『光る君へ』政権の座に就いた道長はなぜか「10年間無官」の為時を<最上格の大国>越前守に…まさかの大抜擢に対して広まった逸話とは
2024年5月20日(月)6時30分 婦人公論.jp
(写真提供:Photo AC)
現在放送中のNHK大河ドラマ『光る君へ』。吉高由里子さん演じる主人公・紫式部を中心としてさまざまな人物が登場しますが、『光る君へ』の時代考証を務める倉本一宏・国際日本文化研究センター名誉教授いわく「『源氏物語』がなければ道長の栄華もなかった」とのこと。倉本先生の著書『紫式部と藤原道長』をもとに紫式部と藤原道長の生涯を辿ります。
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疫病と道隆・道兼の死
伊周に完全に先を越された道長であったが、その転機は突然に訪れた。
疫病が蔓延していた長徳元年(995)、関白藤原道隆が4月10日、そして関白を継いだ藤原道兼も5月8日に死去した後を承けて、5月11日に、一条天皇は権大納言(ごんだいなごん)に過ぎなかった道長に内覧宣旨(ないらんせんじ)を賜わった。
こうして道長は、いきなり政権の座に就いたのである。
道長の同母姉で一条生母(国母<こくも>)である詮子(せんし)の意向が強くはたらいたとされる。
道長は6月19日には右大臣に任じられ、太政官一上(だいじょうかんいちのかみ)(首班)となって、公卿議定(くぎょうぎじょう)を主宰した(翌年には左大臣に上っている)。
道長にはこれ以降、とてつもなく忙しく、また諸所に気を使わなければならない日々が待っていた。
当時の公卿構成で、道長は伊周・隆家兄弟を除けば最年少だったのである。
ただし、詮子も一条も、それに道長自身も、この時点では、あれほどの長期政権になるとは考えていなかったはずである。
道長自身は病弱であり、加えて長女の彰子(しょうし)は幼少(長徳元年では8歳)、嫡男の頼通はさらに幼少(同じく4歳)となると、道長がつぎの世代にまで政権を伝えられると考えた者もいなかったはずである。
結局は定子(ていし)の兄である伊周に政権を担当させることになるであろうと、一条も考えていたことであろう。
為時の越前守任官
長徳2年(996)正月25日におこなわれた、つまり道長が執筆(しゅひつ。除目<じもく>の上卿<しょうけい>)を務めた最初の除目において、為時はじつに10年ぶりに官を得た。
この年の除目は大間書(おおまがき)という任命者の名簿が残っていて、越前守(えちぜんのかみ)に「従四位上源朝臣国盛(くにもり)」、淡路守(あわじのかみ)に「従五位下藤原朝臣為時」という名が明記されている。
為時は、この年正月6日におこなわれた叙位で従五位下に叙爵されていたのであろう。
通常、受領(ずりょう)の任官は申文(もうしぶみ)を提出して、そのなかから選ばれるが、10年間も無官で五位に叙されたばかりの為時としては、下国(げこく)の淡路守くらいが適当だと判断したのであろうか。
『紫式部と藤原道長』(著:倉本一宏/講談社)
ところが3日後の28日、国盛の越前守を停め、為時を越前守に任じるという措置が執られた。
『日本紀略)』は、「右大臣(道長)が内裏に参って、にわかに越前守国盛を停め、淡路守為時をこれに任じた」と記している。
これが信頼できる唯一の史料である。
『小右記(しょうゆうき)』の写本は正月後半は残っておらず、逸文は除目で伊周の円座(わろうだ)が取られていたことを記すのみ、『権記(ごんき)』はこの年は5月までの記事を欠いており、『御堂関白記(みどうかんぱくき)』はこの年はまだ本格的に記録されていない。
説話
この為時の越前守任命については、『続本朝往生伝(ぞくほんちょうおうじょうでん)』の第1話「一条天皇」や『今昔物語集』『古事談』『今鏡』『十訓抄(じっきんしょう)』に有名な説話が見える。
下国の淡路守に任じられた為時が嘆いて作ったという、「苦学の寒夜は紅涙(こうるい。悲嘆の涙)が袖(襟とも)を霑(うるお)し、除目の春の朝(あした)は(天を仰いで)蒼天(そうてん)が眼(まなこ)にある」という詩を見た一条が食事も摂らず夜の御帳で涕泣(ていきゅう)していた。
それを見た道長が、乳母子でもある越前守に任じられた源国盛に辞表を書かせ、為時を越前守に任じたというものである。
越前国は最上格の大国(たいこく)で、生産力が高く、京都からも近い熟国(じゅくこく)として、受領を希望する官人が多かったのである。
(写真提供:Photo AC)
この除目の直物(なおしもの。除目の訂正)において二人の任国が交換されたのは史実であるが、実際にはこのような事情で国替えがおこなわれたわけではなく、前年9月に来著(らいちゃく)して交易を求めていた朱仁聡(しゅじんそう)・林庭幹(りんていかん)ら宋国人七十余人(『権記』『日本紀略』)との折衝にあたらせるために、漢詩文に堪能な為時を越前守に任じたものとされる。
一条が詩文を好んだということや、文人を出世させるという一条「聖代」観から作られた説話であろう。
大抜擢
国替えを嘆いた国盛がそのまま死んでしまった(『続本朝往生伝』)というのも、まったく根拠のない話である。
為時が本当にこの詩を作ったのならば、「いつも除目の翌朝に、無念さから天を仰ぐ」という意味で、むしろ除目の前に作ったものであろう(もしかしたら淡路守を申請した際の申文の一節だったのかもしれない)。
『源氏物語』の「少女(おとめ)」巻で、光源氏が不遇の学者を抜擢して大学が繁栄し、これが聖代の象徴とされたという記述は、紫式部とその一家にも脈々と流れる希望を、舞台を醍醐(だいご)・村上朝に設定することによって物語世界に現出させたものであろう。
なお、為時が宋客羌世昌(きょうせしょう)に拝謁した後に贈った詩というのが、『本朝麗藻(ほんちょうれいそう)』に収められている。
そこでは、「言語は異にするとはいっても、藻思(そうし。詩や文章をうまく作る才能)は同じである」と言っている。
ともあれ、為時にとっては、思いも寄らない大抜擢なのであった。
※本稿は、『紫式部と藤原道長』(講談社)の一部を再編集したものです。
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