夫の急死・自身のがん・そして車イス卓球、戦い続けた “71歳現役選手” の「生きる力」

6月22日(土)11時0分 週刊女性PRIME

車イス卓球選手 別所キミヱさん 撮影/齋藤周造

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 美しいネイルとバッチリメイク、派手な髪飾りが印象的なベテラン車イス卓球女性選手がコートの前に陣取った。その人の名は別所キミヱ。

「国際大会のときは特に“敵を編み込む”というゲン担ぎを兼ねて、朝から髪を編み込みにして、蝶の飾りを埋め込んでいます。ゴールドに日の丸をあしらったネイルとつけまつげもトレードマーク。おしゃれは私の“勝負服”、そうすることで初めて戦闘モードに突入できる。自分に欠かせないものなんです」

■「今は、来年の東京を目指している」





 2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドン、2016年リオデジャネイロと4度のパラリンピックに出場した偉大なプレーヤーだ。彼女は右手でしっかりとマイラケットを握り、小さなボールを凝視。集中して一球一球に反応する。そのオーラは他を圧倒するものがあった。

 特定の組織に属さない彼女は、地元の明石や神戸、加古川に加え、大阪や東京など6〜7の拠点を渡り歩き、練習を積み重ねている。姫路のテーブルテニスショップタカハシ(TTS)のママさん卓球教室もそのひとつ。4月中旬に訪れると、仲間の主婦たちに笑顔で迎えられた。「この人はホンマすごいんや」と羨望の眼差しで見つめられる中、基本のラリーが始まった。

 右手にラケットを握りしめ、フォアハンドを徹底して打ち続けた後は、得意のバックハンドの精度を上げる。最後には「マジック球」と名づけたコース狙いの浮き球も確認する。練習時間は約2時間。一瞬たりとも集中を欠かさず、小さなミスをするたび、「アカンわ」と厳しい表情で卓球台を睨みつける。その姿は「勝負師」そのものだった。

 コーチの荒川翔一さんは、指導を始めて10年以上の付き合いになる。

「メダルを目指してロンドンまで全力投球した後、“これからどうするんだろう”と思いました。正直、やめるのかなと。でも、リオに行き、今は来年の東京を目指している。一球一球に強くこだわり、“先生、これでええんか?”と僕にアドバイスを求める積極性も変わりません。どこまで突き進むのかと驚かされるばかりです。最近3大会のパラはずっと5位なんですが、ここまで来たら行くところまで行ってほしい。僕は気のすむまでお手伝いをしたいです」

 車イスのハンディキャップを全く感じさせない別所さんのアグレッシブかつチャレンジングな人生を追った。



 別所さんが生まれたのは戦後間もない1947年12月。広島県と島根県の県境に近い安芸太田町という人口6000人足らずの小さな町で8人きょうだいの末っ子として可愛がられた。

 墓石の手彫り職人だった父・麻人さんを、母・末子さんは農作業をしながら支えた。気丈な母は畑に出るときもネッカチーフで髪の毛を包み、きれいに化粧をすることを忘れなかった。その影響を受けた別所さんは幼いころからおしゃれが大好きで、1日に3度も洋服を着替えたり、七輪で髪の毛を焼いてパーマもどきの髪型にしたり、赤い紙を水で湿らせてできた紅色を唇に塗る大人びた女の子だった。

■20歳で結婚、40歳で死別





 汽車が2時間に1本しか走らないような山奥で、のびのび育ったという。

「出かけた先で汽車を待っていられなくてね。1時間半がかりで歩いて山越えして帰ったりするような、じっとしていられない活発な少女でした。小中学校ではリレーの選手。ハードルや走り高跳びもやったし、バレーボールも本格的に取り組んだ。かなり活躍しましたよ(笑)」

 関西に出たのは高校卒業後、18歳のころ。パン好きが高じて大阪のパン屋さんに就職し豊中市にあるスーパーの店舗に配属された。

 見よう見まねでサンドイッチを作り、お客さんと会話を交わす充実した日々。寮生活をしていた別所さんは会社のバスで通勤していて、その運転手が後に夫となる勇さんだった。2人はすぐに意気投合し、別所さんが20歳のときに結婚する。

 その後、夫が兄の食品関連販売の仕事を手伝うことになり、兵庫県明石市に引っ越し。別所さんも仕事をやめて同行する。同じころには長男・勇人さんも生まれ、2年後には次男・将人さんも誕生。夫が独立して事業を始めるなど、一家の暮らし向きは目まぐるしく変化したが、彼女が明るく気丈に家族を支えた。

 次男の将人さんは当時をこう振り返る。

「“昭和の親父”だった父は、僕が入っていたソフトボール少年団のコーチをしていたので、ウチにはいつもたくさんの人が来ていました。オカンも料理を作ったり、世話を焼いたりして、人をもてなすのが好きやった。にぎやかな家だったと思います」



 その別所家に異変が起きたのは、'87年9月。夫の勇さんが夜中に突如、激しい頭痛を訴えたことが発端だった。

「救急車を呼んだほうがいいんと違う?」

 別所さんは心配して訴えた。だが、夫は「いや、こんな夜中に近所迷惑や。明日病院に行くわ」と軽く受け流した。意識もしっかりしていて歩ける状態だったため、その日は様子を見ることに。翌朝、病院へ行くと、医師が予期せぬ病名を口にした。

「くも膜下出血です」

 手術もできないと言われ、動揺するばかり。寮生活をしていた高校3年の長男・勇人さんを呼ぶのが精いっぱいだった。そして翌朝、夫は「子どもたちを頼む」という言葉を残し、43歳の若さでこの世を去った。

「あまりに突然すぎて放心状態。後悔の念にさいなまれました。“もっといい病院に連れて行ってあげていたらよかった”“夜のうちに救急車を呼んだらよかった”という気持ちが襲ってきて、どうにもなりませんでした」

 打ちひしがれる母親の姿が勇人さんは今も脳裏に焼きついて離れない。



「オカンは憔悴しきっていましたね。当時まだ40歳くらいでしょ。連れ合いが亡くなるにはあまりにも早すぎる年齢だった。1年くらいは毎日、仏壇の前で泣いていました」

 それでも、子ども2人を抱えた母親として、じっとしているわけにもいかない。

■希少がんの一種、2度の大手術



「お父さんに“子どもたちを頼む”と言われたし、頑張らなアカンと自分を奮い立たせ、ガソリンスタンドで懸命に働きました。翌年には勇人も高校を卒業し、就職して家計を助けてくれるようになった。暮らしのリズムが少しずつ戻り始めました」



 だが、伴侶の死から2年もたたないうちに次なる試練が別所さんを襲う。

 昭和から平成へと時代が変わってすぐの1989年春、腰と足のしびれに悩まされるようになったのだ。最初は近所の整形外科やハリ治療に通ったものの、一向に改善の兆しがない。11月には歩けないほどの激痛を感じ、兵庫県加古川病院(現医療センター)に入院。「椎間板ヘルニア」と診断され、神戸労災病院に転院した。そこで4〜5か月に及んだ精密検査の結果、「仙骨巨細胞腫」と判明。聞いたこともない病名だった。

 主治医の裏辻雅章医師にはこう説明された。

「仙骨とは骨盤の中央にある骨。その周りに腫瘍ができる病です。一応は良性腫瘍とされているものの、再発しやすく、そのたびに悪性度が増していく。別所さんの場合は腫瘍によって仙骨の一部が溶けていて、足につながる神経も腫瘍に巻き込まれています」

 日本人では年間500〜800人が発症するとされる希少がんの一種。手術は翌'90年1月に決まったが、仙骨の近くには大きな血管が集まっているため、大量の輸血が必要だった。そこで2人の息子が周囲に呼びかけ、当日は60人もの有志が血液を提供。26時間の大手術は無事成功した。

「最初の3か月間はほぼベッドに横になっているだけ。5か月入院しましたけど、ひざや腰の痛みがとにかくしんどかった。そんなとき、鏡に映る自分の姿にゲンナリして、婦長さんにムリヤリ頼んで白髪染めをさせてもらったんです。それだけで気分がスッキリしました。やっぱりきれいにしていないと元気になれへん。それが自分なんです」

 こうして退院にこぎつけ、リハビリに専念したが、痛みは治まらない。徐々に激痛が走るようになり、耐えきれないほどになった。

「これは、絶対におかしい」

 異変を察知し、再び労災病院へ行くと、裏辻医師は静かにこう告げた。

「別所さん、再発ですね」

 最初の手術では神経を可能な限り残すため、腫瘍のある部分だけを切除したが、2度目はそうもいかない。「歩けなくなる」とも宣告され、セカンドオピニオンを取るべく京都大学へ。それは夫を亡くしたときの反省からだ。

「あのとき、別の病院でよく調べていたら、お父さんは死ななくてすんだかもしれない」という悔恨の念を抱き続けた彼女は、納得できる判断を下そうとしたのだ。



 しかし、診断結果は同じだった。別所さんは裏辻医師に運命を託す。2度目の手術は'91年1月。前回以上の輸血が必要となり、86人から血液を募って、ドクター20人態勢で34時間がかりの大手術が行われた。1度は心臓が止まる危機にも瀕したが、強い生命力を発揮し、持ちこたえた。



■いっそ死んでしまいたい



 勇人さんはこの日のことを克明に記憶している。

「“子どもらもおるし、このまま別所さんを亡くならせるわけにはいかないと思って、必死に頑張りました”と手術室から出てきた先生に言われて、心から感謝の気持ちが湧いてきましたね。裏辻先生に出会えたのが母の幸運。僕らも力づけられました」

 一命はとりとめたものの、社会復帰にはとてつもなく長い時間を要した。入院期間は1度目よりはるかに長い10か月。退院後も「歩けない」という厳しい現実を前に、気持ちは暗く沈んだままだった。

「“車イスでどうやって生きていけばええんやろ”と途方に暮れました。息子たちもまだ20歳そこそこ。“主人が生きていてくれたら”とこのときほど思ったことはありません。車イスに乗った人間を憐れむ周囲の目線が嫌で、夜中に松葉杖で歩く練習もしたけど、うまくいかない。いっそ死んでしまいたいとさえ考えたこともありましたね」

 絶望の淵に立たされた別所さんを救ったのが椿野利恵さんだ。

 同じ職場で働いたことがあり、夫の生前から付き合いのあった親友は、毎日のように家に通って懸命に励ました。「できないことを嘆くより、できたことを喜べばいいのよ」そう伝え続けたという。

「最初は車イス生活を受け入れられずにつらかったんだと思います。子どもたちにも泣き言は言えない。私は“近くで見守っているお姉さん”的な存在で、弱音を吐くことができたのかもしれません。苦しむ別所さんを目の当たりにして、少しでも前向きになってほしいと思いました」

 椿野さんの言葉はスッと心に入ってきた。車イス生活になった今、できないことはたくさんあるけど、新たな人生を積み上げていけばいいのだ。「大きなターニングポイントになった」という別所さんはようやく一歩を踏み出した。



 第一歩は得意の手芸だった。友人が開いた喫茶店で小物を販売してくれることになり、ぬいぐるみやキーホルダー、アームバンドなどの小物を作った。徐々に売れるようになり、生きる喜びを体感できた。最初はイスに数分間座ることも大変だったのに、作業できる時間も長くなる。退院から半年後には鎮痛剤の注射も打たなくなり、やがて外出も可能になった。



■卓球と出会い、劣等感がなくなった



 エネルギッシュなかつての自分を取り戻しつつあった別所さんが、次に出会ったのがスポーツ。車いすバスケットボールを取り上げた新聞記事を目にして、「自分もやりたい」と意欲が湧いてきたのだ。

 兵庫県リハビリテーションセンターの障害者体育館に問い合わせ、見学に向かうと、車イスに乗ってバスケをする選手のイキイキと輝く姿が目に飛び込んできた。「自分もスポーツをやりたい」という感情が込み上げてきた。

「バスケは腰に金属プレートが入っていて難しいし、慣れ親しんだバレーボールは床に座るから負担が大きい。外の競技はムリやし、卓球しかないのかな。そう思って翌週には練習に参加していました」

 見よう見まねでラケットを振ると、意外にもうまく球を返せた。歩行機能を失っても天性の運動神経のよさは健在だった。日に日に上達し、試合にも勝てるようになるのがうれしくて、のめり込んでいった。

「“車イスになってかわいそう”“障害があって大変だな”という偏見が嫌で嫌でたまらなかったけど、卓球をしているうちに恥ずかしさや劣等感もなくなりました」

 卓球を始めて「社会とつながりたい」という思いも強まった。

 生活基盤を確立させる必要もあり、'94年4月には障害者のための技術専門学院に入学。宝飾工芸課で宝石の鑑定やサイズ直しなどを1年かけて学んだ。ほぼ同時期に手動運転装置付き自動車の運転も始めた。勇人さんからは「事故に遭ったらどうするねん」と心配されたが、別所さんは自由に動ける環境を求めた。

 だが、学校と卓球を両立できるようになり、迎えた'95年。阪神・淡路大震災が発生して就職環境が一変する。目指していた宝飾関係が難しくなり、知人の紹介でカフェに勤務することになった。

 新たな生活がスタートし、仕事と卓球に一層力を入れた。

 '94年の国際クラス別卓球選手権初優勝、'96年の故郷・広島での全国身体障害者スポーツ大会優勝と着実に結果も出るようになった。冒頭のママさん教室に通ったり、健常者に車イスに座ってラリーをしてもらったり、練習相手を求めて岡山や和歌山まで足を延ばしたり、卓球教本を読み込んだりと、強くなるためにやれることは何でもやった。「ホンマ、卓球のために生きてると言っても過言ではないくらい」と話し笑顔をのぞかせた。



 '99年からは国際大会にも参戦。卓球王国・中国のレベルの高さに度肝を抜かれ、ライバル選手との駆け引きを繰り返しながら「世界のスケールの大きさ」を体感。椿野さんも驚くほどの劇的な変化を遂げていった。

「今月は中国、来月はアメリカと世界を駆け回り、言葉の壁をものともせずに外国の人と仲よくなっていく別所さんを見るたびに心が震えましたね。海外遠征に行くときも得意の手芸で小物を作ってプレゼントしている。気配りもすごいなと思いました」



■56歳、日の丸を背負う



 2002年にはパラリンピックに次ぐグレードの国際大会である世界選手権(台北)にも出場。2004年アテネに大きく近づいた。パラリンピックに出場できるのは、国際大会で稼いだポイントによる世界ランキング上位者だけ。

 別所さんは立って試合をすることはできないが、座位バランスは良好で、骨盤を保持して体幹の動作が可能であるため、車イスのなかでは最も障害が軽い「クラス5」に入っていた。そのクラスで、世界ランキングを上げることができれば、大舞台に手が届くところまで来ていたのだ。

「やるからには、アテネへ行くんや」

 腹を括った彼女は2003年3月から半年間、カフェの仕事を休んで世界を転戦。アメリカ、メキシコ、イタリア、スロバキアなど8大会に出場した。2004年1月1日付の世界ランキングを10位前後まで上げ、ついにアテネの切符を手にした。一時は生死の境をさまよい、生きる希望を失いかけた56歳の女性が日の丸を背負い、パラリンピックの舞台に立つに至ったのは、快挙と言っていい。

「アテネに行く前から“パラリンピックってどんなものなんだろう”って想像していたけど、開会式が盛大で、他競技の選手と交流できてホントに楽しかったですね。大会の雰囲気の印象が強いかな」

 と別所さんは微笑む。

 試合はグループリーグ1勝2敗で予選敗退したが、「もっと上へ」という意欲はとどまるところを知らなかった。

 4年後の北京は、次男・将人さんや椿野さんファミリーが応援に駆けつける中、5位入賞。前回より順位を上げた。



「孫の佑星が“おばあちゃーん”と大声で叫んでくれたときは身体の力が抜けましたね。パラの卓球選手では史上最年長ということで、中国のテレビ局からも取材を受けましたけど、現地で“老女(ろうば)”と報じられてね(苦笑)。最初は“なんやねん”と思ったけど、反響がすごくて、試合会場でサイン攻めにあった。注目されたことは素直にうれしく感じました。後から中国の卓球選手に聞いたんですけど、老女には“尊敬する”という意味もあるんだそうです。そうわかって、何だかホッとしました」

 充実感を覚える一方で、メダルの懸かった試合でヨルダン選手に敗れた悔しさも胸に深く刻まれた。愛する家族や親友、2度の手術で輸血に協力してくれた人、卓球の活動を支えてくれる人のためにも、ロンドンでは何としても勝ちたいと思った。



 より多くの練習時間を確保するため、2009年にはカフェの仕事を辞めた。金銭的にはかなり厳しくなったが、そこで手を差しのべてくれたのが日本郵政だ。電話対応の仕事で採用され、卓球の活動費用の一部を負担してもらえることになったのだ。それ以前から「バタフライ」の商標で知られる卓球メーカー・タマスともアドバイザリースタッフ契約を結び、用具提供を受けていたが、加えて日本郵政がついたことは、別所さんの大きな力になった。

 2社は現在も支援を継続してくれているが、コーチ代、パラ出場に必須の国際大会参加費など自己負担も少なくない。「大会参加費だけで10万円ちょっとかかりますし、欧州遠征だと40万円は必要ですよね。すべてを賄ってもらえるわけじゃないからホントに大変。年金だけじゃとても暮らせない」と苦笑する。

 子どもに経済的負担をかけるつもりはなく、イベントや講演活動も幅広く手がけるが、最近は体調の問題もあって思うようにこなせないという。

「1年後の東京パラが近づいてきて、障害者スポーツの環境がよくなったと思われがちやけど、みんなが恵まれているわけじゃない。企業所属や大きなスポンサーがついているのはほんの一握り。私のように練習場所を探して予約するところから始めて、あちこち転々としたり、コーチや相手を見つけるのに四苦八苦する人は多いんやないかな。そこはみなさんにも知ってもらいたいですね」

 と別所さんは険しい表情を浮かべた。

■「派手」さがパワーアップする理由



 それでもあきらめないのが彼女である。ロンドン前からは「マジック球」と「スパイラル打法」というオリジナルの武器習得にも励み始めた。「マジック球」というのはラケットで球に回転をかけ、ポーンと高く上げるボール。敵陣に落ちた瞬間に曲がって外に出るから、相手はレシーブができなくなる。

 もうひとつの「スパイラル打法」は肩を使って腕を回しながら打つもの。敵はタテに来るのか斜めに来るのか読みづらく、リターンできなくなる。特に後者は、理論を開発した名将にお願いし、東京から姫路のTTSに招いたほど。荒川コーチと一緒に指導を受け、2人で時間をかけてここまで積み上げてきた。

「別所さんは新しいことを次々と取り入れようとする選手。高齢なのでスピードや反応で若い選手に勝つのは厳しいですから、違うプレースタイルを目指されています。1セットの11点全部を浮き球で確保してもいいくらいになれば、もしかしたらメダルの壁を破れるかもしれない。僕はそう考えています」



 テンションを高めるための秘策「おしゃれ」にもより強くこだわった。別所さんは目を輝かせる。

「北京の5位入賞から浮上したくて、この10年は一層のハデハデを目指してきました」

 多彩な角度から自分を見つめ直して挑んだロンドンはまたも5位。リオも5位と3大会連続入賞止まり。70歳手前のべテラン選手がこの位置をキープしただけで称賛されるべきだが、「まだまだ」という気持ちを捨てきれない。「絶対に負けたくない」というのが、別所キミヱの確固たるポリシーなのだ。

 だからこそ、5度目の東京には是が非でも出てほしい。「周りのレベルも上がっていますし、東京を目指すなんてまだとても言えない」と本人は慎重なスタンスを崩していないが、2019年は5月のスロベニアを皮切りに、ポーランド、チェコ、フィンランド、オランダの国際大会に参戦するつもりだ。7月の台北でのアジア選手権、8月の東京オープンにも出る予定で、メンタル的には「戦う気満々」。



■「卓球=私」やから



 しかし今、予期せぬ苦境が別所さんを襲っている。

 実は2018年夏から短期間に3度の交通事故に遭い、ひざと背中を痛め、秋以降の国際大会を棒に振っていた。ランキングからはずれ再びゼロから積み上げないといけなくなった。

 現在も右足に力が入らず、ラケットを握る右手もしびれが残る状態だという。命を落としていたかもしれない危険に遭遇し、身体も万全でない70代の人間なら、普通は「もうあきらめよう」と考えるだろう。けれど彼女は「いろんなことに対して負けたくない」と戦い続けようとしている。

「自分から卓球を取ったら何も残らへん。“卓球=私”やから、何事も乗り越えないといけないんです」

 前へ前へと突き進む母の姿に長男・勇人さんは少し複雑な心境をのぞかせる。

「車イスの人は血栓ができやすいと聞きますし、心臓発作になったらと思うと不安です。70過ぎの母が卓球に携わるのは障害者の希望でしょうけど、息子としてはもろ手を挙げて賛成とは言えない。指導者として東京を目指すのなら大歓迎。そうしてくれたら僕はパラを見に行きます」

 心配性の兄とは対照的に、次男・将人さんは「やれるところまでやったらええやん」と力強く背中を押す。

「北京のときはいちばん下の娘が生まれる前で連れて行ってあげられなかった。今、小学4年生になった娘は母の血を引いて運動能力が高く、柔道の軽量級で全国大会に出るレベルまで来たんです。来年夏に東京で開かれる全国大会に娘が出て、母も9月のパラに行ってくれれば、最高のシナリオ。次こそメダルを取ってほしいです」

 親友・椿野さんも「あの人なら絶対にやれる」と太鼓判を押す。

 早すぎる伴侶の死、自身の大病、車イス生活というさまざまな困難を乗り越えてきたタフなメンタリティーは間違いなく常人離れしている。この先も自分の道を貫いていけるはずだ。

「卓球をやるようになって、外国人を含めた大勢の人と関わりができて、世界が広がり、人生が大きく変わりました。そういう意味で、卓球に感謝しています。輸血してくださった方、スポンサーさんなど応援してくれる方々の恩に報いるためにも、やれるところまではやり続けたいんです」

 別所さんの強く逞しい生き方は、前向きになることの大切さと素晴らしさを、われわれに教えてくれている。人はいくつになってもキラキラ輝ける。彼女の挑戦に終わりはない。




取材・文/元川悦子(もとかわ・えつこ)'67年、長野県松本市生まれ。サッカーを中心にスポーツ取材を手がけ、ワールドカップは'94年アメリカ大会から6大会連続で現地取材。著書に『黄金世代』(スキージャーナル社)、『僕らがサッカーボーイズだった頃1・2』(カンゼン)、『勝利の街に響け凱歌、松本山雅という奇跡のクラブ』(汐文社)

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