長編小説を書き始めるのです。捨吉の兄であり節子の父・義雄は捨吉との絶縁を宣言し、長兄の民助とともに節子を台湾へ行かせます。藤村とこま子も小説と同じでした。

『新生』の最後は節子が台湾に向かう日、節子が残していった球根を捨吉が土に埋め、「節子はもう岸本の内部(なか)に居るばかりでなく、庭の土の中にもいた。」という文章で締めくくっています。捨吉は「新生」は約束されたと思うのですが、なんとも都合のいい話ではないでしょうか。

 藤村とこま子のその後の人生はというと、藤村は昭和3年(1928)、56歳の時に24歳年下の編集者・加藤静子と再婚し、初代日本ペンクラブの会長にも就任、太平洋戦争中の昭和18年(1943)8月22日に永眠します。

 一方のこま子は台湾から帰国すると従姉妹を頼って上京し、自由学園を経営していた羽仁家で住み込みの炊事婦となります。その後も家政婦や寮母など職を転々として、10歳年下の学生共産党員・長谷川博と結婚、娘を産みますが離婚し、昭和12年(1937)、行路病者として巣鴨の養老院に収容され新聞を賑わせました。その時すでに静子夫人と再婚していた藤村は50円の見舞金を送ったそうです。


芥川は「老獪な偽善者」と批判

 芥川龍之介は『或る阿呆の一生』のなかで「『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出会ったことはなかった。」と非難しています。「老」は「経験を積んだ人」という意味で、「獪」はケモノのようにずる賢くて悪賢く、しかも手が早いことをいいます。

 懺悔してしまえば許してくれるというような文学は、芥川が目指した文学とは全く違います。林真理子さんのように読者を楽しませるエンタメだと思って書いているのならいいのですが、それが自然主義だと、自分たちは正しいことをしてると信じきっているのでなおいけないのです。太宰治はみっともない自分、駄目な自分を洗いざらいをさらけ出すことでお金を稼ぎました。ですから太宰の作品も僕はエンタメだと思います。

 ありのままに洗いざらい全部書く。それは文学ではありません。書くのはいいけれど、小説にするな、SNSに上げるな、と言いたいです。

 こんなふうに藤村について書いてきましたが、実は私、藤村が結構好きだったのです。特に評価しているのが旧家の没落を描いた『家』(明治44年)という、藤村の悪いところを突き抜けた作品です。

 藤村は明治5年(1872)、岐阜県に本陣、問屋、庄屋を兼ねる旧家に生まれます。江戸から明治になって身分制度が廃止され、庄屋だった家を守っていくのも大変でしたし、小作人たちとどう接していいのかも藤村はわからなかったのです。

『家』では、自分たちが置かれていた身分制度のなかで、その良くないところや封建主義的なところを描き出しています。そして結局自分もそういう価値観から抜け出せなかった。自分はどう人と対処していいのかもわからなかった。そのことに気がついて、プルーストの『失われた時を求めて』と同じ境地に辿り着くのです。

「失われた時」というのは、自分を育てた時代のことです。江戸末期から維新が興って家長である父親が悩んでいる姿を藤村は見てきました。父の姿を見ながら自分はキリスト教に目覚めて、若い時には「ちゃんとした世界を作らないといけない」という理想に燃えていたけれど、でも本当は誰も自分を相手にしてくれなかった、自分は最低な人間だということを認めた作品だと思います。

 こんな逸話があります。藤村は担当編集者に対してとても腰が低かったそうです。玄関までお見送りして「どうぞよろしくお願いいたします」と言って、編集者が帰るまで頭を下げ続けたのです。

 庄屋の出のため、自分たちができないことを小作人たちがやってくれたということがあるので、本を作ってくれる人に対して感謝があったんだと思います。優しい人だったとは思います。

『家』を書いた年に妻・冬子が亡くなり、こま子が家事手伝いとしてやってきます。その後、『桜の実の熟する時』や『新生』で、洗いざらいなんでも書いてしまったのですが、筆力もあり、すごい感性をもった藤村は、「小説」ではなくトーマス・マンのような深みと哲学をもった「大説」が書けたはずだったと私は思っています。

筆者:山口 謠司

JBpress

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