平岡円四郎が執筆「慶喜公御言行私記」にみる一橋慶喜の実像

5月31日(月)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)

◉渋沢栄一と時代を生きた人々(8)「平岡円四郎①」
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65340)

将軍継嗣問題と平岡の立場

 平岡円四郎が一橋家に出仕したのは、嘉永6年(1853)12月であった。実はその半年前の6月、幕末の動乱の火ぶたを切るペリー来航という大変事が出来していた。ペリーは、和親と通商を求める大統領フィルモアの親書などを幕府に渡し、1年後に再来航すると言い残して日本を去った。その僅か10日後の6月22日、第12代将軍の徳川家慶が急死し、第13代将軍として家定が後を継いだ。

 しかし、家定は生まれながら病弱で暗愚であり、世継ぎの誕生も難しいとされた。既に家慶時代から憂慮されており、ここに将軍継嗣問題が持ち上がり、一橋慶喜を推す一橋派と紀州慶福(後の家茂)を推す南紀派の抗争に発展した。

 一橋派の推進者は、松平春嶽(福井藩主)・島津斉彬(薩摩藩)ら有司大名、水戸藩関係者(安島帯刀他)、老中阿部正弘、そして岩瀬忠震を始めとする海防掛などであった。彼らは英明・年長・人望ある将軍の下で、つまり将軍慶喜の下で、幕府権威の再強化を図ると同時に、自己の幕政参画を期待していた。

 一方で、南紀派の推進者は、徳川公儀体制(=現状)の維持を図る譜代大名が中心であり、特に妹が12代将軍家慶の側室であった紀州藩附家老・水野忠央による大奥工作が有効であったとされる。彼らは血統重視を最重要と考え、また今まで政治に関われなかった外部からの意見を拒否し、水戸斉昭を嫌悪する集団として結束したのだ。

 平岡は一橋家家臣として、慶喜の擁立に奔走することになる。ちなみに、慶喜は自身が将軍継嗣となることに否定的であったとされるが、その真相はいかがであろうか。

 そもそも、「ぜひ、私にやらせて欲しい」などと公言することなどできるはずもなく、表向きは「その器でない」と発言することになる。また、慶喜は実父斉昭が大奥の受けが極めて悪いことを知っており、慎重を期したこともあろう。いずれにしろ、最側近である平岡が慶喜の心中をないがしろにして行動するとは思えない。平岡が勝手にしたこととして、慶喜自身も将軍継嗣を期待していたと考えたい。


平岡円四郎・橋本左内・西郷隆盛の連携

 一橋派の中心にいたのが越前藩・松平春嶽(当時は慶永)であった。春嶽は最側近の橋本左内を重用し、将軍継嗣問題に奔走させていた。安政4年(1857)8月26日、左内は一橋邸で慶喜側近として、左内同様に将軍継嗣問題に奔走する平岡円四郎と初対面し、意気投合した。そして、同年秋頃、平岡は左内の要請を受け、「慶喜公御言行私記」を作成し、これを左内が「橋公行状記略」に編集し直し、春嶽が老中や諸大名に配布して、慶喜擁立運動の一助としたのだ。

 それに加え、もう一つの一橋派の活動ルートが出来上がる。同年12月6日、西郷隆盛が江戸に到着し左内の許に向かった。これは、島津斉彬が春嶽に対し、西郷を家臣同様に心置きなく、大奥対策などで使役することを手紙に認めたことによる。西郷は12月8日、13日の2日間にわたって左内と会談し、「橋公行状略記」を大奥で配布して、一橋継嗣を推進する策略を練り上げたのだ。14日に左内と西郷との間で書簡が3通往復しているが、その時に左内から西郷に「橋公行状記略」が渡されている。

 西郷の左内宛書簡(安政5年(1858)1月19日)によると、篤姫・生島(大奥女官)・小の島(薩摩屋敷老女・篤姫侍女)に働きかけて大奥工作を開始しており、篤姫らから本寿院(家定の生母)の姉である本立院、幕医の戸田静海へ慶喜擁立への周旋を依頼していることが確認できる。この時、「橋公行状記略」が使用されていることは間違いなかろう。

 つまり、橋本左内をハブにして、平岡円四郎と西郷隆盛が連携している驚くべき事実が浮かび上がる。両者は面識こそなかったが、当然、左内から様々な経緯を聞く中で、それぞれの名前を聞いたはずであり、慶喜擁立に向けて、一致団結して臨んでいたことになるのだ。


平岡円四郎の「慶喜公御言行私記」

 橋本左内からの要請を踏まえ、平岡円四郎が書きまとめた「慶喜公御言行私記」は、慶喜の優れた7つの事績の話から構成されており、慶喜がいかに次期将軍としてふさわしい人物であるかを、広くアピールする内容となっている。筆者が印象に残ったのは、島津斉彬とのやり取りの顛末である。

 安政4年春、斉彬は一橋家に使者を立てペリーが幕府に献上し、今は幕府の御物となっているライフル銃をぜひ拝見したいと頼み込んだ。その理由は、筆頭老中の阿部正弘にそのことを内密に相談したところ、アメリカから献上された鉄砲は幕府秘蔵のものとなっており、御三卿は特別であるものの、御三家にさえも拝見と称してお下げになるのは難しいと、断られてしまい、非常に残念に思っていた。

 そこで斉彬は、御三卿である慶喜に対して、鉄砲の拝借願いを幕府に出してもらい、ご覧済みならば斉彬に内々に拝借させていただきたいと依頼したのだ。

 慶喜は斉彬に対し、「厚相含可申」と素気なく回答をしただけであったが、平岡には本心を語った。慶喜は、幕府がライフルを秘蔵の品というのは合点がいくものではなく、外国が我が国へ贈ってきたものは、いわば敵に贈るようなものだから、そもそも、秘密のものとすることは、いかがな料簡であろうか。

 幕府が外様や御三家にまで秘密にするのは、どんな理由があるのか理解できないと吐露する。また慶喜は、島津家は将軍家とは姻戚関係にあり、しかも藩主の斉彬は諸候の中でも随一の人物との聞こえも高い存在である。たかが鉄砲一挺のことで斉彬が不快な感情を抱けば、それは幕府にとってむしろ益にはならないと憤慨する。

 慶喜は続けて、ライフルは実用品なので幕府が試作品を製作し、御三家を始め国持大名などに一挺ずつでも配ったらいかがと述べ、一挺の鉄砲をけちって有事にあたり、どの諸侯を頼みとして外国に対抗するのか、斉彬の心底を察するに余りあると嘆息した。

 平岡はそれに対し、「御尤至極御同意」と全面的に慶喜に賛同した。そこで平岡は、斉彬の内願通りに取り計らうつもりか確認したところ、慶喜は斉彬に又貸しをしてしまったら、幕府に対して以ての外の行為である。かといって、このまま斉彬が不快のままであることも問題なので、阿部老中を説得して秘蔵することは止めさせようと回答した。その後、慶喜の計らいで、阿部に掛け合って斉彬にライフルが下賜され、斉彬が大いに満足したことを、慶喜も大変に喜んだ。

 平岡は、この一連の慶喜の言動に対し、誠にその論理は撤密であり、処置も的確と言え、感心したと結んでいる。慶喜がナンバーワン諸侯である斉彬と渡り合い、問題の本質をつかんでうまく解決したことが、このエピソードから読み取れよう。ちなみに、斉彬は当時、一橋派を代表して、慶喜を推戴するに値する人物であるかを探っており、ライフル問題は斉彬が慶喜の値踏みをする口実であったかも知れない。

 なお、平岡は慶喜の攘夷論は斉昭の固陋な攘夷論とは異質なもので、事柄に応じて取捨選択をし、一方的に攘夷実行を唱えるのではなく、外国の長所を取り入れようとする柔軟性を持ち合わせていると述べる。

 これは、慶喜が聡明で偏信ではなく、人を慈しみ短所も長所も見抜いて受け入れることができる人物であるからだと賞揚し、東照宮、つまり家康の神孫であると断言する。「慶喜公御言行私記」に記された慶喜の優れた事績は、家康に直結するものであると声高に強調し、血統では不利である慶喜を擁護している。また、斉昭とも一線を画す人物とも強調しており、斉昭に拒否反応を示す対象者に対する対策も施した、将軍継嗣問題のために作られた政治的な広報誌としての役割を見て取れよう。

 しかし、実際に配布された「橋公行状記略」がどの程度、一橋派に益をもたらしたかは分からない。逆に、家定の周辺では、ことさら慶喜を称揚する「橋公行状記略」に不快感を覚えたかも知れない。いずれにしろ、「橋公行状記略」は一橋派の必死の工作の一環であったことは間違いない。そして、いよいよ井伊直弼の登場となり、安政の大獄が始まることになる。平岡の運命も風前の灯火となったのだ。

筆者:町田 明広

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