【真相究明】徳川を祟る「伝説の妖刀・村正」、実は大量生産の安物だった! 美術品・文化財的な価値もなし、イメージと真逆の実態

6月8日(木)7時30分 tocana

イメージ画像は、「Thinkstock」より

写真を拡大

 妖刀村正——。江戸幕府の公式記録『徳川実紀』などによれば、徳川家康の祖父は、村正の刀で殺されたそうです。そして、家康の父親を襲った刺客も村正の脇差を持っていました。また、家康の嫡男である信康の切腹の折、介錯に使われた刀も村正でした。さらに、家康自身もまた、村正の刀で何度も傷を負っています。

【その他の画像はコチラ→http://tocana.jp/2017/06/post_13038.html】

 このように村正といえば、今なお「徳川を4代にわたって害したため、徳川家康が直々に持つことを禁じた、徳川家に仇なす妖刀」か、あるいは単に「妖刀」として知られている非常に有名な刀です。時代が江戸から明治へと変わる幕末には、その伝承が巡って「縁起物」となり、幕府に敵対する倒幕派の志士たちは、こぞって村正の刀を求めたといいます。


■実は評価が低い!? 村正の本当の価値

 そして村正と徳川家に関しては、史実として比較的最近のエピソードも残されています。皇族でありながら、自ら志願して幕府討伐軍の総司令官に就任したバリバリの倒幕派「有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)」は、腰刀として村正を身に付けていました。

 しかし実のところ、村正は美術品として見た場合の評価が低い、よって皇族が身に付けるにふさわしくない刀なのです。例えるならば式典に普段着で臨むようなもので、おそらく周囲の反対を相当に受けたはず。それでもなお「徳川に仇なす」という縁起を担ぎ、あえて村正を選ばれたのです。親王の倒幕への執念と覚悟が感じられる逸話といえるでしょう。

 この「有栖川宮親王の村正」とでも呼ぶべき、ある意味では本当に徳川に仇をなした、と確たる証拠がある村正は現存しており、東京都渋谷区の刀剣博物館に保管されています。展示会の時期を選べば、実物を見ることも可能です。


■刀匠「村正」とは?

 それでは、「村正」という刀匠と「村正の刀」について説明していきましょう。

 村正は、室町時代中期から江戸時代(14〜16世紀)にかけて活躍した刀匠です。彼の出身は、現在の岐阜県南部の関市、今でも「関の刃物」で世界的に知られている刀の名産地です。しばらくは生まれ故郷である関で活動していたのですが、後に現在の三重県北東部の桑名市へと移住し、そこで「村正」の刀匠名を名乗り、3代にわたり刀を作り続けています。

 村正の刀の特徴は「直刃(すぐは)に近い刃紋(刀身の模様)と、タナゴ腹の茎(なかご。持ち手となる柄に覆われる部分)」などですが、ここでは省きます。それよりも重要なのは、刀匠村正と村正派の特徴として、「数打ち」という大量生産をよしとする向きがあったことです。数打ちの刀とは、基本的にどれだけ安く早く大量に作れるかが重要で、武器としての性能は低い粗悪なものです。

 しかし村正は、名高い刀と刀匠を数多く輩出した「関鍛冶」の出身。おそらく故郷で受けた教えや経験などから、品質と手間のバランスを見極めたのでしょう、価格の安い量産品の数打ちながらも斬れ味は鋭いという、奇跡的な刀を作っていたのです。

 各種資料においても、村正の刀はおおむね「名刀には敵わないものの、数打ちとは思えないほどよく斬れる」という評価を受けています。要するに村正は「コストパフォーマンス抜群の刀」という訳です。


■大量生産品の安物だった村正

 そして村正が活躍した時期は、ちょうど時代が入れ替わる戦乱の時期と一致しています。いざ合戦となれば、当然ながら兵士に持たせる武器が大量に必要となります。そのような時代に、大量発注に応じてくれて価格は安く、さらによく斬れるという、コスパ抜群の村正の刀が見逃される理由はありません。村正が住んでいた地域周辺を所領とする大名や武士たちは、こぞって村正の作った武器を買い求めました。もちろん村正も、それに応じて大量の刀を作っていったのです。

 大量生産の数打ちをよしとした村正の刀は、もちろん現代まで複数伝わっているのですが、ほかの名高い刀匠……たとえば正宗の刀のように、日本政府から国宝や重要文化財などに指定されたものはひとつもありません。これはすなわち、村正の刀には美術的、文化的な価値がほとんどない、ということです。

 そして量産品だけあり、村正の刀には名刀にありがちな逸話が非常に少なく、そのため号(その刀の逸話などを由来とする通称。たとえば刀身を振らず押し当てることで人体を両断した、つまり“へし切った”という伝承を持つ“へし切長谷部”など)の付いた刀もほとんどありません。

 そのような刀匠の刀が、なぜ高い知名度を得るに至ったのでしょうか。堂々巡りとなりますが、理由はもちろん、冒頭の徳川家を害したエピソードからです。

 それでは、逆に考えてみましょう、村正の刀はどうして徳川家を害すことができたのでしょうか。実のところ、ここまで紹介してきた刀匠村正の特徴を併せて考えれば、確率的にそうなっても仕方がない、という結論に至るのです。


■村正が徳川家を害した、ごく当たり前の理由

 村正が、現在の三重県北東部の桑名市で活躍した刀匠であり大量生産の数打ちをよしとしていたこと、村正の刀は安くてよく斬れるコストパフォーマンス抜群の品であること、さらに村正の周囲に住む大名や武士たちが村正の刀を大量に買い求めたということは先述した通りです。

 これら村正の事情を、時代的、地理的な背景に照らし合わせて考えてみましょう。江戸幕府を開く前、徳川家が治めていたのは三重県の東隣にある現在の愛知県岡崎市周辺で、村正の工房があった三重県桑名市とは直線距離で約50kmと、比較的近い場所にありました。そしてこの時代は交通の便が悪く、遠方から陸路で物を運ぶのは困難かつ危険なことでした。また、三重県と愛知県を挟む伊勢湾は穏やかで、古くから海運が盛んに行われていた場所です。

 ここまで書けばもうおわかりでしょう。徳川家の周りには、三河武士たちがこぞって買い求めた、切れ味鋭い村正の刀が大量に流通していたのです。周りにいるたくさんの人々が村正の刀を持っていたがため、村正の刀はたまたま徳川家に害をなしてしまい、結果として妖刀扱いを受けるに至った、という訳です。

 そう、徳川を害する妖刀村正伝説は偶然の産物なのです。


■妖刀村正伝説の放つ「妖しさ」

 さらに指摘するならば、実はこの妖刀伝説自体、その出自や由来があやふやなものなのです。家康は特注でもしたのか、異色の逸品と評される珍しい特徴を持つ村正の刀を愛用し、決して手放さなかったと伝えられています。この村正は、尾張徳川家の品々が展示されている愛知県の「徳川美術館」に収蔵されている、由緒正しきものです。家康が本当に村正を嫌っていたのならば、尾張徳川家に「家康の村正」が残されているはずがありません。

 ですが、「村正は徳川を祟る妖刀」という噂がいつしか生まれ、広がって行きました。やがて「妖刀村正」の登場する歌舞伎や講談がいくつも作られ、それによって妖刀村正伝説は一般市民にまで広く知られるところとなり、完全に定着したのです。おかしなことに、時代が進むにつれて当の江戸幕府内でさえ「村正は忌むべき存在である」という認識を持つに至っています。

 実のところ、妖刀村正伝説における最も不可思議な点は、徳川家を害したエピソードではなく、その伝説が生まれた経緯と発祥なのです。いくつか仮説は立てられていますが、いずれも決定力に欠けるものでしかありません。

 つまり「妖刀村正伝説」は、歴史に埋もれたミステリーといえるのです。
(文=たけしな竜美)


※イメージ画像は、「Thinkstock」より

tocana

「伝説」をもっと詳しく

「伝説」のニュース

トピックス

BIGLOBE
トップへ