「生き始めた最初から、すでに大仕事」恐山の禅僧が説く<後ろ向き人生訓>とは?大事なテクニックは「過去」と「正解」を捨てる決意

2024年5月16日(木)12時30分 婦人公論.jp


(撮影:新潮社)

厚生労働省が行った「令和4年 国民生活基礎調査」によると、悩みやストレスの原因として最も多く回答されたのは「自分の仕事」、次いで「収入、家計、借金等」だそうです。人生には数多くの「苦」があるなか、「生きているだけで大仕事。『生きることは素晴らしい』なんてことは言わない」と話すのは、恐山の禅僧・南直哉さん。今回は、南さんが説く、心の重荷を軽くする人生訓を自著『苦しくて切ないすべての人たちへ』より、一部お届けします。

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後ろ向き人生訓


恐山にいると、地元の学校などから学習や行事に協力するよう求められることがある。

先だっても、知り合いの先生から電話があって、「〈総合学習〉の一環で、恐山を調べたいという生徒がいるんですが、協力してくれませんか」

その日は恐山にいるので、境内を案内して質問に答えることくらいはできると言うと、当日、先生に引率されて10人くらいの生徒さんがやってきた。

さすがは、「学習」で来ているので、下調べがしてあるらしく、案内する私の話を熱心に聞いてくれ、質問も的確で、感心してしまった。

その案内が終わりに近づいた頃、それまで列の最後尾にいた先生が、いつの間にか追い付いてきて、肩が並んだ私に話しかけてきた。

「南さん、お忙しいところ申し訳ないが、最後に生徒たちに何か少し話をしてくれませんか。元気そうに見えても、やっぱり色々抱えている子も多いんです。家のこととか、友達関係とか。何か励ましというか、きっかけになる言葉をかけてくれませんか」

「だったら先生、話を僕に全部任せますか? 僕は夢だの希望だの、努力は報われるだの、前向きのことは一切言いませんよ。子供の頃、それこそ夢も希望も枯れ果てたような中年オヤジが、卒業式なんかで押しつけがましい訓示を垂れるのに、ホトホト辟易してきた自分です。本当にそうだと思ったことしか言いません。それでよいですか? その後どうなっても、僕は一切責任をとりませんよ」

すると先生は即座に、「それで結構です! 言いたいことを言ってください!」

「では」と始めたのが以下の話である。

「生きているだけで大仕事」


僕は、「生きていることは素晴らしい」なんてことは、決して言わない。

そう思う人は誠に結構で、実際、楽しく嬉しく愉快な人生を送っている人は、実にめでたい。ただ、こういう人たちは、仏教などどうでもいいし、仏教の方も、彼らはどうでもいい。


『苦しくて切ないすべての人たちへ』(著:南直哉/新潮社)

仏教が手を伸ばそうとするのは、苦しくて切なくて悲しい思いをしている人たちで、その人たちのためだけに、仏教はある。もちろん、今は楽しく愉快にやっている者も、いつか一転、苦しさに喘(あえ)ぐこともあるかもしれない。その時は、仏教が役にたつこともあるはずだ。

しかし、多くの人たちは、喜怒哀楽は様々でも、おそらくは、いろいろなことを背負って、愉快なことよりつらいことが多い日々を生きているだろうと、僕は思う。だったら、仏教もそれなりに広く、世の中に必要とされるかもしれない。

そもそも、僕たちは誰も生まれようと決心して生まれてこない。生まれたい時に、生まれたいところに、気に入った親を選んで、生まれたいようには生まれてこない。

問答無用でこの世界に投げ出され、一方的に体と名前を押し付けられて、「自分」にさせられる。まさに不本意なまま、予(あらかじ)め人生は始まってしまっている。

これが重荷でなくて何が重荷と言うのか。もう生き始めた最初から、すでに大仕事になっているのだ。

その重荷を投げ出さず、今まで生きてきた事実だけで大したものだ。僕は君たちが生きてきて、恐山に来てくれたことに深く感謝する。そして敬意を表したいと思う。

「無駄な時間は大切だ」


もう君たちの年頃でも、「しなければいけない」ことで時間はぎゅうぎゅう詰めになっている。今しなければいけないことは、次にしなければいけないことに追われて、いつも「時間がない」、そう思うだろう。

違う。時間はある。「しなければならない」ことに塗り固められて、見えないだけだ。

だいたい、事の始めに「しなければならない」ことなどない。我々は生きる意味や目的や理由を知らない。それを知らされて生まれてこない。それを納得して、生まれたいと思ったわけではない。

そして、何かの役に立つために生まれてきたのでもない。生まれてきたら、役に立つこともあるにすぎない。ならば、最初に「生きなければならない」確かな意味も理由もあるわけがない。

これを言い換えれば、我々の人生の土台にあるのは、意味ある時間ではなく、無駄な時間である。役に立たぬ、無駄な自分である。我々はその無駄を発見し、無駄な時間を作るべきなのだ。

「**のため」の時間を解凍して、すべての「ため」を流してしまう。そういう「無意味な」時間こそが、我々の「始め」にはあったのだ。

僕が尊いと思うのは、その「無駄」をあえて受け容れる者である。受け容れて、意味を自前で作ろうとする人である。

あるはずだと錯覚した「意味」でスケジュールを切り刻んで走り回る人ではなく、そうではなくて、無駄で当たり前だと承知の上で、その人生を持ちこたえるために、あえて意味を創作する人である。

無駄を受け容れて、無駄の上に意味をおいて、謙虚に考える人に、僕は強く共感する。

「適当に生きよう」


では、無駄な時間を大切に、どう生きたらよいのか。適当に生きればよいのだ。

ただし、これは考えも無しに場当たりで生きて行けということではない。

「適当」は「適(かな)う」ことであり「当たる」ことである。ならば、何に「適い」「当たる」べきなのか。

それは、各々の「生きるテーマ」である。「夢」でも「希望」でもない。「テーマ」。

自分は何を大切に、誰を大事に思って生きるのか、それを見つけ出し、はっきりさせることが、「適当に生きる」第一歩だ。

自分の「適当」が分かれば、それ以外の余分は切れる。それまで「しなければならない」と思い込んでいたことの大半は、捨てられる。本来の「無駄な時間」が還ってくる。その時間を安易に塗りつぶしてはならない。埋めることを急いではならない。

「『仕方がない』も決心のうち」


適当に生きていようといまいと、この世には自分の力ではどうしようもないことがある。自分の責任ではないのに、行く道を阻む、どうにもならないことがある。だったら、それは「仕方がない」と思い切るのだ。

ギブアップするのではない。逃げるのでもない。とりあえずやり過ごし、切り抜ければよいのだ。そのためには、「なぜこうなってしまったのか」と過去にこだわり過ぎてはいけない。また、なんとか解決しようと執着してもいけない。

「仕方がない」は、「過去」と「正解」を捨てる決意なのだ。

我々は人生を自分で始めなかった。つまり、「仕方なく」生き始めたのだ。ならば、これからも「仕方なく」生きていけばよいし、「仕方がない」という決心は、我々が生きるための大事なテクニックだ。

受け容れ難いものを受け容れなければならない時、「仕方がない」と呟いて生きよう。それも確かな「勇気」なのである。

……などということを調子に乗って喋っていたら、おしまいに先生から、

「それ、色紙に書いてください」

え? 色紙? 今言ったこと、学校のどこかに貼るの!?

今まで何度後悔したことか、口は禍いの元。

※本稿は、『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮社)の一部を再編集したものです。

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