旅籠屋の飯盛女「宿場女郎」が宿泊客を誘うのは合法だった?江戸の街道と宿場の性事情
2025年5月19日(月)6時0分 JBpress
(永井 義男:作家・歴史評論家)
江戸の常識は現代の非常識? 江戸時代の庶民の生活や文化、春画や吉原などの性風俗まで豊富な知識をもつ作家・永井義男氏による、江戸の下半身事情を紹介する連載です。はたして江戸の男女はおおらかだったのか、破廉恥だったのか、検証していきます。
旅籠屋の飯盛女=宿場女郎
現代、家族旅行で観光地のホテルに親子連れが泊まったとき、ロビーに派手な格好で、けばけばしい化粧をした女性の一団がたむろし、男性客をさそっていたら、どうであろうか。
あるいは、男性が出張で駅前のビジネスホテルに泊まったとき、やはりロビーに女性の一団がたむろしていて、男性客をさそっていた。見ていると、チェックインをすませた男と話が付いたのか、ふたり連れで部屋に向かう様子である。こんな光景があれば、どうだろうか。
もちろん、風営法など各種の規制により、上記のような観光ホテルやビジネスホテルはあり得ない。もしあったとしたら、宿泊客は耐え難い気分であろう。とくに家族旅行など、「子供に見せたくないな」と、いたたまれない思いになろう。
中には、ひとりで出張の男性など、これさいわいと利用するかもしれないが(筆者もそのひとりかも)、全般には人々が嫌悪する状況であろう。
ところが、江戸時代にはごくありふれた、当たり前の光景だった。次に、くわしく見ていこう。
全国の主要な街道の宿場では、旅籠屋(はたごや)は飯盛女(めしもりおんな)を置くことを、幕府の道中奉行から許可されていた。
飯盛女は宿場女郎ともいい、要するに娼婦(売春婦)である。だが、道中奉行が認めているため、公娼だった。つまり、合法的な存在だったのだ。
飯盛女を置いた旅籠屋は、事実上の女郎屋(遊女屋)だった。
肝心なのは、飯盛女を置いた旅籠屋は本来、旅籠屋なので、普通の客も泊めたことだ。しかも、飯盛女を置いた旅籠屋のほうが、置いていない旅籠屋より高級だった。
公用の武士や商用の商人、寺社への参詣人らが泊まるいっぽうで、飯盛女が目的の男も多数やってきて、昼間から遊び、あるいは泊まった。
江戸にも飯盛女はいた。というのは、品川宿(東海道)、内藤新宿(甲州街道)、板橋宿(中山道)、千住宿(日光・奥州街道)の江戸四宿(ししゅく)は、あまりに江戸市中に近いため、宿泊する旅人はほとんどいない。
本来の旅籠屋業務だけではとうてい経営が成り立たないため、道中奉行に飯盛女を置くことを願い出た。
そして、品川は五百人、内藤新宿、板橋、千住はそれぞれ百五十人の飯盛女を置くことが許された。その結果、江戸四宿は宿場でありながら、江戸の男にとって手軽な遊里(売春街)となったのである。江戸四宿の旅籠屋はほとんど女郎屋と化した。
とくに品川は繫栄し、なにかにつけ吉原に比較されるほどだった。
図1は、品川の旅籠屋の光景である。旅籠屋の入口で、飯盛女が顔見せをしているではないか。
野放図だった街道の性事情
イギリスの外交官アーネスト・サトウは文久二年(一八六二)、横浜から江戸に向かう途中、品川宿を通過したときの印象を、その著『一外交官の見た明治維新』(坂田精一訳)の中で、次のように書いている。
さて、一行は途中別に変ったこともなく、色街(いろまち)で有名な品川の町はずれに到着した。家々の半ばが品のよろしくない建物、いや青楼(パレス)だと言ってよい。
図1のような光景を見れば、サトウが品川を遊里と思ったのも無理はない。しかも、彼の見たところ、品川宿の建物の約半分は女郎屋のようだった、と。サトウの観察と判断は鋭い。というのも、江戸四宿には飯盛女の上限が定められていたことを先述したが、実際には規定の倍以上の人数がいるのは公然の秘密になっていた。
とくに品川にいたっては、規定の三倍近い飯盛女がいたのである。天保期(一八三〇〜四四)、品川宿には飯盛女を置いていない旅籠屋が十九軒なのに対し、飯盛女を置いた旅籠屋は九十二軒だった。
図2は、画中に「追分宿の飯盛」とあり、木曽街道(中山道)の追分宿(長野県軽井沢町)の旅籠屋の光景である。
左の部屋は男ふたりの相部屋で、それぞれが飯盛女を呼び、割床(第六回参照)なのがわかる。いっぽう、右の部屋では、いかにも商用の旅らしい客が、女中に食事の給仕をしてもらっている。到着がおそくなったようだ。
その後、右の部屋の客は仕切りの襖越しに、二組の男女の情交の声や物音を聞かされたことになろう。だが、当時の男である。ごく当たり前のこととして受け止めていたろう。
「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子(かのこ)の振袖が」
という俗謡があった。その光景が図3である。
東海道の吉田宿(愛知県豊橋市)では、旅籠屋の二階の窓から飯盛女が体を乗り出し、通りを行く旅人に声をかけたのである。いわば、吉田宿の名物になっていたと言えよう。
しばしば、「江戸時代の性はおおらかだった」という言い方がなされるが、旅籠屋や街道の性事情を見ると、むしろ野放図と言ってよいような気がするのではなかろうか。
(編集協力:春燈社 小西眞由美)
筆者:永井 義男