「欠点は俺に惚れないことだ」出会った当時は16歳…美輪明宏が語る、三島由紀夫が自決の1週間前に持ってきた“100本のバラ”に隠された意味とは

2025年5月25日(日)12時0分 文春オンライン

 今年1月14日に生誕100周年を迎えた三島由紀夫。1970年、自衛隊市谷駐屯地に立てこもり割腹自殺をするまで、その生涯は「昭和」と共にあった。


 ここでは、様々な角度から三島やその作品を見つめた 『21世紀のための三島由紀夫入門』 (新潮社)より一部を抜粋。生前の三島を知る、美輪明宏さんの語りを紹介する。


 亡くなる1週間前に渡された、100本の薔薇の意味とは——。(全3回の1回目/ 続きを読む )



美輪明宏さん(写真=御堂義乘氏撮影)


◆◆◆


欠点は「俺に惚れないことだ」


 三島さんと初めて出会ったのは、私が国立音楽大学附属高等学校に通いながら、銀座の「ブランスウィック」でボーイのアルバイトをしていた16歳の時です。1階が喫茶店、2階がクラブになっているお店でした。三島さんはちょうど売り出し中の新人で、たしか出版社の方と一緒に2階にお見えになりました。それからほどなくして私が、やはり銀座にあったシャンソン喫茶「銀巴里(ぎんぱり)」の専属歌手になると、評判を聞いた三島さんが来てくださいました。


 年齢は私が三島さんの10歳下で、私は、三島さんにとっては、自分の人生で出会ったことのないものを発見した、そんな感じだったのでしょう。ちまたでは、恋愛関係にあったのではないかとも言われましたが、そのような関係ではありません。三島さんによると、私には95パーセントの長所と5パーセントの短所があり、その5パーセントが95パーセントを吹き飛ばしてしまうほどの欠点なのだそうです。


「そんなすばらしい欠点って、いったいなんでしょう?」とお尋ねしてみたら、「俺に惚れないことだ」とおっしゃった。「ごめんなさいね。私、立派な方はどんなにいい男でも恋愛対象にはならないんです。三島さんはお生まれといい、才能といい、欠点がなさすぎます。私はかわいそうな人が好きなんです」と言うと、「君は誤解をしているぞ。君と別れて、雨の日に傘をさしてひとり帰る俺の後ろ姿を見てみろ。ふるいつきたくなるぐらいかわいそうだぞ」とおっしゃるから、大笑いしました。ふたりでいるとそんな冗談ばかり言っていました。


100本の真っ赤な薔薇の意味


 忘れられないのは、亡くなる1週間ほど前のできごとです。私は日劇の11月の舞台に出ていて、休憩時間に楽屋の鏡の前で化粧をしていたら、部屋のちょうど反対側にある入り口が鏡に映り、暖簾の下からピカピカに磨いた靴、きれいにプレスされたズボンが見えました。私が気づくまで、長い間、そこに人が立っていたんです。カチンと頭にきて、「どなた?」と訊いたら、「三島です」と三島さんが入っていらっしゃった。なんと、100本か、それ以上もの真っ赤な薔薇を抱えきれないほど持って。


「どうなすったの?」と尋ね、アシスタントに頼んで持ってきてもらった3つのバケツに、その薔薇を入れました。それからひとしきり四方山話をしたのですが、私はなんだか胸騒ぎがして、「どうして私のような者と19年間もおつきあいくださったの?」と訊いたのです。


 三島さんはおっしゃいました。「俺には、大嫌いな奴がいる。膝の上にのぼってくるから頭をなぜてやると、いい気になって肩までのぼってきて、ほうっておくと今度は頭の上までのぼってきて、顔まで舐めだすような奴。そういう奴を俺は絶対に許さない。ところが君にはそういうところがいっさいなかったから、つきあえたんだよ」と。私は中学生時代に読んだ本で、荘子の「君子の交わり淡きこと水のごとし。小人の交わり甘きこと醴(れい、甘酒)のごとし」という言葉を知り、それを守って生きていました。君子の交わりは、さらっとして、踏み込んじゃいけないところには踏み込まない。「親しき仲にも礼儀あり、をモットーにしてきたので、うまくつきあえたのかもしれませんね」と話しました。


 そのうち私は舞台の出番になりました。三島さんは楽屋から出ていきながら、「もう僕は君の楽屋には来ないからな」とおっしゃった。私のコンサートにはよく来てくださっていたので、「どうして?」と訊いたら、ニッコリ笑って、「君は奇麗だったよって、心にもないお世辞を言い続けるのは辛いからね」。その後は、ステージに近い特別席に座り、眼鏡をかけてずっと見ていらして、私は「愛の讃歌」を歌いながら、悲しくもないのになぜか舞台の上で涙を流していたんです。三島さんの死を予感していたのかもしれません。後で考えてみたら、100本の薔薇は、「これから先の分もだよ」という謎々だったわけです。


ノーベル賞を取れなくて、がっかりしていた


 三島さんは一度、「スターの気持ちを味わいたい」と、私のリサイタルに出演されたことがありました。昭和41年のことです。そのため三島さんの家に1週間、毎日行って練習をしました。三島さん、初めは音痴だったのですが、直りましたよ。すごい意志の力。ふつう音痴は1週間では直りませんもの。


 リサイタル当日は、私より前に会場の日経ホールに到着されていて、パイプ椅子をいくつか並べてソファ代わりにし、その上に寝そべって、脚を椅子の背に預けておられた。そんなポーズのまま、「スターってなんて傲慢で、いい気持ちなんだろう。君はこういう気持ちをずっと味わっているんだろ? 贅沢だな」とおっしゃった。その場にいらした奥様が「この人ったら、さっきからずっとこれをやってるのよ」とあきれていらっしゃいました。


 三島さんは、右翼と言っても、心情右翼だったのだと思います。政治的な右翼には、経済的なことや利害関係がからんでくるでしょう? そういうこととはいっさい無縁の方でしたから。三島さんの右傾化は、心象風景なのです。戦前の少年みたいに、清く正しく美しくというモットーを真に受けて、そのまま大人になった、そういう人でした。文学も美術も、能や狂言、歌舞伎も含め、日本の素晴らしい宝物を誇りに思い、本当に日本を愛していらした。


 三島さんは右翼だからノーベル賞にふさわしくないなんてことを言う人がいましたね。結局ノーベル賞をお取りになれなくて、ちょっとがっかりしていらした時に、私が「なんですか、あんなもの! 爆弾作ってその罪滅ぼしのために作られた賞でしょ? 私だったら、あっちがくれるって言ったって、突き返してやりますよ」と言ったら、「君は強いね。どうしてそんなに強いんだ?」とおっしゃるので、「半分女だからですよ」とお返事しました。

〈 三島由紀夫はなぜ命を絶ったのか? ボディビル、結婚、続く災難…自衛隊駐屯地にたてこもり割腹自殺するまでの“最期の10数年”を振り返る 〉へ続く


(平野 啓一郎,井上 隆史,「芸術新潮」編集部/Webオリジナル(外部転載))

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