夫婦で貫いた妥協なきスピリット、下町にある「人が育つ」カフェ

5月25日(土)13時0分 週刊女性PRIME

『カフェ・バッハ』田口護・文子夫妻 撮影/伊藤和幸

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「いらっしゃいませ」

『カフェ・バッハ』のドアが開き、一歩足を踏み入れると、スタッフ全員からの心地よい挨拶とコーヒーの豊かな香りが迎え入れてくれる。

 18世紀ドイツで活躍したバロック音楽の作曲家、バッハをはじめとしたクラシック音楽を聴きながら、丁寧に抽出されたコーヒーと本格ドイツ菓子を楽しむ優雅な時間。カウンターの壁には自家焙煎豆がずらりと並び、磨き上げられた焙煎機が鎮座する。

■バッハが生み出したもの



 1968年、東京の下町、浅草からほど近い山谷(現・台東区日本堤)に開店し、昨年、開業50周年を迎えたカフェ・バッハ。山谷は戦後日本の復興を支えた労働者の町だ。東京五輪前には約1万5000人の日雇い労働者が集まった。現在は酔っ払いの姿も見られなくなり、観光地へのアクセスもよいため、外国人観光客が訪れる美しい町となっている。

 この土地で半世紀。地域とつながり愛されるカフェを営み、卓越した焙煎技術と開発にかける情熱で日本のコーヒー界を牽引してきた。それが、田口護・文子夫妻である。

 カフェ・バッハには毎週のように日本各地、そして海外から、視察が訪れる。焙煎技術や接客の極意を惜しみなく伝え、カフェの開業を目指す若者からも尊敬を集めている。田口夫妻の胸には「よいもの、正しいもの」を追求する妥協なきスピリットが、今なお燃え続けているのだ。

◇   ◇   ◇



 カフェ経営や焙煎技術の根底に流れる確固たる田口の哲学─味に妥協せず、誰もが美味しいコーヒーを安定して再現できる技術理論の確立─は、今やコーヒー業界で揺るぎない伝説となっている。その火つけ役でもあり、40年以上の付き合いになる山内秀文さん(69)は、当時、食に造詣が深い柴田書店の敏腕編集者だった。

「田口さんは、お会いしたころから非常に論理的でコーヒーに関する探究心がずば抜けていました。日本のコーヒー技術は'70年代から非常に高いレベルでしたが、'80年代に自家焙煎の技術を革新してベースを作ったのが田口さんです。先人の技術を分析して引き継ぎ、さらに論理を確立し洗練させていく。

 店を大きくするのではなく、職人を育てグループを作って焙煎技術を共有するシステムもバッハが生み出したものです。今やバッハから巣立った人たちが全国でカフェを経営しています」

 さらに、まだネルドリップが主流だったころ、家庭への普及を見据えてペーパードリップにいち早く切り替えたことも先駆的だった。

 日本のカフェの基準を変えたといっても過言ではないカフェ・バッハ。その原点は、妻である文子の実家が営む食堂だった。



■そうだ、カフェをやろう



 1945年8月。終戦からわずか6日後、疎開先の浦和で文子は生まれた。自宅は現在のカフェ・バッハの土地にあったが空襲で焼け、あたり一面、見渡す限りの焼け野原。戦後の混乱がおさまるのを待ち、父は「下総(しもふさ)」という食堂を営んだ。

 文子は早朝から夜遅くまで懸命に働く両親の背中をよく覚えている。母は店を手伝い、5人の子育てをしながら、近所の子どもを集めて茶道を教え、俳句や詩吟もたしなんでいた。文化的な人だった。

 幼少のころの文子はお転婆で、喧嘩に負けたことはない。男の子のようだと言われ、快活にのびのびと育った。

 父が体調を崩し、60歳で店をたたむと言ったとき、文子は20歳になっていた。当時、洋裁を学んでいたが、思うところあり、こう宣言した。

「お父さんが食堂をやめるなら、私がやる。お酒を出さないお店をやります!」

 戦後の高度経済成長を受けて、当時の山谷には日雇い労働者があふれていた。「ドヤ街」とも呼ばれた街に簡易宿泊所と立ち飲み屋が並ぶ。その日の仕事にあぶれ、日中から酔っ払った労働者たちを幼いころから見ていた。

「小中学生のころは山谷に住んでいることが恥ずかしかった。通学途中、道端に寝ている酔っ払いを見て、ぐうたらな人だと思っていたんです。私は本当に無知でした。戦争の犠牲になった人のことや歴史的な背景を知らずにそう思っていた。

 父の食堂でもそれまでお酒は出していましたが、私は、山谷に1軒ぐらいお酒を出さない店があってもいいじゃないかと考えたんです」

 父は「ブンコ(文子の愛称)がやりたいならいいよ」と快諾してくれた。「ブンコが1度言い出したら誰にも止められない」ことは、家族みんなの知るところだった。

「そうだ、カフェをやろう。お酒を飲めない人、若い人たちも集える場所を作りたい」

 一方、護は、大学時代からカフェへの憧れを抱いていた。文子の住む東京から遠く離れた街、北海道の札幌で護は生まれた。1938年、戦前の「産めよ増やせよ」の時代である。9人きょうだい、6男3女の末っ子。両親、兄、姉、家族みんなに可愛がられた。

「大学進学で上京すると、同級生はみな大人びていて、侃々諤々(かんかんがくがく)と議論していた。自分は何も知らない甘ったれだと思い知らされました」

 下宿先の下北沢でその後の人生を大きく変える運命的な出会いがあった。

「私は、ある有名な喫茶店に通い詰めていました。演劇や映画関係者、役者や芸術家を目指す人など、魅力的な大人が出入りして活気があった」

 護の指定席はカウンターの入り口近く。そこで、聞こえてくる会話に耳を傾ける。

「その店に集う人たちの人間としての資質、知識、会話の深さに感化され、その店の虜になりました」



■出会いから意気投合のふたり



 家からの仕送りは限られている。いつも店でいちばん安い60円の飲み物を頼んだ。それがコーヒーだった。しっかりとした味で美味しかった。「今月はちょっと苦しいな」とこぼした日、500円札で支払うとマスターが1000円札を差し出した。「持ってけ。仕送りが来たら返せ」

 60年たった今も、そのときのことを鮮やかに覚えている。

「マスターは人としての大きさがある方でした。よく話してくれたのは、“人を育成すること、人を育てることは非常に尊いことだ”ということ。その言葉どおりに、私のような甘ったれた学生に懐深く接してくれた。本や映画、人生のいろんなことを教えてくれた。あの店で過ごした時間が生きるベースとなりました。マスターと出会わなければカフェをやりたいと思わなかった。全く違う人生になっていたと思います」

 そんな文子と護が初めて出会ったのは北海道だった。文子23歳、護30歳のころである。

 横長の大きなザックを背負い、ひとりで北海道を訪れた文子は親戚の紹介で護を訪ねた。今でいうバックパッカー、当時の「カニ族」である。

「お袋を連れて一緒に北海道を案内したんです。そのときクラシック音楽の話になった。偶然、同じピアニスト、リヒテルの来日コンサートチケットを買っていることがわかって、意気投合しました」

 護は大学卒業後、家業のボイラー整備の仕事を手伝い、趣味でクラシックを楽しんでいた。いつかカフェをやりたいという思いも胸にある。バッハが好きで、札幌中のレコード店に「バッハ入ってる?」と聞いて回るため、店員から「バッハのおじさん」と呼ばれるほどだった。

 ふたりの会話は途切れることがない。結婚を決めるのに時間はかからなかった。文子は当時をこう振り返る。

「私、本当にハングリーだったの。お金が貯まれば服を買うより音楽に使っていた。“バッハのおじさん”と呼ばれているなんて、これは間違いないと思いました(笑)」

 護も文子に心惹かれていた。

「兄が音楽教師だったこともあり、集まると必ずみんなで歌う家族だったんです。ピアノを弾ける女性と結婚したいとよく言っていたので、兄に“文子ちゃんはピアノ弾けないけどいいの?”と言われました。私は“ピアノを弾ける人というのは、物理的なことじゃない。そういうものを愛でて尊いと思い、人としてかけがえのないハートを持っているかどうかだ”って言ったの。われながら、カッコいいこと言ったもんだよね(笑)」



 日本はサラリーマン全盛期だったが、ひとりでカフェを始めていた文子のもとへ行くことに、護はためらわなかった。文子の実家の姓「田口」を名乗ることも快諾した。

「みんながサラリーマンに邁進している時代だからこそ、自分たちの手で生きていくのが魅力的だと思った」(護)

 こうして、ふたりのカフェ人生が幕を開けたのである。



■コミュニケーションで人は変わる



「おーい、早く店を開けろ! バスが来ちまうだろ!」

 ある日、店のシャッターを叩く音で目が覚めた。

「寝坊した! 急げ!」

 カフェ・バッハの目の前のバス停を始発のバスが通るのは午前6時15分。日雇いの現場に向かう前、労働者たちがコーヒーで目を覚まし、トーストとゆでタマゴで軽く腹を満たす。朝食といえば以前は丼物が必須だったが、'64年の東京オリンピック後は現場に重機が入り始め、軽いものを好む労働者も増えていた。

 開店が午前6時を過ぎると始発のバスに間に合わないため、シャッターを叩いて起こされたこともあった。

「新婚のときも、朝5時半から夜11時まで働きました。オープンしてすぐコーヒーを出せるように準備して、午前10時前までは洗い物をする暇もないほどでした」(護)



 店内は屈強な男たちですし詰め状態。小柄な文子がカウンター、背の高い護がホールを担当し、男たちに「ちょっと通るよ」と声をかけてコーヒーを運んだ。店内に客は入りきらず、自転車の荷台がテーブルがわりになった。

「東京タワー作ったんだよ」

「あのビル、俺が資材を上まで運んだんだ」

 客の男たちは自慢げにそう教えてくれた。ふたりは東京の町を作る人たちの朝食を提供していることになる。「今日も元気に安全に仕事をしてほしい」という気持ちを込めてコーヒーを淹れた。

 一方で、「酔っ払い禁止」のルールは徹底して守り抜いた。店の入り口も工夫した。酩酊して足がふらついていると、入り口の段差につまずきドアにぶつかり「ドン」、ドアの開け方を間違い「ドン」と音がする。「ドンドン」が撃退の合図だ。入り口に飛んでいき、「酔っ払いはダメ」と繰り返し丁寧に伝えた。

 当初はタバコを床に捨てる客も多かった。そのたびに吸い殻を拾い、灰皿を差し出す。トイレは常にピカピカに掃除する。客は少しずつ店内を綺麗に使い、お互いに心地よく過ごせるようになっていった。

 仕事帰りの常連は、自ら腰につけた工具をはずして床に置き、「俺、ハゲてんだけどな」と笑って頭の手ぬぐいをはずすようになった。店の前でガラス越しに自分の服をつまんで何かジェスチャーをする。店を通り過ぎ、シャワーを浴びてから出直してくる客もいた。

「コミュニケーションで人は変わる。お客様と店員だって、お互いが協力し合って居心地のいい場所を作ることができる。そのためには美味しいものを出します。できることを精いっぱいやります。お互いに支え合う関係を作っていきたい。それが今のバッハを支える精神です」(文子)

「ママさん(文子)には本当に感謝しています。筋金入りの働き者で、どんなときも前向きに仕事をする。結婚したのか、仕事の相棒なのかわからないくらい(笑)。彼女のおかげで私も頑張れたのは間違いありません」(護)



■大きな転機、グランドハープとの出会い



 結婚した年にお互いの父親を亡くし、店の設備を整えるための資金援助や借金さえ難しい状況だった。

「最初の数年はふたりでなんとか頑張るしかなかったんです。目が覚めたら寝るまで仕事。寝る時間もわずかでフラフラだった。1日中コーヒーを淹れては洗い物。このまま仕事だけしていては心がやせてしまうと思っていたとき、音楽教師をしていた兄貴がアイリッシュハープをプレゼントしてくれました。ママさんはハープ、私は以前からやってみたかったフルートを始めました」(護)

 朝と夜は息をつく暇もないが、店が落ち着く日中は少し休憩を入れられるようになり、ふたりで音楽を楽しむようになった。店の改装のための資金も少し貯まったころ、またひとつ出会いがあった。

「オーケストラで使われるグランドハープが手に入る機会があって、貯めていた店の改築資金でなんとか買える。ご近所さんが、改築の保証人は引き受けるから買いなさいと背中を押してくれた。それは大きな転機でした」(護)

 1974年当時、352万円。店を始めたばかりの若い夫婦にとって身にあまる贅沢だ。

 親戚には「楽器を預かっている」と嘘をついた。

「昼休み、2階で47本の弦を1本ずつ調弦しました。静かに心を落ち着けて、ピンポイントで音を合わせていく。喧騒の中で働く私たちにとって大切な時間でした。コーヒー焙煎の煎りどめのタイミングと調弦は、深いところでつながっています。以来、調弦と同じ気持ちで焙煎をするようになりました」(文子)



 カフェ・バッハでは、1975年以来、年に1、2回、地元のクラシック音楽愛好家と店内コンサートを開くようになった。「地域の人たちと一緒に楽しめる音楽会を」と、「原住民音楽会」と名づけて始めたものだ。音楽が人をつなぎ、有名なプロの奏者を招いたこともある。

 さらに5年後、ふたりは45日間、店を閉め、旅に出た。クラシック音楽文化の源流を巡り、本場のカフェを見るためだ。ベルリンの壁が存在した東ドイツでバッハの墓参りをし、西ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア、チェコスロバキアを回った。

「大きな都市、田舎、さまざまなカフェを巡りました。どんなに寂しい土地でもカフェには賑やかで温かい人たちが集っていた。銀座に移転しないかという話をいただき検討したこともあったけれど、都市の中心地にこだわらなくていいと再確認できました。歴史と芸術の奥深さ、そして長く続く文化を支える“よいもの”を伝承する必要性など学ぶことは多かった。仕事にかじりついているだけではわからなかったと思います」(護)



■バッハの進むべき方向



 その旅を通して、ふたりは「人が集い、文化や芸術の拠点となるカフェの役割」を強く再認識する。「自分たちの暮らす場所を一等地にすればいい」「山谷を銀座にしよう!」を合言葉に、カフェ・バッハの進むべき方向を見据え、さらに突き進む。

 その後、定休日を利用して近現代の歴史を勉強する「バッハ会」も始めた。その会に大学生のころから参加していた冨田直樹さん(58)は、毎日のようにバッハに入り浸っていた。学生時代の田口さんを彷彿とさせる。

「当時はマスターがカウンターでコーヒーを淹れ、客に話しかけてくれました。常連には映画、音楽、歴史、それぞれに詳しい人がいて田口夫妻や彼らから多くのことを学びました。ときには生き方を問われ社会や世界を見る目も教えてくださった。お前、そんな考え方でどうするんだと厳しくやられたものです(笑)。マスターやママさんからの影響は本当に大きい」(冨田)

 バッハ会では6、7人の有志が集まり、月に1度、テーマを決めてコーヒーを飲みながら議論した。その経験は冨田さんの人生を変えた。

「大学入学当時は手堅く商社にでも勤めようと思っていたんです。でも、日本や世界の近現代の歴史を学んだことで40、50代の大半を教育支援を行う国際協力NGOに費やすことになりました」(冨田)

 向学心のある若者が集まり年長者も同じ目線で対等に議論をする。ときには人の人生を変え、そのひとりの動きが社会を変える力となる。まさに革命や文化の起点となったヨーロッパの本場のカフェのような存在となっていた。

 もちろん、カフェの軸となるコーヒーの味を研ぎ澄ますための技術の追求にも労をいとわなかった。欠点のある豆を1粒1粒取り除くハンドピックを極め、自家焙煎を始めたのは'72年のことだ。既製の焙煎機では微調整に納得がいかず、焙煎機まで共同開発するに至った。



「私は趣味で写真もやっていたので、カメラのシャッターの絞りや仕事量の調節への理解が、焙煎の理論構築にも非常に役立ちました。何キロ豆を入れるのか、どのくらい空気を入れるのか。ボイラー整備も写真も豆の焙煎も、それぞれに“物差しを持つ”ことが重要です。そうすれば、漠然とした感覚に頼るだけでなく、繰り返し誰もが再現できるようになる」(護)



■「日本のコーヒー」のために



 バッハの思いは編集者である山内さんを動かした。

「田口さんには自分の店やグループだけでなく、日本のコーヒー全体をよくしようという志がありましたから、雑誌への寄稿を何度もお願いしました。毎晩のように明け方までコーヒーについて語り合った時期もあります。睡眠不足でしたが、いい時間でした」

 護が「日本のコーヒー全体のために」という志を持ったのは、ある人物の影響が大きい。テレビからも出演依頼が来るようになり、自分ばかりが目立つようで気が引けていたとき、UCCグループの前会長、上島忠雄さんから諭された。

「田口さん、テレビに出ないとか言っているようだけど、あなたのために出るんじゃないんだよ。コーヒーのために出てください」

 その言葉を聞いて、護は赤面したと振り返る。

「本当に恥ずかしい思いをしました。あのとき、それを言われていなかったら今の私はありません。それ以来、自分にできることはなんでもやろうと思いました」(護)

 雑誌ではカフェ特集が組まれ、テレビ出演、講演も増えた。海外のコーヒー農園を視察し、買い付け、自家焙煎やカフェの経営を学ぶための講座もはじめた。スタッフの数は増え、文子は50歳から本格的な製菓を学び、護は日本や世界を飛び回った。かつて山谷と呼ばれた地域に多くの人が美味しいコーヒーを求めてやってくるようになった。日本各地、そして海外からも。



「もっといい場所に移転をしないか、支店を作らないかという話も何度かいただきました。でも、この地域だからこそのカフェ・バッハです。地域とつながり、人をつなげ、そこからまた新しい文化を生み出すカフェでありたい」

 護のその思いを支えるいくつものエピソードがある。

「日雇いの仕事がない雨の日は、お客さんと一緒に落語を聞いて、コーヒーのおかわりはしなくていいとお茶を出してみんなで笑った。コンサートの後、みんなでワイワイと歌っているときに初めて父親の歌声を聴いて、“お父さん、歌うまいんだね”と喜んでいた子は音大に進んだ。

 近所のお母さんたちから“子どもが学校に行けなくなった”“息子の成績が下がって困っている”と相談があれば、学生さんを紹介して2階で勉強会を開いた。そんな町を離れられないよ」(護)



 常連客だった労働福祉センターの社会福祉士、“小川さん”の仲介で、'95年からは精神障害のある人たちが就労する豊島区の事業所『cafeふれあい』にコーヒーを提供している。

 また、'00年からは、台東区で初めてできたハンディのある人たちの運営する『Cafe香逢』のサポートも行うようになった。店長の坂本信江さんは田口夫妻への思いをこう語ってくれた。

「メンバーと一緒にご挨拶にうかがったとき、マスターが、“自分たちを過小評価してはいけないよ。バッハはなくなってもいいけど、君たちのお店は生き残っていかなきゃいけない”と言ってくださった。その言葉を胸に、店を続けて18年です。ママさんにお店のお客様のことで悩みを相談すると、“いま話したでしょ。それで流れていくのよ。ためちゃダメよ”と声をかけてくださった。おふたりは、いつも人の心を落ち着かせるようなお話をしてくださいます」



■この街で次世代へのバトン



 ふたりは、人とのつながりを何よりも大切にしている。地位や名声は関係ない。ひとりひとりを、ひとりの人間としてリスペクトし、関わり続ける。

「開店して数年は、ご飯を作る暇もないほど忙しいときもありました。そうするとご近所さんがおかずを作って持ってきてくれた。今も、“命の恩人”って呼んでいます。心からそう思っているんです。余力のある人が大変な人を支える関係がこの町にはある。カフェ・バッハは、この町に育ててもらいました」(文子)

 2000年、沖縄サミットの晩餐会には、カフェ・バッハを代表するバッハブレンド が選ばれ、各国の首脳から好評を博した。2012年には日本スペシャルティコーヒー協会会長に田口護が就任し、日本のコーヒー業界は新しい時代を迎えた。世界でも稀に見る上質なコーヒーが日本に集まるようになっていた。

「コーヒーの質がとてもよくなって本当にうれしい。昔からこんなにいい豆が入手できる環境だったら、自家焙煎はやらなかったかもしれないね。ひとりでできることは限界がある。一代で終わっては誰もその先に行けない。文化は自分たちの世代が到達したすべてを次の世代に“どうぞ”と差し出してつなげていくことです。私が手にした知恵や知識を、また次の世代でさらに発展させてほしいと心から願っています」(護)

 この春、カフェ・バッハ総店長であり工場長の山田康一さん(40)が、田口夫妻の後継者として正式に決定した。

「製菓の専門学校に通っていたときに、田口に出会いました。コーヒーの授業の内容は実はよく覚えていないのですが(笑)、“よいものを後世に伝える”という言葉に強く惹かれました。もう20年以上前ですが、その言葉が私の原点です。迷ったときにはそこに立ち返ります。おふたりと同じようにはできないけれど、今ある技術をさらにブラッシュアップしていきたい。背伸びをすることなく、常によりよいものを作り続け、後世に伝えられるものを残したいと思っています」

 山田さんの言葉に、バッハの跡を継ぐプレッシャーは感じられない。これまでの20年間で確実に身につけたことを、これからも変わりなくしっかりと進めていくという強い信念だけが伝わってきた。

「後継者といっても、ああしろこうしろとは言いたくない。あとは好きなようにやってもらえばいい」と田口夫妻は声をそろえる。

 現在スタッフの数は16人まで増えた。そして、ふたりとも、まだ現役だ。今年81歳を迎える護は今もコーヒーの仕事で年に10回以上は海外へ飛ぶ。文子は製菓の現場で指揮をとる。

「ひとつひとつの出会いで人生は変わっていく。その中で大事なものをつかみ、必要のないものを手放してきた。そのときにつかむことができるものを見極め、しっかりとつかめるよう、自らの資質を高める努力をしてきました。これまでの出会いがひとつでも欠けていたら今の私たちはありません。そして今、このバッハがある。素晴らしいよね」(護)

 護と文子、ふたりを結びつけたカフェと音楽は、いつも山谷の町、地域の人たちとともにふたりのそばにあった。

 そして彼らに出会い、コーヒーを飲んだ人たちの胸に、カフェ・バッハは生き続けるだろう。

 これからも永遠に。




取材・文/太田美由紀(おおた・みゆき)大阪府生まれ。フリーライター、編集者。育児、教育、福祉、医療など「生きる」を軸に多数の雑誌、書籍に関わる。取材対象は赤ちゃんからダライ・ラマ法王まで。取材で培った知識を生かし、2017年、保育士免許取得。NHK Eテレ『すくすく子育て』リサーチャー。家族は息子2人と猫のトラ

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