三島由紀夫はなぜ命を絶ったのか? ボディビル、結婚、続く災難…自衛隊駐屯地にたてこもり割腹自殺するまでの“最期の10数年”を振り返る
2025年5月25日(日)12時0分 文春オンライン
〈 「欠点は俺に惚れないことだ」出会った当時は16歳…美輪明宏が語る、三島由紀夫が自決の1週間前に持ってきた“100本のバラ”に隠された意味とは 〉から続く
今年1月14日に生誕100周年を迎えた三島由紀夫。1925年に生まれ、多感な10代の時期を戦時下で過ごした。20代の三島は戦後復興の中で次々と作品を発表し、30代で高度経済成長期を経験する。そして——。
45歳で割腹自殺した三島。その最期の10数年について、 『21世紀のための三島由紀夫入門』 (新潮社)から抜粋してお届けする。「昭和」と共に駆け抜けた三島の人生、その死が問いかけるものとは。(全3回の2回目/ 続きを読む )
解説=井上隆史
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肉体を鍛え、高みを目指したが…
病弱な幼少期を過ごし、自身の身体にコンプレックスを抱いていた三島は、昭和30年にボディビルを始めます。以後、ボクシング、剣道などを通して自分の身体を鍛えてゆく。

昭和31年は出版社系では初の週刊誌「週刊新潮」が創刊された年ですが、従来の作家像を裏切る三島のふるまいは、文芸誌のみならず、週刊誌・婦人誌などにも取り上げられ、世間の耳目を集めました。しかし、戦後社会を否定しようとする自分が、その戦後社会の寵児となるとは、何事であろう。三島のなかで、次第に微妙なバランスが崩れ始めます。
『近代能楽集』を翻訳出版していたニューヨークのクノップ社に招かれての渡米では、予定されていた同作の上演が頓挫し、残念な思いを抱いての帰国。「金閣寺」では個人を描いたから今度は社会を描くと、昭和33年3月から「鏡子の家」の執筆に取りかかるのですが、戦後社会を蝕む欺瞞と虚無を描いたこの野心作は、読者の共感を得られませんでした。
「金閣寺」のころには、戦後復興に無意識の違和感を抱いていた読者も、高度経済成長の波に乗って奔走することに明け暮れ、「鏡子の家」に込められた三島の叫びを聞き取ることができなくなっていました。また、「鏡子の家」に対する批判に、登場人物が作者の分身にすぎないというものがあります。なるほど画家の夏雄には作家三島が、拳闘選手の峻吉にはボクシングの経験が投影されています。大手商社の副社長の娘と結婚する清一郎のモデルもまた三島その人。
三島は昭和33年6月に、日本画家・杉山寧(やすし)の娘・瑤子(ようこ)と、明治記念館で華燭の典を挙げました。媒酌人は川端康成夫妻です。3月に母親の末期癌が疑われ(後日、悪性腫瘍ではないことが判明しますが)、早く安心させたかったため結婚を急いだという説があり、ニューヨークで「来年はきっと結婚するぞ」と語っていたともいいます。結婚の翌年には新居を建て、長女も生まれます。どんな家庭生活にも欺瞞はありますが、いわゆる“普通の結婚生活”を始めた作家にとって、現実社会のあらゆる欺瞞をも引き受けようとすることが、誠意の証だったのかもしれません。
災難に次ぐ災難
白亜の新居での生活を始めた翌年から、映画に出たり、写真集の被写体になったり、東京オリンピックを取材したりと、30代後半の三島は、精力的に活躍していたように見えます。しかし、実を言えば「鏡子の家」の酷評による精神的ダメージは大きかった。
次なる長編「宴のあと」は、元外務大臣・有田八郎にプライバシー侵害で訴えられます。日本で初のこのプライバシー裁判は、有田の没後和解に至るまで6年にも及びました。「鉢の木会」の仲間だった吉田健一が、有田の意を受けて仲介しようとしますが、不調に終わり、吉田との関係も悪化、「鉢の木会」脱会につながります。深沢七郎「風流夢譚」(ふうりゅうむたん、天皇一家が斬首される小説)の「中央公論」への掲載を推薦したのが三島だったとの誤解を受けて右翼から脅迫されたことも。
文学座が分裂し岸田今日子らが脱退、三島は再建に奮闘しますが、今度は三島自身が文学座を脱退することに——ひたすら災難が続き、日本社会と三島文学との断裂は、ますます大きくなっていきます。
〈私も二、三年すれば四十歳で、そろそろ生涯の計画を立てるべきときが来た〉と三島が考えたのは37歳の時。その40歳を迎えた年の6月に、「豊饒の海」の第1巻「春の雪」に着手します。西洋の大長編に匹敵するような世界文学を目指した三島は、4巻からなる物語の骨子として、輪廻転生と唯識(ゆいしき)を真剣に学びました。
輪廻は戦時中の空襲下で既に彼の中に芽生えていた死生観です。法相宗(ほっそうしゅう)の唯識では、個人的自我の奥に阿頼耶識(あらやしき)という「無我の流れ」を想定します。この識は常住ではなく、たえず生滅し、しかも間断がありません。現実世界とは、この流れの一滴一滴が顕現したもの。阿頼耶識が主体となり、水がたえず相続転起するように輪廻転生を引き起こす、と考えるのです。
「春の雪」の冒頭には日露戦争の戦死者を弔う写真が出てきますが、それは明治まで遡って日本の近代史を、そのように生じては滅ぶ一瞬一瞬の時の流れとしてとらえようとする「豊饒の海」の枠組みの提示であり、やがて訪れる自死を弔う象徴だったとも解釈できます。
「ノーベル賞なぞには興味がありません」
昭和元禄とも呼ばれる軽躁状態の中で、三島はひとり輪廻の観念をつきつめ、昭和とそれ以前の時代を、自己と社会を、どう結びつけるかという課題に向き合います。そこに、“文化概念としての天皇”が浮かび上がってくるのです。簡単に言い換えれば、それは死/滅びを、その都度その都度受け入れるからこそ連綿と続いてきた文化の総体を意味します。昭和41年には「人間天皇」に矢を放つ短編「英霊の声」を発表し、翌年に武士道を説く『葉隠(はがくれ)入門』を、昭和44年には政治論『文化防衛論』を刊行しました。
昭和43年10月、川端康成がノーベル文学賞を受賞します。三島も、この年を含めて計5回、同賞の候補に挙がっていたのですが、前年には「ノーベル賞なぞには興味がありません」と発言していました。天皇の人間宣言を糾弾することは、戦後社会の土台をひっくり返すことを意味しますが、そのような言動が受賞を阻んだ一要因であった可能性は否めません。そうと知りながら、彼は筋を通したのです。
三島は小説世界と現実世界との共振に向けて、大胆な一歩を踏み出します。現実を超える方法論と新たなヴィジョンを提示する小説を書くことと、言葉の介在しない世界で死を決意することは、切り離せぬものになってゆきました。
「楯の会」を結成、自決するまで
昭和41年秋頃から、祖国防衛隊を組織することを考え始めます。左翼学生運動に対抗する民族派「論争ジャーナル」の一派や、昭和41年に早稲田大学学生連盟の呼びかけで結成された日本学生同盟(日学同)のメンバーからスカウトした若者が、三島と共に自衛隊に最初の体験入隊をしたのは、「奔馬(豊饒の海・第2巻)」執筆の時期と重なっています。
その後、祖国防衛隊の構想を支持していた財界人との決裂もあり、三島はポケットマネーで昭和43年10月、「楯の会」を結成。翌44年10月21日の国際反戦デーには新宿で新左翼による大規模なデモが予測され、自衛隊が治安出動した場合は楯の会も参入するつもりだったのが、デモは機動隊によりあっけなく鎮圧されてしまう。死を賭して闘う機会は訪れませんでした。
自らの命を絶つことを具体的に決意したのと「天人五衰(てんにんごすい、豊饒の海・第4巻)」の結末を決めたのは同時期、昭和45年3〜4月頃と推察されます。小説の結末は、救済のヴィジョンを描く当初の構想とは異なり、バッドエンドに変わりました。それこそが、三島の眼に映る戦後世界の正確な病理診断だったのです。
11月25日朝、最後の原稿を家政婦に託すと、楯の会の4人——森田必勝(まさかつ)、小賀正義(まさよし)、小川正洋(まさひろ)、古賀浩靖(ひろやす)——と自衛隊市ヶ谷駐屯地に向かう。11時過ぎに益田兼利(ました・かねとし)東部方面総監を人質にとって総監室にたてこもり、自衛官を集めるよう要求しました。バルコニーから憲法改正のための蹶起を促す演説を約10分行った。その後、総監室で割腹。
介錯する予定だった森田は果たせず、古賀が実行。三島を追った森田の介錯も、やはり古賀が務めました。撒布された檄文にはこうありました。〈生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか〉。その死から半世紀を経た今なお、三島は私たちにこう問い続けているのです。
〈 「とにかく綺麗な人がいる」「隣に座っていられない」と言われて…出会った当時は17歳だった坂東玉三郎が語る、三島由紀夫の自決を知って感じたこと 〉へ続く
(平野 啓一郎,井上 隆史,「芸術新潮」編集部/Webオリジナル(外部転載))